「アンパンマンのマーチ」とマックス・ウェーバーが見た神なき世界の話

前編: グローバリゼーションとは、いかなる現象であるのか?
後編: グローバリゼーションとはつまり、共通の基準による価値観の統合なのではないかという話

♪ 何のために生まれて、何をして生きるのか~

アンパンマンのマーチで掲げられた問いに導かれて(というわけではないのだけれど)、『プロ倫』(大塚訳、中山訳)⇒『マックス・ウェーバー入門』(牧野版、山之内版)⇒『マックス・ウェーバーと近代』(姜尚中)に至る。

さすがに同時代人である姜尚中先生のウェーバー論は秀逸。ここでやっと近代合理主義、そして近代的自我とは何か?ということについて自分なりに納得のいく答えを得ることができた。

では、近代的自我とは一体何かという問いの答えは、これはもう『マックス・ウェーバーと近代』(姜尚中)中の次の一節が過不足なく説明している。

"「文化人」とは、「脱魔術化」とともに先験的な意味や価値を失った世界に直面し、いわば虚無の深淵をのぞき込みつつも、その没個性的な世界に対して意味を付与していく〈近代〉的な主体を指している"

「文化人」はそのまま近代的自我と読み替えて差し支えないだろう。「脱魔術化」というのは『プロ倫』を貫くテーマだが、これは人智を超えた世界の不条理などに対する説明について、その答えを主に宗教に求められなくなってしまったことを指す。

例えば、予期せぬ自然災害によって多くの人の命が一瞬にして失われること、このような不条理な出来事について私たちはもはやそれが「神の思し召し」あるいは「前世の因果」であるとは思わない。ではなぜ、このようなことが起こってしまったのか、これをどのように解釈すればよいのだろうか?

私たちは、このような現象を「合理的」に説明する術を持っていない。神も、仏教における因果応報もなく、ただ私たちができるのは自然災害を科学的に分析することぐらいだ。なぜ、これらの人々は、この時に命を失わなくてはならなかったのか?という根本的な問いについて意味づけていくことはまったく個人的な作業になってしまった。

これが「虚無の深淵をのぞき込みつつも、その没個性的な世界に対して意味を付与していく」ということだろうと思う。

つまり、世界についての説明を神にも宗教にもそして伝統的な共同体にも求めることができず、その意味付けに対しただ個人が孤独に呻吟するしかないという世界。これが近代的自我の正体ではないだろうか。

・ならぬものはならぬのです。

会津武士道を体現するこの一句。全く何の説明にもなっていない。単なるトートロジーでしかない。しかし、この無茶苦茶な世界(あるいは倫理)についての説明は会津武士階級という共同体に支えられ、その共同体の内部においては一定の説明原理であり得た。

こんな無茶苦茶かつ牧歌的な集団的論理に代わって、現代では個人(個体としての人間)を基にしたこんな言い方がある。

・人は騙せても、自分は騙せない

・自分に負けてはいけない

おそらく、アルプス以北の中世都市に住むプロテスタントならば、こう言ったのではないかと思う。

・人は騙せても、神は騙せない

・悪魔の誘惑に負けてはいけない

神や悪魔がいつの間にか自分自身にとって代わってしまった世界に私たちは生きている。なぜそんなことになってしまったのかについては、『プロ倫』を読んでもらうしかないが、とにかく、近代とは全く不可能でありながらも世界の全てを自分自身の理性でもって説明しなければならない時代なのだ。

私たちは神に祝福される、あるいは罰せられることはもうないし、悪魔に誘惑されることもない。死んでしまうその瞬間まで自分を自分で管理し、監視し、なおかつ誰にも評価されることはない孤独な作業を続けなければならない(これをある分野では自律学習、生涯教育というか?)。

もう神は自分が今、ここに存在することの理由も意味も与えてはくれない。それは、自分で見つけるほかなくなってしまった。

ところで、この姜尚中の言うところの「虚無の深淵をのぞき込みつつも、その没個性的な世界に対して意味を付与していく」という表現、まさにニーチェそのもの。これまで、いろんなものを読んで浮かび上がってきたウェーバー像にはいくつか特徴がある。

・西欧近代合理主義(あるいは普遍主義)の理論的完成者、そしてオリエンタリストととしてのウェーバー

・フロイトの精神分析やニーチェの思想の影響を受けたポスト・モダン思想の萌芽期の思想家としてのウェーバー

・厳格なプロテスタントの家庭に育ち父親との確執、自分自身にあるプロテスタンティズムの相対化に悩み精神をすり減らす悩める人ととしてのウェーバー

いくつか解釈本が解説しているように、やっぱりウェーバーは単純に西欧近代合理主義(あるいは普遍主義)を礼賛していたわけではないし、アジアの諸宗教についての理解については一部誤解があるのだけれど、それは時代的な制約もあり、その誤謬の全てをウェーバー個人には還元できない部分もあると思う。

それよりももっと彼は、彼自身の生い立ちや人生の歩みから西欧近代合理主義の虚無的な側面(それを「合理的な秩序の骸骨のように冷たい手」と表現している)を身に染みて感じ取っていただろうし、そこから逃れられないことも彼の理性は見抜いていた。しかし、彼自身もまたこの世界に安住できるような自分自身についての説明の術を持たなかったように思う。

それをニーチェは「超人」の思想によって克服しようと試み、その結果か彼は狂死するのだけれども、ウェーバーの冷徹な理性はそのような超越的な何か(あるいは逆説的に「魔術的」でもある何か)の存在を肯定しなかった。

こんな世界の中でやなせたかしはアンパンマンのマーチを作った。

やなせは敗戦によって一夜にして正義が逆転してしまう(正義の皇軍が、侵略者の軍隊になるという)という体験から、飢える者に食べ物を与えるという「転倒しない正義」を世界の説明原理とした。

♪ 何のために生まれて、何をして生きるのか~

アンパンマンの正義とはお腹を空かせた人たちに自らの体を食べさせること、これが彼が生まれた意義であり、世界にて彼が為すことである。なんだか『南伝大蔵経』にある546あるというお釈迦様の前世(飢えた旅の僧に自らを食べさせたというあのウサギ)のような話になのだけれども。

3年前の大震災で人々がすがったのは神でも仏でもなく、このアンパンマンであったことは全く根拠がないことではない。大震災という圧倒的な不条理の中で人々はその意味付けに苦しんだ。神なき世界での不条理に対して、それでも何かしらの意味を見出そうとしたとき、そこで必要であったのは実は純粋理性ではなく、何かしらの偶像であったのではないかと思う。

とにかく、なぜ人はこんなことを考えるようになったかについては少しわかったのだけれど、では、自分にとってのその答え何かとは考えればそれは何だろうか?



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グローバリゼーションとはつまり、共通の基準による価値観の統合なのではないかという話

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