10ヶ所転移の大腸癌から6年半経っても元気でいるワケ(11)

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入院も決まり、1人でリビングの椅子に腰掛けながら、私は真剣にあることを考えていた。「後妻」をどうするか?遠距離通勤の夫、これから高校に入学する息子、娘は大学生ではあるが、家族を支えていくには負担が大きすぎると感じていた。一番の問題は夫が精神的に耐えられないだろうということだった。

私の曽祖父は妻を55歳で亡くし、その後、60歳で42歳の女性と再婚した。今でこそ珍しくない話だが、昭和初期の話である。画期的な話であったかもしれない。私はその曾祖母の姿は写真でしか知らないが、伯母に「似ている」と言われたことがあった。再婚相手は私たちにとって血の繋がりはないが間違いなく「ひいおばあちゃん」であった。優しい人でひ孫に当たる私たちをとても可愛がってくれた。結局、18歳も若かった「ひいおばあちゃん」も71で亡くなり、2人の妻を見送った曽祖父は97まで生き続けた。もう1人、親戚で早くに奥さんを亡くし、再婚した人がいた。曽祖父同様、主人と同じ研究者。そんなこともあって、万一の時は後妻をという考えは自然に浮かんだのである。


友達には結構独身女性がいた。次々顔を思い浮かべてみた。子供たちが一番馴染んでいるのはY子だった。ぽっちゃりタイプのH美は主人の好みではある。日本的美人のK子。精神的に支えてくれそうなM子。少なくとも私と比べればはるかに素敵な女性たちである。


しかし、ふと考えた。主人も将来は定年を迎える。その時、定年祝いで旅行に行くだろう。私は結婚以来25年。怒られ続けながらも主人に付いて来た。4回の転職も主人が望むことならと反対したことはなかった。転居も苦にならなかった。そしてやっと希望の職に就けたことは何よりの喜びだった。やはり定年記念の旅行には私が行きたい。他の人には行かせられない。よし、後妻の話はなかったことにしよう。勝手に思い浮かべて勝手に没にした再婚話。まだまだ死ねない。女の執念恐るべしである。



4月9日。やっと息子の入学式の日を迎えることが出来た。念願の高校への入学。生きてこの日を迎えることが出来たのは、ある意味、「10年来の息子との約束」を果たしたことになる。


それは、息子が小学校に入る前のことだった。突然、「僕が高校生になるまで生きててね!」と言い出したのである。確かに私は高齢出産であった。36歳半での出産。周りのお母さんより10才は年を取っていた。とは言え、息子が高校入学する時点ではまだ52歳。変なことを言う子だなと思いながらも「大丈夫よ!生きてるから!」と答えた。それが一度や二度ならまだしも、まるで口癖のように「僕が高校生になるまで生きててね!」と言い続けた。それは小学校卒業まで続いた。数えたことはなかったが、恐らく数百回に及んでいたと思う。


中学校3年になったある日、私は同級生のママ友Tさんにこう言ったことをはっきり覚えている。「息子にずっと僕が高校生になるまで生きててねと言われてきたの。だから私の余命はあと1年なのよ!」笑いながらそう言った。全く冗談のつもりだった。それが高校入学直前になって4期ガンの診断を受けようとは・・・。「高校生になるまで生きていてね!」はある意味予言だったとしか言いようがない。


私自身,子供のころは霊感が強いと言われ、母は私のことを「霊感少女」と呼んでいた。大人になっても良く霊感が働いた。少なくとも子供を生むまでは霊感的なものはあったように思う。子供を生むとそれはなくなると聞いたことがあったが、実母の末期がんに気付かずにいたことで私の霊感は終わったと認識していた。それが思わぬところで現れたのだ。息子の予知能力。もっと早くに自分の身体に気を付けるべきだった。それは息子を通して語られた天からのメッセージであったに違いない。亡き母からの忠告であったのかもしれない。


その日、会場で私はある人を必死で探していた。かつて同じ少年野球チームの世話役で大変お世話になったFさんの姿。4期と分かってから私は万一のことを考えて、同じ高校に進学する知り合いを探しまくった。しかし、同じ中学からその高校へは学年100人中5人しか進学しないと聞き、名前を聞いたが他は違う小学校の出身ばかり。残念ながらお母さん方と顔なじみではなかった。焦って心当たりを当たった。かつて所属していたチームのF君が同じ高校と知った時にはどんなにかほっとしたことか・・・。前もって電話で事情は説明してあったが、会場で彼女を見つけると、とにかく何かあったときは宜しくと何回も頭を下げた。野球チーム当時と変わらぬ温かい眼差しで励まされ本当に救われる思いがした。


頑張って合格した念願の高校。とにかく息子は高校生になった。卒業式には出られるだろうか?大学生になる姿を見られるだろうか?・・・・・・・いや、ずっと見守らなければならないのだ。その日は折角の入学式にもかかわらず、前線の影響で台風並みの荒天。傘もまともにもさせない状況だった。今後、私が立ち向かわなければならない苦難を物語っているかのようだった。嵐にだって負けてはいられない。私は息子の晴れ姿を目にして決意を新たにした.。



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