学年ビリ、偏差値30台の落ちこぼれが、大学を辞め、世界の名門ロンドン大学に留学、そして商社マンになる話

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担任「お母さん!お子さんがテスト中にいなくなりました。」


数学の試験中にいなくなった僕を心配し、高校の担任の先生が家にまで電話をしてきた。

問題を見ても全く分からないので、考えるのを止めて教室を出た。
高校三年時の偏差値は30台。試験前には担任が赤点を取らないように電話してくるほど成績が悪く、学年でビリを争う四天王と呼ばれるほどバカだった。

授業中に勉強もせず何をしていたかと言うと、ゲームをするかマンガを読んでいた。教室にはドラゴンボール、北斗の拳、スラムダンクがあり、当時はこれこそ高校生のバイブルで、教科書になるべきだと本気で思っていた。

そして毎年二学期になると親は学校へ呼ばれ、当時の担任から「このままではが残る、留年する」と忠告されていた。


小学校の時の公文式の宿題は裏と表しかせず、それが見つかって怒られると、今度は全てのページに適当な答えを書くようにした。中学校の時は30分も机に向かうことができなかったので、母親が塾の先生に相談したほどだ。とにかく勉強が嫌いだったのだ。


(高三の成績表)赤い数字目立つ。



書籍化決定

このストーリーは宝島社から12月12日(金)に書籍化されました。

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スポーツ推薦

高校の成績は悪かったが、進路の心配はしていなかった。陸上部に所属していた僕は、県の強化指定選手にも選ばれた経験があり、大学にはスポーツ推薦で入るつもりでいた。「勉強なんかしなくても、大学には推薦でいける」、これが当時の僕の口癖であった。


そして待ちにまった最後の高校総体県予選。結果は5000mで入賞し、近畿総体出場。最後の総体で結果を出せたことは最高にうれしかった。故障もあり、練習ができない時期もあったが、目標がやっと叶ったのだ。その結果、幸いにもいくつもの大学からスポーツ推薦のオファーを頂いた。


喜んでいたのもつかの間、スポーツ推薦で入学するにも評定平均の基準があったことを知らず、頂いていた推薦の話は全部なくなった。当時の僕の評定平均は2.2とんでもない数字だ。ここから受験するなんて当時は選択肢になかった。ここで人生で一つ目の大きな壁に打ち当たった。推薦をもらっていた大学に陸上以外の理由で入れなくなった。勉強してこなかったこと、考えが甘かったことを悔やんだ。


それでも入学を許可してくれた大学が一校あり、そこに進学を決意した。その大学は箱根駅伝の常連校ではあるものの、偏差値は30台。陸上の強豪校出身でなかった僕は、「えらいところに来てしまった」、という気持ちでいっぱいになった。


寮生活が始まって一週間、まだ世間は春休み、


僕は寮を逃げ出して実家がある関西へ向かう新幹線に乗っていた。

不思議と当時のことは覚えていない。覚えているのは寮を出た当日の朝、体調が悪いので練習を休むと言ったことだけ。


新幹線の中から両親に電話した。

クラブ辞めたから、いま帰ってる。
帰ってくるな!

そして泣く泣く引き返し、監督に退部を伝えた。オリンピック選手でもあった監督は理性的な方だったが、その時ばかりはあきれてものも言えない様子だった。


時はまだ3月。世間の高校生が憧れの大学生活を直前に過ごしている中で、僕は絶望のさなかにいた。


親の説得もあり、大学自体にはしぶしぶ残ることにした。しかし、スポーツ推薦で入学した大学に退部した人間が残るというのは非常に居づらい環境だった。「あいつは辞めた。挫折した。」というレッテルが貼られるからであった。

そしてこんなに親不孝な息子はいないだろう。自分が行きたいと言っておいて、一言も相談せずに辞めたのだから。自分自身も恥ずかしい思いをしたが、それは親も一緒だったはずだ。

親を含め、自分のしたことがいろんな人に迷惑をかけたという罪悪感は日に日に強くなっていった。お世話になった人には顔も合わせられなかったし、後ろめたい気持ちでいっぱいだった。


辞めてから一歩踏み出すまで時間がかかった。前を向けなかったし、自分の失敗を受け入れられずにいた。しかし、一歩踏み出すには失敗を受け入れなければいけない。

まずはそれまでお世話になった人に謝ることから始めた。もちろん簡単じゃなかった。電話を持つ手は震えたし、なんと伝えればいいのかも分からなかった。

取り返しのつかない失敗をし、期待や信頼を裏切ってしまったが、ありがたいことにそこでも背中を押してもらった。そしてすっと肩の荷がおりた気がした。

失敗を受け入れて前に進むこと、それが再受験に向けたスタートだった。



再受験〜あきらめたらそこで試合終了ですよ〜


全く勉強せずに高校3年間を過ごしたため、何から始めていいのかも分からず、再受験を決意してから受けた模試で英語は偏差値30台。一応2ヶ月くらいは勉強した。今まで勉強してこなかったと言っても、自分なりに2ヶ月やってみたのだ。しかし結果を見て18歳にして「人生終わった」という気持ちになった。


人生オワタ \(^o^)/

とはまさにこのことである。高校の時に勉強してこなかったこと、人生をなめていたことをこれほど後悔したことはなかった。


(模試の結果)


再受験を決めてからは、受験勉強に専念するために大学の授業に出るのはやめた。一人では何から始めていいのかも分からないので、塾を探しいくつかあたってみた。経緯を詳しく説明すると、

大学を辞めて再受験したいのですが、入塾できますか?
うーん、うちでは厳しいですね。。。


という返答。あたってみた塾がたまたま悪かったのかもしれないが、学習塾に入塾を断られた。それも相当ショックだった。訳ありの生徒を教えるのは敬遠したのかもしれない。


そして当時大学で英語の授業を教えていた先生に、


大学を辞めて再受験したいので、英語を教えてもらえませんか?
先生
。。。いいよー


普通ならこれから辞める生徒に何もしてやる必要はない。しかし、その先生はわざわざプライベートの時間を使いマンツーマンで授業をしてくれた。

友人や高校の担任の助けもあり、その後徐々に偏差値も上がり始め、半年後には大学を退学し、予備校に通うことになった。

この時ほど自分が苦しんでいる時に手を差し伸べてくれる人の優しさに気付いたことはなかった。そして、大学を辞め、いろんな人の期待を裏切った分、このままでは終われないという気持ちが湧いてきた。



大学生活~again~

成績は上がったものの、当時の僕には偏差値50台の私大に入るのが限界だった。よくある受験のミラクルは、僕には起こらなかったのだ。
第一志望の大学には入れなったが、与えられた環境で結果を出すことも大事だと思い、そこで精一杯やってみることにした。

高校3年の冬休みに姉について2週間だけイギリスに旅行したことがあり、その経験からイギリスに交換留学する、という目標を学生生活最大の目標とした。留学に行くにはTOEFLという試験を受ける必要がある。

このTOEFLというテストはリーディング、リスニング、スピーキング、ライティングの4セクションに分かれており、難易度で言うと


センター英語 "This is my pen" これは私のペンです

TOEFL "”#+%)#&%(%『`』*`" え、英語?


初めて受けるほとんどの人にとっては、なんの言語か分からないくらい難易度が高い。外大に入学した僕は、二回目の大学一年生の夏に初めてのTOEFL受験をするとこになる。

初回の受験結果はなんと120点満点中32点。これはなんともひどい点数で、留学に行くなんて言うと笑われるレベルだ。スピーキングセクションでは、何と話していいのかも分からず一言"そーりー"と言った覚えがある。

しかし何を思ったのか、


「協定校で一番レベルの高いロンドン大学に行く」

という途方もない目標を立ててしまった。当時のロンドン大学の留学基準はTOEFL85点以上。その挑戦の無謀さが理解できないほどバカだった。やればできるんじゃないか、という根拠のない自信が自分のどこかにあった。そもそも自分の限界を自分で決めるのが嫌だったのだ。


(TOEFL初回受験)


30点台、50点台、60点台と点数は徐々にしか上がらず、ロンドン大学留学は遠い夢のように思えた。しかし、人生を変えるつもりで勉強してみようと決心し、大学2年生になる前の春休みに朝から晩までバイト以外の間はずっと英語の勉強をした。もちろんテレビやゲームもなし。友達と遊ぶ回数も大幅に減った。

まず単語を覚えた。覚えた単語数は大学受験単語プラス2000語以上にも及ぶ。寝る暇を惜しんで勉強したとは言わない。

しかし、起きている間はずっと勉強した。

その結果、春休み明けには80点台まで点数が上がり、留学が一気に近づいた。しかし、この年から新たな基準が追加され、4月の時点でゴール目前と思われた留学準備がここからが本番という状態になった。基準を上げた学校側を恨んだこともあったが、それが理由で留学にいけないことになると一生後悔すると思った。

そしてTOEFL受験は夏休みにまでもつれ込んだ。この時期になると、毎週末テストを受けた。しかし何回受けても結果は変わらず、テストを受けられるのも残すところ1回というところまで追いつめられた。手ごたえなんて分からなかった。とりあえず基準を超えてくれ、という思いでテストを受けた。


そしてそれは朝方だった。ネット上で結果を確認したところ、




94点

という数字が出ていた。


自分の目を疑った。留学にいけなくなる夢も見たくらいなので、何度も確認したが、それは現実だった。この時ほどうれしかったことはない。一番ほしいものを手に入れられる人間は一握りだからだ。それには相当の努力や運が伴わなければいけない。これが人生で初めて一番の目標を達成できた時だった。

当時の感覚は今でも覚えている。苦労して手に入れたものだから普通では味わえない達成感があった。

結果的に基準を上げてくれた大学には感謝している。試練を与えてくれたことで、自分の限界を広げることができた。結果を出せばどんなことだってプラスに捉えられる。そしていくらでも道は切り拓けるということに気付きつつあった。


この経験から得たことは、『何かを得ることは何かを失うということだ。


自分は優秀な人間でないということは分かっていた。だからあれもこれもしたいでは夢は叶えられない。優先順位をつけ、したいことに専念した結果、目標を達成できた。

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