コミュ障のヲタクが厨二病をこじらして、海外で農業を始める② 厨二篇 

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次話: コミュ障のヲタクが厨二病をこじらして、海外で農業を始める話③ 厨二病重篤篇

 何とか小学校という環境に馴染んできた私であるが、中学校には馴染めなかった。

部活動が活発な学校で、クラスの皆は何かしらの部活に所属して、溌剌と部活動に精を出していた。

 私は元来、運動が苦手で運動部系の部活に入るのは嫌だったし、取り立てて、やりたいことも無かったので、授業が終わってイソイソと部活の準備を始める級友達を横目にトボトボと家路に帰る生活をしていた。

 家に帰っても、私にはやることが無かった。テレビも見れなかったし、テレビゲームもできない。

そんな私が見つけた唯一の楽しみは、漫画だけだった。


 当然、母親は漫画も禁止していたので、漫画を買うことはできなかったが、私は夜な夜な近所のゴミ捨ては漁っては、ジャンプやマガジンなどの少年漫画雑誌を見つけ出し、それをコッソリ家に持ち帰って読むという生活を送っていた。暇な土日は、古本屋を巡り歩いて漫画本を立ち読みをしていた。

 そして、私が夢中になったもう一つのものがあった。

 テレビもテレビゲームも禁止の我が家にあって、例外的に視聴可能なテレビ番組があって、教育上良いという理由から、NHKのドキュメンタリー、ニュースなどが視聴可能であったのだが、その中でも、金曜ロードショーの宮崎アニメが例外的に視聴可能だったのである!

 当然、私は宮崎アニメの虜になった。テレビ放映の予定を知ると数日前から、胸の高まりを抑え切れれず、まだかまだかと、放映日を指折り数えていたのを覚えいている。

 余りに宮崎アニメに集中して見るため、数回、見ただけで私は「天空の城ラピュタ」や「風の谷のナウシカ」の台詞をすべて暗記するまでになった。

 

 漫画やアニメに熱中する一方で、私は鬱積する感情を溜め続けていた。

漫画やアニメの世界の冒険、出会い、友情、恋愛。それらに猛烈な憧れを持ち、嫉妬し、それとは全く無縁な世界で、ポツリと生きている自分に猛烈に絶望していた。

 私は自分自身の生活や人生に物語として語れる要素を探して見たが、何一つ無かった。

私が出した結論は、


 この現実世界は生きるに値せず、虚構の世界で妄想と空想と戯れるのが最も妥当な処世術である。


というものだった。

 そして、私は美術部に入部して、アニメーターを目指すことにしたのである。

しかし、美術部にも馴染めず、数回、部活に出た後、行かなくなった。

 それでも、まだ現実世界に未練があった私は、流行の「スラムダンク」に影響されて、バスケット部などに入部してみたものの、イジメに合って惨めな中学校生活を送っていた。


 その頃の写真を見るとぞっとする顔つきの写真がいくつかある。


 その頃、私は、この無意味な世界を、自分が死んで世界を終わらせるか、他人を殺して終わらせるか、どちらにしょうかと考えていた。


 その頃の写真を見て、友人が言った言葉を覚えている。

いつか人を殺しちゃいそうな顔してるね。

 

後に、酒鬼薔薇聖斗がかの事件を起こした時、私は彼を自分の同類のように思っていた。


 彼は実際に行動を起こし、私はただ妄想した。

私は人生の意味を見出せず、

自分の人生を漫画の世界のようにどうカッコ良く終わらせるかを考えていた。

 そのヒントを与えてくれたのは、実は母親だった。

 母親は馬鹿左翼の典型的な発想から、反戦教育に熱心で、家には、ロバート・キャパや沢田教一のベトナム戦争の写真集があり、「プラトーン」や「ハンバーガーヒル」などのベトナム戦争映画を見させられて、挙句には、「アイシュビッツ収容所展」などという展示会に連れて行かれたりしていたお陰で、 

 私は完全なるミリテリーヲタクになっていた。

 そして、漫画やアニメの世界に没頭する一方、

 現実の世界を終わらせるために、私は傭兵になるか、戦場カメラマンになるかして、戦場でカッコ良く死のうと妄想を膨らませていたのである。


そんなこんなで、私はドンドンと世間ずれし、学業成績も落ち込んだ。

高校入試を控えた中学校3年生のとき三者面談で

先生
このままでは、受かるのは○○高校(地区の最底辺高校)くらいでしょうね。
。。。。マジで!?

 あー、俺の人生も本格的に終わって来たなぁと思ったが、

このままでは、終われん!?と思い直した。

 

 このまま、ダラダラと生きていたって、カッコ良く死ねやしない。私を馬鹿にして苛めている奴や、兄弟を見返して、アッと言わせなければ気が済まない!などというしょうもない理由で、私は勉強を始めるようになった。

 中3の終わりには、そこそこの成績を取れるようになったが

先生
これまでの内申点が悪過ぎるので、余り良い高校には入れないですね。
。。。。

 そんな事もあったりしたが、

どうにかこうにかして学区の中では中くらいの高校に入学できた。

 高校に入ったものの、

高校デビューする気も起こらず、私はひっそりと高校生活を始めたのだが、

入学して数ヵ月後に私はびっくり仰天な事態に直面する。


 最初の学力テストで、私は学年で3位の成績だったのである。


どういうこと!?と私は、どうも理解できなかった。狐につままれた気持ちで、何でこうなるのか分からなかった。

すごいねーとか言われても、どう答えて良いのか分からずしどろもどろになったりしていたが

 まぁ、気分は悪くなかった。

先生
市川ー、ハムレットの有名な一節を知ってるかー?
「to be or not to be」です。

などという教師からの無茶振りなんかも普通に私は答えられた。

 今にして思うと、私の小・中学校時代というのは、普通の小・中学生が学ぶ知識とはほど遠いところの知識を私は溜めていたのである。

 特に、左翼馬鹿の親の教育的指導のお陰で、私は政治・経済・歴史に関わることは、教師顔負けの知識があって、

 現代社会の授業で、その年死んだ有名人の名前を先生が言い、そのプロフィールを生徒が答えるというクイズをやったのだが、私は一人でそのクイズにすべて答えた。

 

先生
お前、すげーな。
あっ。はい、、、。
先生
じゃあ、丸山眞男は分かる?
東大の政治学者ですか?
先生
丸山眞男も分かるのか、、、
もう、いいや。分かった。

こんな事もあった。


先生
この写真を見てください。
 ベトコンは、こんな格好して、アメリカ軍に対してゲリラ活動をしたんですねぁ。
先生!!
この写真は、ベトコン(南ベトナム解放戦線)じゃなくて、NVA(北ベトナム正規軍)です。
制服みれば分かりますよ。
先生
。。。。

 特に、ことベトナム戦争に関しては、相当の知識があった。ディエンビエンフーの戦い、ラインバッカー作戦、ローリングサンダー作戦、テト攻勢、アパッチ・スノー作戦、カンボジア侵攻、、、

(後に私が、ベトナムで働き始めるきっかけも、この頃にあったように思う)


  私は、勉強ができる子として認識されるようになったが、違う意味で浮いた存在になっていた。

 やたらと軍事とアニメに詳しい陰鬱で不気味な優等生というレッテルを貼られて、私は友人らしい友人もおらず、クラスで孤立していた。

そんな中で厨二病は重篤化する一方であった。それを決定付けたのは、

新世紀エヴァンゲリオンと尾崎豊との出会いである。


つづく

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