MKD物語 ~素人が大学を作ったら~

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MKD物語1 「大学はできたのに…」

 フィリピン、ミンダナオ島の中心都市、ダバオに「ミンダナオ国際大学」という日本語学科のある大学がある。今でこそフィリピンで最も日本語能力試験の合格率が高く、スピーチコンテストでの上位を総なめ、という「フィリピン一の日本語教育機関」になったが、最初からそうだったわけでは、もちろん、ない。

  ミンダナオ国際大学は、日比ボランティア協会という、日本のお坊さんと葬儀屋さんが中心になって活動しているNGOが現地のフィリピン日系人の組織を強力に支援して設立した大学だ。フィリピンの若者たちから日本との架け橋になるような人材を、高齢化する日本の将来を見越して日本で介護士として働ける人材を、そして地域開発や教育の分野で活躍できる人材を育成したいということで、初めから「国際学科日本語専攻」「介護福祉学科」「教育学科」「地域開発学科」の4つが開かれることが決まっていた。強力な資金援助と、現地スタッフの努力で、あれよあれよと言う間に建物ができ、組織ができた。宣伝も始まり、「あの学校に通えば日本に行けるらしい」と結構話題になり、新設校だというのに入学希望者もたくさん集まった。しかし…日本語教師がいなかったのである。

 私は同じダバオの、日系人たちが運営している「フィリピン日系人会学校」という小中学校で、日本語教師として働いていた。大学での専門は小学校教育、副専攻が日本語教育で、こども向けの日本語教育を学び、卒業後フィリピンに来て現場で5年くらいの経験を積んだところだった。小学校教師としてようやく自信もつきはじめ、カリキュラム作成や教科書作成といったプロジェクトに取りかかり、手ごたえを感じ始めていた頃だった。

 小学校の隣に大学ができる、と聞いて、ああ、これで日本語教師仲間が増えるなあ、こっちは学部卒で周りに自分より日本語教育に詳しい人がいないところに来ちゃったから、この機会にベテランな先生にいろいろ教わろう、なんて思っていた。しかし、ある日日系人会の事務局長にオフィスに呼ばれた私は、衝撃的なことを言われた。「新しくできる大学ですけど、日本語教師見つからないんで、とりあえず澤村先生が教えてください」…ええ?私、小学校教師なんですけど?8時から17時まで小学校で働いてるの、知ってますよね?「他に人がいないので、大学の日本語の授業は18時から、ってことにしました。だから大丈夫ですよ。」

 ここでそんなの無理です!と断れば、ひょっとしたら大学は真剣に日本から教師を呼ぶことを再検討したかもしれない。しかし、私はここで言ってしまった。「カリキュラムと教科書が決まってるんなら…」 

  こうして、素人ばかりで大学に日本語教育コースを開設したらどうなるか、という、世にも恐ろしい実験がはじまったのである。 (以下つづく)



MKD物語2 「シラバスをつくろう!」


 大学を設立して日本語コースを開設したのに日本語教師がいない!…そんな状況で、とりあえずあなた達2人でなんとかしてくれ、ということで、小学校教師の私と、日系人のN先生が大学講師になることになった。与えられたIDは「Part time Professor」。訳すなら「非常勤教授」だろうか。「講師」ではないのは、シラバスとかカリキュラムの作成もやってもらうから、だそうだ。私もN先生ももちろんそんな経験はない。でもまあ、とりあえずやるしかない。

 まずは「最終目標を決めよう」ということにしたが、4年制大学で日本語を専攻した場合の、卒業時の学生に求める日本語力ってどのくらいなの?というのがそもそも分からない。理事会は「日本語が話せるようになればいい」というザックリした説明。パトロンである日比ボランティア協会からは「日本とフィリピンのかけ橋となるような…」という抽象的な説明。しょうがないので国際交流基金のマニラの日本語教育専門家と連絡を取り、インドネシアやタイ、ベトナムなどの近隣の国でどうなっているのかを教えてもらい、とりあえずそういうところのシラバスをパクろう、ということにした。私は小学校、N先生は高校で8時~17時で働いている。そんなに大学にだけ時間を注いでもいられないのだ。

 やっぱり4年も勉強するんだから目指せ1級合格だよね、と思ってどこかの国のナントカ大学の、かなりハードな感じのシラバスを参考にして案を作って学長に提出した。すると「うちはね、日本語コースって名前はついてるけど、あくまでも国際学科なんだよね。もうちょっと日本文化とか日本経済とかの授業もないと、教育省から認可が下りないなあ…」と言われて却下。でもそういうことなら、ある意味日本語教育の負担は減るわけで、こちらとしても好都合だ。学長と一緒に相談し、「日本文化論」「日比関係史」「日本の歴史」「日本の文学」「日本のメディアアート論」「日本経済概論」などのそれらしい講義をちりばめて、日本語は「卒業までに2級合格」という目標でいくことにした。それらしい授業の先生は、学長が元文部省スカラーの人脈で集めてくれるとのこと。これならなんとかなりそうだ。

 最終目標が決まったら、次は教えるペースだ。これも能力試験をベースに考えたほうが分かりやすいだろう、ということで、1年生はまあ、様子見。2年生で4級、3年生で3級、4年生で2級の合格を目指そう!って感じでいいんじゃない?と決め、とりあえずN先生が使ったことがあって、比較的手に入りやすい「みんなの日本語」を教科書にすることにした。1年生で1冊目を終わらせて、2年生で2冊目を終わらせる、くらいの感じにして、そこから先はそのときになればすごい先生とか専門家も来るだろうから、そのとき決めてもらえばいいよね、という、とても他力本願な感じで私たちは開校を向かえた。

 新入生たちは目を輝かせて入ってきた。この学校で勉強すれば日本に行けるらしい、という噂がまことしやかに広まっていたし、今ほどではないにしろ、日本のアニメやゲームはすでに若者たちの人気の的だったのだ。そして、なんの実績もない新設校に入学してくる学生というのは、やっぱりちょっと冒険心があるというか、変わり者が多い。そんなこともあって大学はとても面白い感じで、授業は毎日パーティーのように盛り上がり、私とN先生は結構充実した前期を過ごした。この調子なら案外うまくいくのかもな…などと甘いことを考えながら。 (つづく) 



MKD物語3 「見え始めた綻び」


 新しく大学がスタートした最初の年の前期、私たちはとても楽しく授業をしていた。1年かけて「みんなの日本語」を1冊終わらせればいいというのはそんなにハードではない。というか、とても楽だ。だから授業は活動中心で、学生の求めに応じて歌を教えたり、ロールプレイをしたりと、とても華やかで、できたばかりの大学の授業を視察に来た日本のNGOの方々やフィリピンの教育省の方々もご満悦だった。

 しかしシステムはすぐに破綻する。後期から始まる「日本文化概論」と「日本経済1」なる授業を教える先生がいない、というのだ。いや、正確に言えば、いたのだ。アメリカで日本経済の修士号を取った先生が教えに来ることになっており、実際に、ダバオまでやってきたのだ。しかし彼女は、どういうわけか3日でアメリカに帰ってしまった。噂では「借りた部屋にいたアリの行列を見て帰ってしまった」とのことだった。マジですか…。

 どれほど有能と思われているのか、あるいは便利に思われているのか、アナタが教えてください、という話が来た。いやいやいや、それはさすがに無理でしょう。経済のことなんて全然知らないし、それを英語で1時間半講義するとか、できるわけがない。さすがに、断った。私が断れば、学長のコネか、日本のNGOのコネで誰か探して来てくれるに違いない、と信じ…。

 しかしその仕事を引き受けたのは、私の友人M君だった。彼は私と同い年の20代前半の日本人で、ダバオにはフラっとやってきて、英語を学んだり、ダイビングをしたり、バスケをしたりして気ままに暮らしていた。日本でやっていたロックバンドが解散したので、とりあえず海外に住んでみたかったから来た、という男だ。音楽や話の趣味が合う私たちはすぐに意気投合して、私はときどき事情があって日本に一時帰国しなければならない時などに、彼に代わりに日本語の授業をしてもらったりもしていた。M君にはまったく日本語教育の経験はなかったが、もともと言語というものへのセンスが鋭く、コミュニケーションと人前でのパフォーマンスの能力が抜きんでていた彼は、「日本語教師向き」で、立派に私の代役を果たしてくれていて、学生達からも人気が高かった。だから彼が「日本語講師」になるなら分かる。しかしまさか「日本文化概論」と「日本経済1」を教えるとは。確か彼は環境科学か何かが大学の専門だったはずだ。経済の話なんて一度もしたことがないが、大丈夫なのか…?

 しかも、理事会が「12月に日本語能力試験っていうのがあるけど、もちろん学生たちは受けるんだよね?何人くらいが合格するのかな?」と言ってきた。最初の1年は様子見、2年目に4級、3年目に3級…っていう予定だってカリキュラム、提出しましたよね?今年の能力試験を受けさせるつもりは全くなかったので、授業はまだ全然4級の試験範囲に達してません。無理です。…と論理的に返事をしたつもりだったのに、来年以降の教育省からの認可や、学生の集客にも関わる、大学の命運がかかっているので、なんとかして1人でもいいから合格者を出してくれ、とのお達しを受け、楽しい活動中心の日本語授業は一変、日本語能力試験を目指すスパルタ授業へと形を変えることとなる。さあ、どうなってしまうのやら。 (つづく)



MKD物語4 「タダより高いものはない」


 教育省を納得させるために「日本文化論」とか「日本経済史」なんて授業を作ってしまったがために、日本語の授業数が足りなくなり、能力試験には全然学生は受かりそうもない。でもなんとか合格させろ、ということで、授業は一変、スパルタ式に。しかも「日本文化論」とかを教える専門の先生もいないので、とりあえず身近にいた日本人の若者、M君が教えている、というありえない状況。はたしてこの状況に学生たちはついてきてくれるだろうか?

 結論から言うと、学生たちはついてきてくれた。優等生が1人能力試験に合格し、日本文化論なども、付け焼刃ながらも、M君がなんとか乗り切った。私たちは1年目をなんとか泳ぎ切ったのだ。しかし、1年目が終わり、2年めを迎える頃になり、さらに大きな問題が潜んでいることに気がつく。

 日本語の基礎の授業は日本語1、日本語2、日本語3…と、積み上げ式で進んでいく。1年の前期で1、後期で2、2年の前期で3…という具合だ。2年の前期には、新入生のための「日本語1」と、2年生たちのための「日本語3」を開講するわけだが、ここで問題が生じる。2年の後期で「日本語2」の単位を落とした学生はどうするの?という問題だ。後期まで開講しません、となると、確実にこの学生たちはそこまでに覚えた日本語を忘れ去る。半年以上日本語に触れる機会がなくなるのだから当然だ。おそらく大学を辞めてしまうだろう。学生の数が減るのは新設校にとっては大きな痛手なので、なんとしても避けたい。つまり、2年目の前期にも、「日本語2」を開講しなければならないのだ。問題は、誰が教えるかだ。

 ただでさえ、となりの小学校の教師である私や、旅人のようなM君を「非常勤教授」にしている状況だ。さすがにこれ以上、得体のしれない奴を講師にするわけにはいかない。しかし、現実にダバオの町に大学で日本語を教えるスキルのある人なんていやしない。日本から呼んでくるしかないのだが、超薄給(当時の私の給料は小学校の方が月給で2万円くらい、大学の方は非常勤で8千円くらいだった)で来てくれる人が見つかるとは思えない。協力隊はミンダナオは危険度が高いと言って何年か前に全員引き上げてしまった。さあ、どうする?

 そこで大学が着目したのが、ダバオの町で定年後の暮らしを満喫している日本の60代の方たちだった。定年退職ビザで物価の安いダバオに住み、年金と退職金の利子でわりと潤沢な暮らしを送っているこの方たちの中には「まだまだ元気、社会貢献したいです!」という方が結構いたのだ。そして1人の日本語教師、Aさんが誕生した。教師経験も日本語教育について学んだ経験もないが、日本人なら日本語は教えられるでしょう、ということだ。しかもAさんはお金には困っていないので、ボランティアでいいという。大学としては願ったりかなったりだ。私は反対だったが、反対すると「じゃあアナタが教えてください」という話の展開になるに決まっていたので、黙っていた。そしたら…

 結果は推して測るべし。Aさんが担当した新入生のほとんどが、前期で大学を辞めてしまったのである。残った学生は3人だけ…。まずい。徹底的にまずい。さあ、どうなる、MKD? (つづく)



MKD物語5 「看板に偽りあり」


 これ以上ボランティアに頼るわけにはいかない。日本語教師不足に対し、さすがにMKDの生みの親である日本のNGO、日比ボランティア協会が動いてくれた。立派な肩書を持った先生たちが次々と送られてくることになったのだ。いわく、日本で塾の経営を20年以上もしているプロの教育者、元協力隊員で現在は大学院で日本語教育の研究をする若手日本語教師、英語ペラペラで日本語だけでなく日本文学についても教えられる大学講師…。しかし、どこでどう話がズレたのか、来たけどまったく授業の経験がない素人だったり、直前に来るのがキャンセルになったり、理想と現実の差にキレてすぐに辞めていったりと、なかなか戦力になる人は来てくれない。結局、現地採用で働く小学校教師の私、元ロックギタリストのM君、そしてもともとは書道のプロとして中学校に日本語教育ボランティアに来てくれていたWさん、日系人のNさん4人でなんとか回していくことになった。

 そんなわけで相変わらず日本語教師不足は続く。しかも学生はコンスタントに授業を落とすので、開講しなければならない授業はどんどん増えていく。日本語能力試験の出題範囲に授業で教えた範囲が全然追いつかない。さらに、「日本文学概論」とか「日比関係史」なんていう、誰が教えるのかさっぱり分からない授業が次々に控えている。どうする?どうする?どうする?

 ここでM君が起死回生のアイディアを思いついた。日本語の授業が足りない。逆に、教える人も内容もない「日本文学概論」とかいう授業は「余っている」。だったら、この授業で日本語の授業をしちゃえばいいんじゃない?という苦肉の策だ。こうして、「日本文学概論」は実は「日本語4」で、「日本の歴史1」は実は「日本語5」だという、羊頭狗肉作戦が始まった。もうこうなると、最初に作った間に合わせのシラバスやカリキュラムなど意味がない。3級や2級の合格を目標にするとなると、やっぱり日本語の授業が圧倒的に足りないことも実体験として分かってきた。どんどん「日本の伝統文化」は「日本語6」に、「日本のIT技術」は「日本語7」に、と日本語の授業が増えていく。この作戦のおかげで、能力試験にはどんどん学生が合格し、マニラで行われるスピーチコンテストに大人数が参加し、上位入賞するという結果を産み、大学側はホクホクだった。

 これだけ結果を出せば多少は意見も通るだろう、ということで、私たちはいくつかの提案を学校にした。ひとつは、日本語教師の資格を持った先生を日本から派遣してもらうこと。そして、今の有名無実となっているカリキュラムとシラバスを作り直すこと。最後に、新しいカリキュラムとシラバスに合った独自の教科書を作るプロジェクトをたちあげること、だ。「みんなの日本語」という教科書は日本語能力試験の合格を目指して作られた教科書ではないし、フィリピンの学生の興味をそそるような内容ではないので、そのまま授業には使えなかった。毎日それぞれの先生が時間をかけて教材作成をするくらいなら、4人で力を合わせて、教科書を作ってしまったほうが、後々楽なんじゃないか、と思ったのだ。

 「独自の教科書を作る」というのはいかにも大学らしくていいじゃないか!ということで理事会も大喜び。私たちはこのプロジェクトのためにオフィスやプリンタを自由に使わせてもらえることになった。こうして私たちの半分趣味としての、教科書作りが始まった。 (つづく) 



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