10ヶ所転移の大腸癌から6年半経っても元気でいるワケ(10)

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入院の準備は出来たもの、病院から電話はかかってこなかった。4月9日の息子の入学式以降ということでお願いしてあったのだし、直前にならないと電話はないと聞いていたが、いつ電話がかかってくるかと待つほどつらいことはない。何よりもMRIの検査結果も早く知りたかった。

 

学生時代からの友人で先輩がん患者でもあるH子に聞くと「お医者さんは忙しからこちらから連絡した方が良いよ。厚かましいとか思わないで電話で聞いてみれば良いのよ!」と背中を押された。といっても病院のどこに電話したらよいものかも分からず、とりあえずオペレーターにその由を話すと病棟に電話を回してくれた。

 

私は現在入院待ちであること、数日前のMRI検査の結果は入院後に知らせると言われたが、心配で待ちきれないと正直に話した。担当の先生が夕方にならないと戻らないので、また電話くださいということだった。

 

私はそのまま友人に電話し、20分位話し込んで電話を切ると着信履歴があり留守電も入っていた。なんと、がんセンターの医師からだった。「医長のSですが・・・」ちょっと関西系アクセントの知的な声。夕方に戻るので電話下さいとのこと。夕方まで戻らないと聞いていたのに、看護師から連絡受けて取りあえず急いで電話を下さったということだろう。私は電話に出られなかったことを心から申し訳なく思った。

 

夕方、再び電話をすると、先ほどのS先生に繋いでくれた。面識のない医師と電話で話すというのは緊張するものだ。私は興奮気味に不安な思いを一気に話した。S先生は私の興奮をなだめるように、「ここの病院はチームを組んで皆で相談しながらやっているんですよ。だから、診察したことはないけれどあなたのことは良く分かっているんです。」この一言で興奮が静まった気がした。

 

カルテを見ながら電話していると見え更にこう続けた。「あなたね、肥満はある。糖尿はある。喘息はある。高血圧もある・・・(ここで医師は思わず失笑していた。確かに酷い。しかし、肥満が病気みたいに言われたことと、糖尿は認識していなかったので、ちょっと納得いかない感じがした。)」

 

そして、こう続けた。「こんな患者、誰がやりますか?・・・私がやります!」確かにこんなハイリスク患者など誰も受け持ちたくないだろう。「私がやります!」という一言に自信が溢れていた。このシーンは何回思い出しても鳥肌が立つ。かっこ良過ぎる。まるで医療ドラマのようではないか!

 

この先生が主治医になるのか・・・そう思うとワクワクしてきた。「ありがとうございます。よろしくお願いします。」と言う声が上ずってしまった。しかし、ここで終わりにするわけはいかない。MRIの検査結果を聞き出さなければならないのだ。

 

結果を知りたいと言うと「あなたと話すのは今日が初めてで、面識がないのだから、あなたが本当に〇〇〇子さんであるかも分からない。だから電話ではお答え出来ないんです。入院当日に結果を聞いて下さい。」と言われた、。当然のことであろう。私は一瞬、諦めたがここで引き下がる人間ではない。先日の外来医師の慌てぶりからして肝臓に転移があったことはほぼ間違いないと感じていた。

 

「じゃあ肝臓の手術もするということですね?!」少し強い口調でかまをかけるように言うと、一瞬沈黙の後、ひとこと「そういうことです!」・・・と。これで私の4期がんは確定した。がん診断も1人で聞き、転移あり4期確定の診断もまた1人で聞いてしまった。

 

衝撃からかのどが詰まるような感触を覚え「よろしくお願いします。」と振り絞るような声で言うのがやっとだった。最悪の診断ではあったが、自ら望んで早くに知りたかった「結果」である。覚悟は決まった。


ついに肝転移ありの4期が確定してしまった。夫にもそのことは電話で伝えた。さすがにがっかりした口調ではあったが、家の中はそれ程重苦しい雰囲気にはならなかった。見つかったものは仕方ない。そして、主人の高校時代の同級生で著名なガン専門医でもあるT氏の「手術できるって言うことは幸せなんだよ!」という言葉が、折れそうになる心を支えてくれた。

 

確かに肝臓に転移は見つかってしまったが、手術不能ではない。手術してもらえるのだ。「私がやります!」という執刀医の力強い言葉が頭の中で何回も何回もリピートされた。直前になって見つかったお蔭で、同時に手術できる。これはありがたいことだと感謝するしかない。それに、麻酔をかけられてしまえば何時間であろうが、本人は痛くもかゆくもないはずだ。

 

突然の下血から2ヶ月余り。実に多くの人々に支えられて、ここまで来た。その数はとても書き切れないほどの人数になっていた。そして、800サイトも調べ上げ学問的な部分でサポートしてくれた主人。後から聞いた話では、当初調べても調べても悲観的な情報しか得られず、かなり滅入った様である。しかし、めげずに調べていくうちに明るい情報も入手できるようになり、岩手の清水医師の話に出会った時は、正に「地獄で仏」。それがマイタケエキスについて書かれたものであった。入試の忙しい時期を過ぎ、時間的に余裕があったのも幸運であった。正に妻を救うために神が与えてくれた「時間」。いつも怒られてばかりで「不用品」と思っていた自分がこんなにも必要とされていたのかと驚くばかりであった。

 

娘は周囲のサバイバー達から、これでもかこれでもかと前向きな情報を得て、私に伝えてくれた。芸術家たちはやはり考え方が多様で、本来ならばダメと思われることも乗り切ってしまうパワーがあるように感じられた。常識にとらわれない生き残るための「アイデア」に溢れていた。そのひとつが4月始まりの手帳であった。店先には4月始まりの手帳が溢れていた。私は明るいピンク色の手帳を購入した。娘が言うには手帳のはじめのページに「願い」を書くと良いというのだ。これも大学の先生からの情報であった。本当は「長生きできますように!」と書きたかった。しかし、そう書くにはためらいがあった。「この手帳いっぱいにスケジュールが書き込めますように!」と書いた。せめて1年は元気で行動したい。そんなつつましい願いだった。

 

一方、妹はダイエットの面で大きく力を貸してくれた。週2回のスポーツクラブ通い。私は全く泳げないのだが「アクアビクス」という、プールの中で体操をやるクラスに誘ってくれた。アクアビクスは音楽に乗って水の中を右へ左へ移動するのだが、これが結構いい運動になった。最後に長さ1メートルほどのウレタンの棒を使って水面を叩く場面では「ガンよ、あっち行け!」と思い切り叩いた。気持ちがすっきりした。本当は泣きたいはずの妹が毎回、ふざけた表情で躍って見せる姿がけなげで申し訳ない気持ちになった。

 

そして、数日後、病院からやっと連絡が来た。入院は11日。入学式の翌々日ということになった。

 

ガン発覚以来、多くの人に励まされてきたが、私にとって生還者たちの存在は本当に心の支えになった。初期ならともかく、転移ありの進行がんでも助かっているという話が次々入ってきた。娘のゼミの先生が末期から生還していたのをはじめ、方位好きHさんの叔母様も大腸がん余命半年宣告から25年になるという。

 

ママ友Tさんの親戚の方も腸管を破るほどの進行がんだったが10年経って全く元気だという。彼女自身もガンではないが命に関わる大手術を経験していたが、外見は全く元気。大病を乗り越えてきた人には心の内を話しやすく、生存率の話なんかも普通に出来た。そういったことも笑い飛ばすパワーが彼女にはあった。私以上に笑い声にパワーがあるのだ。「大丈夫!」彼女に会うたびにそう言われた。またその言葉を聞きたくて買い物帰りに度々チャイムを鳴らした。もう1人のママ友Kさんも持病を抱えていた。こちらも笑い声と話し声の大きさには定評があった。どう見ても元気いっぱいな3人。外見ではわからないものである。子供たちが同じクラスということで小学校以来、子育ての悩みを分かち合ってきた。彼女たちと縁があったのもまた偶然ではなく必然だったのかもしれない。

 

こういった実例は何よりの励みになった。がんだから死ぬということはない。たとえ4期であっても大丈夫。段々そんな気になってきた。近くに住むTさんはすでに3回もがんの手術を受けたベテランで、初回から25年を経過していた。わざわざ資料を届けてくれた。「今は麻酔の技術が素晴らしく目が覚めてからも痛みが全くなかった。手術したことが信じられなかった。」と言う体験談には勇気付けられた。生還者の生の声は本当に心強かった。

 

入院を目前にして、プラスの情報は出揃った。悲嘆ではなく熱気が感じられた。「ワッショイ!ワッショイ!」という祭りのみこしを担ぐ音が聞こえる気がした。担ぎ手は私を応援してくれている全ての人たち。そのみこしにいま正に乗ろうとしているのだ。

 

 

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