雑誌を作っていたころ(31)
新社長
馬場さんの後を受けて社長になった宮本さんは、学研の専務だったから、毎日は来られない。しかも就任当初から「自分はピンチヒッター」と公言し、早期に正式な社長と交代したい旨を口にしていた。
そんなある日、学研広告局長の中山さんから呼び出しがあった。ぼくは「社長の件だな」とピンときたので一人で出かけた。
「実は、青人社の社長を引き受けたいという人物が出てきたんだ。祥伝社で『微笑』の副編集長をやっていた廣瀬という人で、歳は君の1つか2つ上。彼自身は金がないが、バックに写植屋の社長が付いているから安心できる。一度会ってみないか」
数日後、中山さんと一緒に廣瀬氏が経営している神楽坂の編集プロダクションを訪ねた。パトロンだという写植屋の社長も同席していた。
「ボクには金はないけれど、アイデアと企画力は誰にも負けません。雑誌は企画さえ良ければ必ず当たりますから、ボクに任せてくれれば青人社はすぐ立ち直ります。資金的なバックは、こちらの社長が面倒を見てくれます」
口調は滑らかだったが、廣瀬氏はかなり緊張している様子だった。ぼくが平凡社の出身だとか、雑誌と書籍の編集に営業も経験していることを中山さんから聞いていたのだろう。なめられてたまるかという気負いが充満していた。
「どうだい、山ちゃんの感想は」
と帰り道で中山さんが聞いてきた。ぼくは答えた。
「ぼくらに四の五の言う権利があるんですか。学研サイドの腹は廣瀬さんで決まっているんでしょう」
「そう言ったら身も蓋もないじゃないか。一応感想を聞いているんだから」
「正直言って、わかりません。頼りない気もするし、若さがあって積極的だとも思うし」
「だからさ、君がサポートして二人三脚でやればいいんだよ。学研サイドでは君をこの際だから代表取締役専務にしたらどうかという意見も出ているし」
代表取締役専務。考えたこともなかった役職だ。現場の実権を握る実力者。ヤングエグゼクティブ。いろいろな思いが頭の中で渦巻いた。まだ幼い子供たちにも、少しはいい思いをさせてやれるかもしれない。
今から思えば、いいように手玉に取られていたのかもしれない。ぼくは中山さんに合意し、廣瀬新社長を決定事項として社内に伝えた。数カ月後、宮本さんから廣瀬さんへのバトンタッチが行われた。
廣瀬新社長は、就任後すぐに精力的な活動を始めた。取次各社に挨拶に行き、取り引きのある広告代理店を回る。編集長たちと個別に話し合い、編集プロダクションを集めて企画を募集したりした。青人社始まって以来の社員旅行も実施された。箱根の旅館での1泊2日だったが、酒と温泉と麻雀の阿鼻叫喚の一夜だった。
廣瀬さんは二言目には「新雑誌」を口にした。雑誌には賞味期限がある。「ドリブ」はすでに賞味期限切れで、「おとこの遊び専科」もまもなくそうなる。だから今のうちに新雑誌の芽をたくさん用意しておく必要があるというのだ。なるほど、そう言われてみればそうかもしれない。ぼくらはあまりにも既存の雑誌にこだわりすぎていたのかも。
そこでぼくは、かつて株ブームの時に臨時増刊としてそれなりの成績を収めていた「お金ドリブ」のリニューアルを提案した。独立開業とサイドビジネスをテーマにした雑誌を作るプランだ。廣瀬さんはその企画に「起業塾」というタイトルをつけた。初代編集長はすったもんだのあげく、宮崎博君が就任することになり、ぼくは発行人として後見役を仰せつかった。
こうして青人社に「日本こころの旅」以来の新雑誌が誕生することになった。
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