雑誌を作っていたころ(30)
社葬
馬場さんの遺体は、すぐ寝台車でひばりヶ丘の自宅に運ばれた。ぼくらも仕事をなんとかやりくりして、仮通夜にのぞんだ。覚悟していたこととはいえ、社員は皆不安を抱えていた。創業者であるワンマン社長が、後継者も定めずに死んでしまったのだから、それも当然だろう。自分たちの仕事はどうなるのか。そもそも会社は存続できるのか。
そのころ、学研本社では緊急の役員会が開かれていた。青人社をどうするかが議題だ。持ち株比率は下がっていたが、青人社はまだ学研の関係会社である。放り出すわけにはいかない。しかし、青人社の社員を学研の正社員として雇用することは避けたかった。だから、適当な外部の人に社長をやってもらい、完全に学研との関係を断ち切るまで、だれか役員が兼任社長として就任するのが望ましかった。そして、経理畑の宮本専務がやってくることになった。
ぼくはその知らせを聞いて一安心した。まずは会社が生き残れる。いくらなんでも専務の率いる会社をひどい目に遭わせることはないだろう。後になって、この判断はかなり甘かったと悟ったが、そのときは目の前の問題を片づけることが先決だったのだ。
その日もかなり遅くなって、ぼくは馬場さんの自宅に向かった。かつて何度も通った道だ。平凡社時代は、泣く子も黙る常務取締役雑誌部長のところにお年始に行くために、青人社になってからはいろいろな話を聞きに行くために。だがもうその家の主はいない。昭和40年代に、知人の設計家に頼んで作ってもらったという片流れの大屋根を持つ家は、悲しみに包まれていた。
門を開けると、庭でムンクの吠える声がした。知っている匂いがやってきたので、ほっとしたのだろう。馬場さんが溺愛したビーグル系の雑種である。子犬のころは本当に元気が良くて、餌を横取りしようとした野鳥を、ジャンプしてやっつけたこともあるという。
「飛ぶ鳥を落とす勢いとは、まさにこのことだよ」
と昔、馬場さんが自慢していたのを思い出した。
部屋に入ると、青人社の社員はみんな揃っていた。嵐山さんが一番上座だ。仲良しだったカメラマンの清水さんもいる。扶桑社に去った渡邉さんや河出書房新社に去った三村さんも来ていた。平凡社時代の雑誌部同窓会みたいだ。みんな小声で話しているので、まるでお通夜みたいに陰気だ。お通夜なのだが。
やがて、「うわーん」と号泣する声が響いた。「おとこの遊び専科」編集長の大浦君が、感極まって爆発したのだ。彼もぼくと一緒によく慶応病院に通った。ぼくにとって彼は、この時点で唯一頼りにできる編集長だった。嵐山さんが口を開いた。
「こういうときに感情を出せるやつは大物だ」
馬場さんの葬儀は、五反田近くの桐ヶ谷斎場で行われることとなった。ぼくらは人が集まることが大好きだった馬場さんのために、青山斎場や千日谷会堂を希望したが、学研から拒否された。関係会社の社長が、本社役員をしのぐ規模の葬式をしてはまずいらしい。世の中にはいろいろなルールがあるものだと思った。
ここまでくると、感情は抜けてもはや「作業」となる。案内ハガキを作成し、印刷に回す。連絡する人のリストを作り、担当者を決める。学研の総務から人が来て、次々と打ち合わせ。彼らはプロなので、淡々と業務をこなしていく。事務的な手続きがひとつ終わるごとに、どんどん会社から馬場さんの痕跡がなくなっていく。
ぼくは馬場さんの机を整理した。ほかに適任者がいなかったからだ。引き出しからは、いろいろな手紙や写真が出てきた。ご家族に見せてはまずいのでは? と思われるものもあったが、それは一存でくずかごに入れた。この段階でわかったのは、馬場さんが家庭と会社、それに同人誌の仲間向けに別の仮面をかぶって生活していたことだ。家庭での馬場さんは会社のことをほとんど語らず、会社での馬場さんはまた別の人格だった。あとで話を聞いた同人誌のサークルにおける馬場さんも、さらに別のペルソナを持って生きていた。
そういう人生って、どうなのだろう。ひとりの人間の死でわかったことを前に、ぼくは途方に暮れていた。自分の人生の大半を理解する人がいない人生って、寂しくないのだろうか。逆に、誰にも見せないことが、馬場さんのアイデンティティだったのだろうか。
社葬の当日。馬場さんとゆかりのあった人たちが、次々と弔辞を述べた。最後の弔辞は、盟友であった嵐山光三郎氏だ。
「馬場さん、平凡社時代のあなたは威張っていて、ときどきイヤなやつだったけれども、たいていは頼れるボスでした。青人社を一緒に作って、学研の人たちを巻き込み、愉快な職場を築きましたね。もう亡くなってしまったけれど、編集総務の永野部長、生産管理の佐久間本部長、販売の吉田専務。みんな一緒に戦ったサムライたちでした。でもぼくらは普段着のサムライだった。池上線の長原駅。そこから徒歩27秒のオフィスで、チンドン屋の音に負けないように大声を出して編集会議をしましたね。お昼にはみんなで買った買い物カゴを持って、カツオのたたきや豆腐を買いに商店街を歩き回り、和室で車座になって食べました。いつもあなたはビールがないと寂しそうでしたが、みんなの前なので我慢していましたね……」
嵐山さん、一世一代の弔辞だった。ぼくは涙で何にも見えなくなった。かろうじて向かいに立っている「ドリブ」編集長の清野さんを見ると、清野さんも泣いていた。席に座っている学研の沢田社長も泣いていた。みんな泣いて、馬場さんを見送った。
葬式の翌日、馬場さんの奥さんから電話があった。
「ムンクが、昨日亡くなりました。お葬式の後で家に帰ったら、庭の隅っこで。主人が呼んだのだと思います」
その瞬間、ぼくの目には晴れ上がった青空を、ムンクを引き連れて散歩している馬場さんの巨体が見えた。馬場さんは、とても嬉しそうだった。
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