学年ビリ、偏差値30台の落ちこぼれが、大学を辞め、世界の名門ロンドン大学に留学、そして商社マンになる話

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勉強漬けの日々が続き、一回2万ほどするテストを10回も受け、留学前には96点という数字をたたき出した。TOEICも入学時の初回受験570点から学部留学前には970点まで上げた。

留学経験のない純ジャパからすると、よくできたほうである。帰国後はあまり点数は上がらなかったが、TOEIC975点、TOEFL101点を獲得した。


初めてイギリスに旅行した時は

ホストマザー
Would you like something to drink?
何か飲み物ほしい?
。。。

もちろん会話なんてできない。かろうじてYes or Noが言えたくらいだ。(もちろん質問の内容は理解していない。)その時からすると、よくここまでこれたと自分ながらに思った。



(TOEIC・TOEFLのスコア)


ちなみに、外大で勉強できたことは自分の財産だと思う。他にももっとレベルの高い大学はある。しかしとても貴重なレッスンを得た。

それは、『どんな環境でもやるのは自分だ』と言うこと。

勉強ばかりしていておかしいと思われたこともあった、なんでもっと遊ばないのと言われたこともあった。

もちろん後述するロンドン大学のようなレベルの高い環境に身を置き、自分を高めるのも一つである。しかし、甘えが許される状況で自分に鞭を打ち、自分を高められるか、これは将来どんな環境に身を置いても重要だと思う。環境のせいにしているうちは何も変えられない。


同大学からロンドン大学への交換留学が決まったのは実に4年ぶりで、周囲からの扱いも変わった。授業で講演を頼まれたり、自分の授業も持った。

チヤホヤされ完全に天狗になっていた僕は、渡英の日を迎えた。



留学Part 1

初めての海外留学。自信満々で迎えた留学生活、そのスタートは屈辱的なものであった。

ディスカッションについていけない。ディスカッションの時間中何も発言せずに座っていることしかできなかった。それは語学力の問題だけでなく、専門知識も全く足りなかったのだ。周りの学生はまだ10代とは思えないほどクリティカルな思考力を持ち、自分の意見を述べる力がある。


「日本よ、これが世界だ!」

というような衝撃であった。


また、勉強量もハンパない。図書館で席が見つからないのは当たり前。試験前は24時間開いており、それこそ現地の学生は「人生をかけて勉強」する。僕は留学前には自分なりに努力したつもりであったが、その光景には正直驚かされた。

カメより勤勉なウサギ

がそこにはいた。ロンドン大学には日本の一流と呼ばれる大学からたくさん交換留学生が来ていたが、その人たちが口を揃えて「一年で日本の大学の四年分以上勉強した」と言うのだから、どれだけ大変か想像がつく。


悔しい経験をできたのも、留学に行ってよかったと思えた理由だ。それから授業についていくために必死で勉強した。夜中まで課題のリーディングをし、エッセイを書く時は寝る暇を惜しんで書いた。ネイティブと同じレベルでディスカッションに参加するのは不可能であったが、ポイントを抑えて発言できるようになってきた。アイデアさえあれば、みんな耳を傾けてくれる。要はこいつが話せば聞いてやろう、と思わせることである。

それには授業外での関係作りも重要である。関係を深め、認めてもらえるようになると、大幅に発言しやすくなる。そうして徐々に留学生活にも慣れ、ロンドンでの生活が楽しくなってきた。

また、ネイティブの学生よりも高いエッセイの成績を取ることも当たり前になってきた。数年前まではYesとNoしか言えなかった自分が、ロンドン大学でイギリス人より良い成績を取る、何だか信じられなかった。同時に、自分がやってきたことは間違いではなかったと再確認できた。


留学は僕にとって非常に価値のある経験であったことは言うまでもない。異なるバックグラウンドを持った学生が世界中から集まる、最高にエキサイティングな環境であった。また、同時に日本人が抱える問題にも気がついた。英語ができる、できないに関わらず、日本人かアジア人としか付き合えない日本人留学生がほとんどだった。よくて日本語を勉強している外国人。日本人の消極性が問題なのかもしれない。


また、イギリスの教育システム、少なくとも大学レベルでは「どれだけ批判的に考えたか」が評価される。しかし日本ではどうだろう。「どれだけ暗記したか」が成績を決める。また、大学ではバイト、サークル活動に忙しく、本業の勉強に必死になっている学生はどれだけいるだろうか。ロンドンでは非常に優秀なアジア人の学生にたくさん会った。彼らは頭も良く、そしてハングリーだ。日本人留学生と比べると、日本が追い越されるのも時間の問題だと危機感を覚えるようになった。



就活Part 1

留学から半年が経った頃、日本では就活が始める時期になっていた。交換留学が終わるのが6月の予定だったが、情報収集したところ、4月の採用に参加した方が可能性が高いことが分かった。そこでロンドンからエントリーし、大企業と呼ばれる7社のエントリーを通過し、面接まで進むことになった。まずは親に相談だと思い、一時帰国して面接を受けたいことをSkypeで伝えた。


一時帰国して就活したいんやけど
帰ってくるな!


今回も反対された。親だけでなく、一時帰国して就活することに反対する人はたくさんいた。そんなに簡単に決まるもんじゃない、一ヶ月だけいても期間的に間に合わない、というのがその人たちの意見であった。大学の就職支援課も、

「過去に前例がないので一時帰国中の就活は難しい」という反応だった。


しかし、偏差値30台から再受験し、TOEFLの点数を3倍に上げた僕は、不可能なことはないと思っていた。そもそも、「無理だという人たちはそれをしたことがない人たち」そんな人たちに自分の人生決められてたまるか、という思いがあった。

この時には過去にだれかがそれをしたか、すなわちロールモデルがいるか、ということは全く気にならないようになっていた。自分の正解は自分で決める、という信念が自分の中で出来上がっていた。



内定と進学

親を説得し、一時帰国して面接を受けることになった。過去の挫折を乗り越え成長した経験が評価され、一部上場のメーカー企業から内定を頂くことになった。無事に結果を出してロンドンに戻り、最後の試験を終えあっという間に本帰国となった。その時にはイギリスに残りたいもっと勉強したい、という気持ちが強くなっていた。


帰国し、親に進学したいという思いを伝えた。

内定断って、進学したい。
あほか。絶対行かさん。


「いままでたくさんわがままさせてきたし、お金もかかった」とのことで反対された。その上将来が保証されている企業から内定をもらっているとのことで、父親は進学には大反対であった。僕は当時の内定は今までやってきたことが評価された、妥当な結果だと思っていた。しかし両親にとっては、どうしようもない落ちこぼれだった僕が一部上場のメーカー企業から内定を得たということで、それを断り進学した際に就職先があるかということが心配だったようだ。


進学したいという気持ちが収まらず、ダメだったらあきらめがつくとの思いで出願することにした。出願したのは3校のみ。ケンブリッジ大学、University College London、そしてLondon School of Economics(どちらもロンドン大学)の大学院である。この3校は世界でも名門中の名門で、受かる可能性は低かった。

これでだめならあきらめられる、そんなつもりで出願したが、なんとUniversity College Londonから合格の通知が届いたのであった。UCLとも呼ばれるこの大学は2014年に世界で4位にランクされた程の超名門校である。日本とも深い繋がりがあり、伊藤博文、井上馨をはじめとする長州五傑が留学した大学としても知られる。また、夏目漱石や小泉純一郎など、数多くの著名人がUCLで学んだ。その他の卒業生としては、フレミングの法則で有名なジョン・フレミング、電話を発明したグラハム・ベル、ガンジー、そしてダーウィンが「種の起原」を発表したのもUCLからだ。


(QS World University Rankings 2013: UCLは第4位にランク)


数年前には偏差値30台で日本の底辺の大学にいた自分が、世界でトップレベルの大学院に行ける。これは天と地がひっくり返るくらいインパクトのある出来事であった。親も喜んでくれるに違いない、と思い急いで電話した。

世界で4位の大学に受かったよ!
絶対に行かさん。


「行かさん」の一点張りであった。おそらく日本を出たことがない人からすると、ロンドン大学で学ぶことのバリューやその可能性というものは理解しにくいかもしれない。それに進学して就職がなかった時のことを考えると心配なのも親心なのであろう。


散々反対されたが、このままではらちが明かないと思い、親の了解を得ないまま内定をお断りした。内定式も終わっていたため会社には大変ご迷惑をおかけしたが、気持ちは伝わり留学を応援してくれた。父親はと言うと、もう家には帰ってくるなとのことで、勘当されたような形になった。


父親は反対していたので、授業料の200万をなんとか工面する必要があった。こんな時に心強いのが、母親の愛である。「あんたがしたいことなら、借金してでも行かせたる」と言ってくれていたが、その通り、200万もする授業料は母親が借金をして払ってくれた。ちょうどその頃いろんな理由で母親が失業し、大変な時期に高額な授業料を払ってくれたことは本当に感謝してもしきれない。

どんな時でも応援してきてくれたのが母親だった。進路の悩みも、どこの会社で働くかより、本人が何をしたいか、ということを一番に考えてくれ、いつでも僕がしたいことを応援してくれた。「子どもがしたいことできるのが、親の幸せやから」と、いつでも僕のわがままを聞いてくれた。

中学、高校と勉強してこなかったことで本当に迷惑をかけたし、学校にまで呼ばれていたのはいま考えても申し訳なく思う。それでもあきらめずに僕を信じ応援し続けてくれたことを考えると、母親のサポートがなければ今の自分は絶対になかった。これから一生かけて何倍にもして返そうと決めた。



就活Part 2

イギリスの修士課程は一年間のため、留学前でも採用に参加できる企業もあった。そして渡英前の7月に選考に参加したのが某総合商社である。総合商社と言うと、学生の憧れの企業である。就職系のランキングでは常に上位だ。もちろん学部時代にエントリーした時は全てエントリー落ち。各社1万人近いエントリーの中から100名ほどの内定者を出す。五大商社の平均年収は1300万超え。サラリーマンの平均年収の3倍以上だ。


この会社には因縁があった。学部留学時代にロンドンで行われた説明会に参加した際に、仕事のスケール感、歴史、日本の経済を支えるという使命感、人事の話に感銘を受け、「ここで働きたい」という気持ちがとても強くなった。しかし結果はエントリー落ちで、面接にも呼ばれなかった。まさに門前払いだ。


そしてそれから一年後、環境は変わりロンドン大学の大学院へ進学予定だった僕は、エントリーを無事通過し、面接に呼ばれた。

ロンドンで世界一優秀な学生たちに囲まれて、もがき苦しみ成長していた僕は自信もついていた。面接も順調に進み、一次、二次と無難に選考を通過したが、三次選考通過の連絡が来なかった。同じ日に面接を受けた友人は通知が来ていたので、ここまでか、という気持ちになった。


しかし翌日まさかの通知の連絡がきた。一度は落ちたと覚悟したので、これでだめなら仕方ないという思いで最終選考に挑んだ。

エレベーターで上位階まで行くと、ふかふかの絨毯無駄に重いドア。緊張させるためだけの空間と言っていいほど、そこは堅苦しい雰囲気であった。あまり感触は良くなかったが、無事に最終選考を終え、友人宅へ戻った。すると即日で電話があり、内定の通知を受ける。


進学しても就職先がない、いま内定をもらっている会社より良い会社へいける可能性はない、と言っていた人たちは驚いただろう。進学する前の段階で以前よりはるかに難易度の高い総合商社から内定をもらったのだから。


部活を辞め、途方に暮れていた当時、その後の人生がこうなると誰が予想しただろう。何回も無理だと言われ、夢を見過ぎだと言われた。しかし、あえて自分の目標を口に出してきた。今となっては、反対した人、批判した人、そして無理だといった人にも感謝したいと思う。あきらめるどころか、そういった言葉が原動力になった。



留学Part 2 & その後

大学院留学も修了し、後は結果を待つだけとなっている。今回の留学は、前回と違い、どうしても卒業しなければいけないというプレッシャーがあった。大量のリーディングと3000字のエッセイ8つという鬼畜な課題に苦労したが、どうにか終えることができた。そして諸事情により内定は半年伸びたが会社は待ってくれるとのこと。留学前に採用してくれ、そして今度は半年入社を先延ばしにしてくれる、懐の深い会社だ。


現在はIMFのアジア太平洋地域事務所(東京)でインターンをしている。トップのChristine Lagardeが来日するということもあり、素晴らしい時期にこのチャンスを得ることができた。将来は世界銀行で働きたいという目標があり、発展途上国での再生可能エネルギープロジェクトに関わりたい。大学院で学んだ環境と、来年から会社で学ぶ事業投資のノウハウを活かし、人の生活を豊かにできる仕事ができればと思う。


また、5年以内にLondon Business SchoolでMBAを取る、という目標も立てた。もちろん高校の数学なんて覚えていないどころか、勉強すらしていない。一から開始だ。現在は数1Aの白チャートも理解できないという状況で、毎日苦戦している。連立方程式の解き方も、因数分解がなんなのかもしらなかった。


しかし不可能だとは思っていない。今まで無理だと言う人を見返してきた、黙らせてきた。今度も同じ。大事なのは続けること、あきらめないことだ。




最後に

好きな名言の一つに、NBAのマジック・ジョンソンの言葉がある。

『君には無理だよ』という人の言うことを、聞いてはいけない

もし、自分でなにかを成し遂げたかったら

出来なかった時に他人のせいにしないで

自分のせいにしなさい

多くの人が、僕にも君にも「無理だよ」と言った

彼らは、君に成功してほしくないんだ

なぜなら、彼らは成功出来なかったから

途中で諦めてしまったから

だから、君にもその夢を諦めてほしいんだ

不幸なひとは、不幸な人を友達にしたいんだ

決して諦めては駄目だ

自分のまわりをエネルギーであふれ

しっかりした考え方を、持っている人でかためなさい

自分のまわりを野心であふれ

プラス思考の人でかためなさい

近くに誰か憧れる人がいたら

その人に、アドバイスを求めなさい

その人に、アドバイスを求めなさい

君の人生を、考えることが出来るのは君だけだ

君の夢がなんであれ、それに向かっていくんだ

何故なら、君は幸せになる為に生まれてきたんだ

何故なら、君は幸せになる為に生まれてきたんだ・・・



僕が日頃大事にしている信念がある。人生では選択を迫られることがたくさんある。大学を辞めるかどうか、再受験するかどうか、留学にいくかどうか、就職するか進学するか、、、


『一度自分がその道を選んだら、その選択肢が正解になるよう自分で道を切り拓く』

という哲学を持って僕は生きている。自分が自分で選んだ、だから後悔はない。自分で選んだ道なら、それを正解にするためにいくらでも努力できるもんだ。今何かに迷っている人、悩んでいる人はぜひ自分の心に聞いてみてほしい。本当にしたいことはなんなのか。それができればどんなことだって、誰に反対されたって、道は切り拓けるはずだ。

そして何年後かに振り返った時、当時見えなかった点と点が線で繋がっているはずである。自分の心に従って決めた選択は、将来なにかの形でつながっていくものである。




白洲次郎は言った。

「プリンシプルを持って生きれば、人生に迷うことはない。」

自分の軸や哲学を持って生きていれば、人生に迷うことはないという意味だ。

そして自分の心に従った選択をすることは、人生を豊かにし、幸せになることにもつながる。

いくら周りがうらやむことをしていても、自分が本当にしたいことでなければそれは幸せとは言えない。

このストーリーを読んでもらえば分かるように、一つの到達点に行くためのルートは一つでない。ロンドン大学にせよ、商社にせよ、いろんな経験を持った人がそれぞれのやり方でたどり着いている。途中で失敗してもいい。そこからいくらでも挽回できるし、失敗から学ぶことの方が多い。

そして大事なのはそこに入ることではなく、入ってからどうするか、ということだ。


あれだけ勉強が嫌いであった自分がなぜここまで苦手な英語に打ち込めたのか。それは大学を辞めたという大きな挫折があったからに違いない。当時は本当に辛かった。しばらく誰とも話さない日もあった。自分がうまくいかないことを他人のせいにしたり、努力もしていないのに努力した人をうらやましく思ったこともあった。また、辞めてから数年間は、お正月にテレビで箱根駅伝を見るのが大嫌いだった。


しかしこのままではいけない、自分を変えたい、その一心で勉強を続けてきた。過去に失敗し、それをまだ引きずっている人がいたら聞いてほしい。失敗はその後の努力でいくらでも成功に変えられる。


スティーブ・ジョブズも言っていた。

「将来を見据えて点と点を繋ぎ合わせることなどできない。できるのは、後からつなぎ合わせることだけ。」


将来振り返ってみた時に、『あの経験があって良かった』、と思える日が必ずくると信じている。


偏差値30台でも、人生は変えられる。学年でビリでも、エリートになれる。そして、


無理だと言う人の言うことを、聞いてはいけない。




追記

最後まで読んで頂きありがとうございました。このストーリーを読んで少しでも元気が出た、前向きになった、と言ってもらえれば幸いです。読んで良かったと思った方はぜひ下の「読んでよかった」をクリック下さい。またFacebookやtwitterなどでもいいね、またはシェアして頂けると助かります。


書籍化決定

このストーリーは「Fラン大学生が英語を猛勉強して日本のトップ商社に入る話」として宝島社から書籍化されることになりました。発売日は12月12日です。

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