MKD物語 ~素人が大学を作ったら~

MKD物語1 「大学はできたのに…」

 フィリピン、ミンダナオ島の中心都市、ダバオに「ミンダナオ国際大学」という日本語学科のある大学がある。今でこそフィリピンで最も日本語能力試験の合格率が高く、スピーチコンテストでの上位を総なめ、という「フィリピン一の日本語教育機関」になったが、最初からそうだったわけでは、もちろん、ない。

  ミンダナオ国際大学は、日比ボランティア協会という、日本のお坊さんと葬儀屋さんが中心になって活動しているNGOが現地のフィリピン日系人の組織を強力に支援して設立した大学だ。フィリピンの若者たちから日本との架け橋になるような人材を、高齢化する日本の将来を見越して日本で介護士として働ける人材を、そして地域開発や教育の分野で活躍できる人材を育成したいということで、初めから「国際学科日本語専攻」「介護福祉学科」「教育学科」「地域開発学科」の4つが開かれることが決まっていた。強力な資金援助と、現地スタッフの努力で、あれよあれよと言う間に建物ができ、組織ができた。宣伝も始まり、「あの学校に通えば日本に行けるらしい」と結構話題になり、新設校だというのに入学希望者もたくさん集まった。しかし…日本語教師がいなかったのである。

 私は同じダバオの、日系人たちが運営している「フィリピン日系人会学校」という小中学校で、日本語教師として働いていた。大学での専門は小学校教育、副専攻が日本語教育で、こども向けの日本語教育を学び、卒業後フィリピンに来て現場で5年くらいの経験を積んだところだった。小学校教師としてようやく自信もつきはじめ、カリキュラム作成や教科書作成といったプロジェクトに取りかかり、手ごたえを感じ始めていた頃だった。

 小学校の隣に大学ができる、と聞いて、ああ、これで日本語教師仲間が増えるなあ、こっちは学部卒で周りに自分より日本語教育に詳しい人がいないところに来ちゃったから、この機会にベテランな先生にいろいろ教わろう、なんて思っていた。しかし、ある日日系人会の事務局長にオフィスに呼ばれた私は、衝撃的なことを言われた。「新しくできる大学ですけど、日本語教師見つからないんで、とりあえず澤村先生が教えてください」…ええ?私、小学校教師なんですけど?8時から17時まで小学校で働いてるの、知ってますよね?「他に人がいないので、大学の日本語の授業は18時から、ってことにしました。だから大丈夫ですよ。」

 ここでそんなの無理です!と断れば、ひょっとしたら大学は真剣に日本から教師を呼ぶことを再検討したかもしれない。しかし、私はここで言ってしまった。「カリキュラムと教科書が決まってるんなら…」 

  こうして、素人ばかりで大学に日本語教育コースを開設したらどうなるか、という、世にも恐ろしい実験がはじまったのである。 (以下つづく)



MKD物語2 「シラバスをつくろう!」


 大学を設立して日本語コースを開設したのに日本語教師がいない!…そんな状況で、とりあえずあなた達2人でなんとかしてくれ、ということで、小学校教師の私と、日系人のN先生が大学講師になることになった。与えられたIDは「Part time Professor」。訳すなら「非常勤教授」だろうか。「講師」ではないのは、シラバスとかカリキュラムの作成もやってもらうから、だそうだ。私もN先生ももちろんそんな経験はない。でもまあ、とりあえずやるしかない。

 まずは「最終目標を決めよう」ということにしたが、4年制大学で日本語を専攻した場合の、卒業時の学生に求める日本語力ってどのくらいなの?というのがそもそも分からない。理事会は「日本語が話せるようになればいい」というザックリした説明。パトロンである日比ボランティア協会からは「日本とフィリピンのかけ橋となるような…」という抽象的な説明。しょうがないので国際交流基金のマニラの日本語教育専門家と連絡を取り、インドネシアやタイ、ベトナムなどの近隣の国でどうなっているのかを教えてもらい、とりあえずそういうところのシラバスをパクろう、ということにした。私は小学校、N先生は高校で8時~17時で働いている。そんなに大学にだけ時間を注いでもいられないのだ。

 やっぱり4年も勉強するんだから目指せ1級合格だよね、と思ってどこかの国のナントカ大学の、かなりハードな感じのシラバスを参考にして案を作って学長に提出した。すると「うちはね、日本語コースって名前はついてるけど、あくまでも国際学科なんだよね。もうちょっと日本文化とか日本経済とかの授業もないと、教育省から認可が下りないなあ…」と言われて却下。でもそういうことなら、ある意味日本語教育の負担は減るわけで、こちらとしても好都合だ。学長と一緒に相談し、「日本文化論」「日比関係史」「日本の歴史」「日本の文学」「日本のメディアアート論」「日本経済概論」などのそれらしい講義をちりばめて、日本語は「卒業までに2級合格」という目標でいくことにした。それらしい授業の先生は、学長が元文部省スカラーの人脈で集めてくれるとのこと。これならなんとかなりそうだ。

 最終目標が決まったら、次は教えるペースだ。これも能力試験をベースに考えたほうが分かりやすいだろう、ということで、1年生はまあ、様子見。2年生で4級、3年生で3級、4年生で2級の合格を目指そう!って感じでいいんじゃない?と決め、とりあえずN先生が使ったことがあって、比較的手に入りやすい「みんなの日本語」を教科書にすることにした。1年生で1冊目を終わらせて、2年生で2冊目を終わらせる、くらいの感じにして、そこから先はそのときになればすごい先生とか専門家も来るだろうから、そのとき決めてもらえばいいよね、という、とても他力本願な感じで私たちは開校を向かえた。

 新入生たちは目を輝かせて入ってきた。この学校で勉強すれば日本に行けるらしい、という噂がまことしやかに広まっていたし、今ほどではないにしろ、日本のアニメやゲームはすでに若者たちの人気の的だったのだ。そして、なんの実績もない新設校に入学してくる学生というのは、やっぱりちょっと冒険心があるというか、変わり者が多い。そんなこともあって大学はとても面白い感じで、授業は毎日パーティーのように盛り上がり、私とN先生は結構充実した前期を過ごした。この調子なら案外うまくいくのかもな…などと甘いことを考えながら。 (つづく) 



MKD物語3 「見え始めた綻び」


 新しく大学がスタートした最初の年の前期、私たちはとても楽しく授業をしていた。1年かけて「みんなの日本語」を1冊終わらせればいいというのはそんなにハードではない。というか、とても楽だ。だから授業は活動中心で、学生の求めに応じて歌を教えたり、ロールプレイをしたりと、とても華やかで、できたばかりの大学の授業を視察に来た日本のNGOの方々やフィリピンの教育省の方々もご満悦だった。

 しかしシステムはすぐに破綻する。後期から始まる「日本文化概論」と「日本経済1」なる授業を教える先生がいない、というのだ。いや、正確に言えば、いたのだ。アメリカで日本経済の修士号を取った先生が教えに来ることになっており、実際に、ダバオまでやってきたのだ。しかし彼女は、どういうわけか3日でアメリカに帰ってしまった。噂では「借りた部屋にいたアリの行列を見て帰ってしまった」とのことだった。マジですか…。

 どれほど有能と思われているのか、あるいは便利に思われているのか、アナタが教えてください、という話が来た。いやいやいや、それはさすがに無理でしょう。経済のことなんて全然知らないし、それを英語で1時間半講義するとか、できるわけがない。さすがに、断った。私が断れば、学長のコネか、日本のNGOのコネで誰か探して来てくれるに違いない、と信じ…。

 しかしその仕事を引き受けたのは、私の友人M君だった。彼は私と同い年の20代前半の日本人で、ダバオにはフラっとやってきて、英語を学んだり、ダイビングをしたり、バスケをしたりして気ままに暮らしていた。日本でやっていたロックバンドが解散したので、とりあえず海外に住んでみたかったから来た、という男だ。音楽や話の趣味が合う私たちはすぐに意気投合して、私はときどき事情があって日本に一時帰国しなければならない時などに、彼に代わりに日本語の授業をしてもらったりもしていた。M君にはまったく日本語教育の経験はなかったが、もともと言語というものへのセンスが鋭く、コミュニケーションと人前でのパフォーマンスの能力が抜きんでていた彼は、「日本語教師向き」で、立派に私の代役を果たしてくれていて、学生達からも人気が高かった。だから彼が「日本語講師」になるなら分かる。しかしまさか「日本文化概論」と「日本経済1」を教えるとは。確か彼は環境科学か何かが大学の専門だったはずだ。経済の話なんて一度もしたことがないが、大丈夫なのか…?

 しかも、理事会が「12月に日本語能力試験っていうのがあるけど、もちろん学生たちは受けるんだよね?何人くらいが合格するのかな?」と言ってきた。最初の1年は様子見、2年目に4級、3年目に3級…っていう予定だってカリキュラム、提出しましたよね?今年の能力試験を受けさせるつもりは全くなかったので、授業はまだ全然4級の試験範囲に達してません。無理です。…と論理的に返事をしたつもりだったのに、来年以降の教育省からの認可や、学生の集客にも関わる、大学の命運がかかっているので、なんとかして1人でもいいから合格者を出してくれ、とのお達しを受け、楽しい活動中心の日本語授業は一変、日本語能力試験を目指すスパルタ授業へと形を変えることとなる。さあ、どうなってしまうのやら。 (つづく)



MKD物語4 「タダより高いものはない」


 教育省を納得させるために「日本文化論」とか「日本経済史」なんて授業を作ってしまったがために、日本語の授業数が足りなくなり、能力試験には全然学生は受かりそうもない。でもなんとか合格させろ、ということで、授業は一変、スパルタ式に。しかも「日本文化論」とかを教える専門の先生もいないので、とりあえず身近にいた日本人の若者、M君が教えている、というありえない状況。はたしてこの状況に学生たちはついてきてくれるだろうか?

 結論から言うと、学生たちはついてきてくれた。優等生が1人能力試験に合格し、日本文化論なども、付け焼刃ながらも、M君がなんとか乗り切った。私たちは1年目をなんとか泳ぎ切ったのだ。しかし、1年目が終わり、2年めを迎える頃になり、さらに大きな問題が潜んでいることに気がつく。

 日本語の基礎の授業は日本語1、日本語2、日本語3…と、積み上げ式で進んでいく。1年の前期で1、後期で2、2年の前期で3…という具合だ。2年の前期には、新入生のための「日本語1」と、2年生たちのための「日本語3」を開講するわけだが、ここで問題が生じる。2年の後期で「日本語2」の単位を落とした学生はどうするの?という問題だ。後期まで開講しません、となると、確実にこの学生たちはそこまでに覚えた日本語を忘れ去る。半年以上日本語に触れる機会がなくなるのだから当然だ。おそらく大学を辞めてしまうだろう。学生の数が減るのは新設校にとっては大きな痛手なので、なんとしても避けたい。つまり、2年目の前期にも、「日本語2」を開講しなければならないのだ。問題は、誰が教えるかだ。

 ただでさえ、となりの小学校の教師である私や、旅人のようなM君を「非常勤教授」にしている状況だ。さすがにこれ以上、得体のしれない奴を講師にするわけにはいかない。しかし、現実にダバオの町に大学で日本語を教えるスキルのある人なんていやしない。日本から呼んでくるしかないのだが、超薄給(当時の私の給料は小学校の方が月給で2万円くらい、大学の方は非常勤で8千円くらいだった)で来てくれる人が見つかるとは思えない。協力隊はミンダナオは危険度が高いと言って何年か前に全員引き上げてしまった。さあ、どうする?

 そこで大学が着目したのが、ダバオの町で定年後の暮らしを満喫している日本の60代の方たちだった。定年退職ビザで物価の安いダバオに住み、年金と退職金の利子でわりと潤沢な暮らしを送っているこの方たちの中には「まだまだ元気、社会貢献したいです!」という方が結構いたのだ。そして1人の日本語教師、Aさんが誕生した。教師経験も日本語教育について学んだ経験もないが、日本人なら日本語は教えられるでしょう、ということだ。しかもAさんはお金には困っていないので、ボランティアでいいという。大学としては願ったりかなったりだ。私は反対だったが、反対すると「じゃあアナタが教えてください」という話の展開になるに決まっていたので、黙っていた。そしたら…

 結果は推して測るべし。Aさんが担当した新入生のほとんどが、前期で大学を辞めてしまったのである。残った学生は3人だけ…。まずい。徹底的にまずい。さあ、どうなる、MKD? (つづく)



MKD物語5 「看板に偽りあり」


 これ以上ボランティアに頼るわけにはいかない。日本語教師不足に対し、さすがにMKDの生みの親である日本のNGO、日比ボランティア協会が動いてくれた。立派な肩書を持った先生たちが次々と送られてくることになったのだ。いわく、日本で塾の経営を20年以上もしているプロの教育者、元協力隊員で現在は大学院で日本語教育の研究をする若手日本語教師、英語ペラペラで日本語だけでなく日本文学についても教えられる大学講師…。しかし、どこでどう話がズレたのか、来たけどまったく授業の経験がない素人だったり、直前に来るのがキャンセルになったり、理想と現実の差にキレてすぐに辞めていったりと、なかなか戦力になる人は来てくれない。結局、現地採用で働く小学校教師の私、元ロックギタリストのM君、そしてもともとは書道のプロとして中学校に日本語教育ボランティアに来てくれていたWさん、日系人のNさん4人でなんとか回していくことになった。

 そんなわけで相変わらず日本語教師不足は続く。しかも学生はコンスタントに授業を落とすので、開講しなければならない授業はどんどん増えていく。日本語能力試験の出題範囲に授業で教えた範囲が全然追いつかない。さらに、「日本文学概論」とか「日比関係史」なんていう、誰が教えるのかさっぱり分からない授業が次々に控えている。どうする?どうする?どうする?

 ここでM君が起死回生のアイディアを思いついた。日本語の授業が足りない。逆に、教える人も内容もない「日本文学概論」とかいう授業は「余っている」。だったら、この授業で日本語の授業をしちゃえばいいんじゃない?という苦肉の策だ。こうして、「日本文学概論」は実は「日本語4」で、「日本の歴史1」は実は「日本語5」だという、羊頭狗肉作戦が始まった。もうこうなると、最初に作った間に合わせのシラバスやカリキュラムなど意味がない。3級や2級の合格を目標にするとなると、やっぱり日本語の授業が圧倒的に足りないことも実体験として分かってきた。どんどん「日本の伝統文化」は「日本語6」に、「日本のIT技術」は「日本語7」に、と日本語の授業が増えていく。この作戦のおかげで、能力試験にはどんどん学生が合格し、マニラで行われるスピーチコンテストに大人数が参加し、上位入賞するという結果を産み、大学側はホクホクだった。

 これだけ結果を出せば多少は意見も通るだろう、ということで、私たちはいくつかの提案を学校にした。ひとつは、日本語教師の資格を持った先生を日本から派遣してもらうこと。そして、今の有名無実となっているカリキュラムとシラバスを作り直すこと。最後に、新しいカリキュラムとシラバスに合った独自の教科書を作るプロジェクトをたちあげること、だ。「みんなの日本語」という教科書は日本語能力試験の合格を目指して作られた教科書ではないし、フィリピンの学生の興味をそそるような内容ではないので、そのまま授業には使えなかった。毎日それぞれの先生が時間をかけて教材作成をするくらいなら、4人で力を合わせて、教科書を作ってしまったほうが、後々楽なんじゃないか、と思ったのだ。

 「独自の教科書を作る」というのはいかにも大学らしくていいじゃないか!ということで理事会も大喜び。私たちはこのプロジェクトのためにオフィスやプリンタを自由に使わせてもらえることになった。こうして私たちの半分趣味としての、教科書作りが始まった。 (つづく) 



MKD物語6 「反面教師はミラーさん」


 「『ミラーさん』って人に興味が持てるか?持てないだろ?だから優等生以外は勉強しないんだよ。」という、M君の指摘が、教科書づくりのはじまりだった。私とWさんがイラストを副業にするくらい絵が得意だったこともあって、挿絵には自信があった。そして、学生たちと非常に仲のいいM君が学生たちの嗜好をうまく読みとって、魅力的なキャラクターを登場させ、例文や読解用の文章に恋愛要素などをちりばめれば、結構いい教科書になるんじゃないか、というノリだったのだ。

 しかし、もともと3人とも凝り性だったので、やるなら徹底的にやろう!となった。授業が1、2年生で日本語1~6まであるので、教科書は全6巻、1と2で4級の試験範囲が終わるように、3~5で3級の試験範囲が終わるようにして、6巻は導入した文型を定着させるための「おさらい」の一冊にすることにした。

 というわけでまずは日本語能力試験4級の出題範囲を分析する日々が始まる。「出題範囲」という本が出ていたのでそれを参考にして、出てくる単語、表現、漢字をリストアップし、それをどの順番で教えたらいいか、パズルのように組み立てていく。それから、実際に能力試験の過去問を数年分手に入れて、なるべく過去問を練習問題として各科に配置していく。しかし、やってみると「この単語、ここまでの科でまだ教えてないよ」とか「あれ?これって出題範囲に乗ってない表現じゃない?」という問題が頻発し、なかなかに骨が折れる。

 しかしそれ以上にこだわったのが「キャラクター性」と「ストーリー性」だった。舞台を大学にし、登場人物をフィリピン人、フィリピン日系人、日本人、その他各国の留学生にして、専攻も「ファッションデザイン」「映画製作」のような学生の好みそうなものにし、趣味を「バンド」「ダンス」といった、これまた若者受けしそうな感じにする。もちろん全員超イケメンで超美人で超オシャレだ。そして三角関係、四角関係に恋愛する。ただの「これはだれですか?」という平凡な文章も、女の子が彼氏に、携帯電話のメールボックスを見せながら詰問しているイラストと共に載せれば、学生たちは大喜びで練習する、というわけだ。

 私は似顔絵とリアルな絵が得意だったので、キャラクターの顔や挿入画を担当し、Wさんはかわいい絵が得意だったので、イラストや絵教材を担当、と役割を分担した。あまり質の良くないコピー機で白黒コピーされるので、絵は「白黒」でなければならない。「灰色」さえ使えないシビアな「白黒」だ。それでも「かっこいい感じ、かわいい感じにしないと優等生しか教科書を持ち歩かなくなる」と主張するM君に何度もダメだしされながら、私とWさんは日本語の教科書用とは思えないような絵をひたすら描き続けた。おかげでお互い、ずいぶん絵がうまくなったものだ。

 毎晩遅くまで大学に残って作業を続け、休日も返上してひたすらに教科書作りに明け暮れた。さあ、いよいよ教科書は完成!…という時にまた問題が発生した。やれやれ、今度は何ですか? (つづく) 



MKD物語7 「検閲の壁を乗り越えて」

 能力試験の出題範囲を分析し、過去問を例文や練習文にとりいれ、学生にとって魅力的なキャラクターと絵とストーリーを盛り込み、心血そそいで作った教科書は、約半年で1巻から3巻までの第一稿が完成した。ここで、学長と、日比ボランティア協会のスタッフからのチェックが入ることになった。まあ、作ってるのはいわば「素人」なので、「教育学博士」の学長や、「日本語教育の大学院生」の協会スタッフのチェックが入るのは、まあ、当然といえば当然である。教育学や日本語教育学の視点からいろいろアドバイスをもらえればよりよいものになるだろうし、教科書として出版するにあたっては、その肩書は箔がつくというものだ。

 しかし私たちは、赤を入れられて戻ってきた原稿を見て愕然とした。まったくこちらの意図が伝わっていなかったのだ。「学生の興味を惹く」ことが重要と考えて作った教科書は、学長には「チャラチャラしている」ように見えたのだろう。もっと質実剛健な、社会問題を扱うような教科書にしろと言ってきた。そして日本の協会スタッフは「倫理的に問題のある点が多い」と突っ込んできた。どうも、フェミニストっぽいところのある方だったようで、登場人物が恋愛ばかりで、告白したり別れたり、浮気したり、不倫疑惑が持ち上がったり、というストーリーがお気に召さなかったらしい。うーん、最初に説明したんだけどなあ…。

 まあ、コミュニケーション不足はこちらの責任でもある。学長には「大丈夫です、今は恋愛沙汰ばっかりですけどね、ちゃんと4巻くらいから、社会問題とかについて登場人物が討論したりするようになりますから。っていうか、4級の語彙と文法で、社会問題の話なんてできませんよ。ここで勉強をやめると、恋愛トークしかできないよ。もっと勉強すれば、賢そうな話もできるよ、っていうことです。」と言って納得してもらい、日本の協会スタッフには「アナタに依頼したのは倫理的なチェックじゃなくて、日本語教育学的なチェックです。現地のフィリピン人たちはアナタが気にしている部分について、なんの倫理的な問題も感じていません。なんなら他のみんなに聞いてみてください。」と少し強気で交渉し、なんとか望む形で、「チェック」を乗り越えることができた。

 そして新年度、私たちはついに「自分たちの作った教科書で授業をする」ことを始めた。学生たちの反応は上々だ。そりゃあ、図書室にある「みんなの日本語」をコピーしたものをみんなで回し読みしているより、自分の教科書があるほうが勉強しやすいに決まっているし、教える方も、次の試験にどこまで教えればいいのか決まっていて、その「次の試験」まで用意されている状態で教えるほうが楽だしうまくいくに決まっている。単語練習や文法練習に必要な絵カードも、そもそも自分たちが描いたものだから、コピーして台紙に貼りつければいくらでも使える。

 1年目に超優等生が1人受かっただけだった能力試験4級も、教科書を使いはじめたら教室の上位4割くらいが余裕で合格するようになった。学長もベタ褒めだ。さあ、次は能力試験3級に向けた4~6巻と、マニラのスピーチコンテスト対策だ。仕事というよりも、大学というオモチャで遊ぶ感覚だった。よく考えたらひどい話だ。(つづく) 



MKD物語8 「スピーチコンテスト」


 海外の日本語教育機関にとって、力試しの時は二回ある。ひとつが日本語能力試験、もうひとつが、各国の国際交流基金や日本大使館が開催する、スピーチコンテストだ。優勝すれば日本に研修旅行に連れて行ってもらえる、という副賞は学生にとってものすごく魅力的だし、学校としても名を売るチャンスだ。参加しない手はない。

 マニラで開催されるそのスピーチコンテストに、MKD開設初年度に優等生を連れて参加した際、上位入賞はできたが、さすがに優勝はできなかった。だが、私たちはそのとき、「これなら次は確実に勝てる」という感触を得ていた。なぜなら、参加者の誰もかれものスピーチが、全然おもしろくなかったからである。みんな型を押したように美辞麗句を書き連ね、いかに自分が日本好きか、日本のどんなところが素晴らしいかを語るだけ。問題提起も批判精神も相対化の目も全くない。こんな参加者ばかりのところに、ちょっと深いテーマの参加者がいれば、よほど発音が悪くない限りは、まず通るだろう。というわけで、スピーチコンテスト必勝法を考えたわけだ。

 だが、そう思い通りにはいかない。学生たちに「スピーチのテーマを考えなさい」というと、みんな同じような「美辞麗句スピーチ」になってしまうのだ。優等生ほどその傾向が強く、まったくおもしろくないスピーチになる。どうやらこれはフィリピンの国語教育や英語教育が、美辞麗句を連ねるスピーチを高評価しているかららしく、その文化にうまく適応して育ってきた学生ほど、その枠から抜け出ることが難しいようなのだ。逆に、あんまり優等生っぽくない学生が、おもしろいものを書いてくる。「日本のエロ本のクオリティが高すぎる」とか「日本語にもラップがあるらしいが、ラップならタガログ語のほうが絶対かっこいい」とか、「遠い親戚の姉さんが日本の老人と結婚して超微妙」といった、「磨けば光りそうな」ネタを持って来るのだ。個別に指導にあたって、エロ本の話はポルノと性犯罪抑止理論の話になり、ラップの話は音声学の話になり、歳の差結婚の話は高齢化社会と格差社会という社会派な話に育てていく。学生のほうも、これまであまり勉強で目をかけられたことがないで育ってきているのに、そんな機会をもらえたのがものすごく嬉しいらしく、みんな参考文献を読み、優等生たちに協力してもらいながら、おもしろいスピーチを完成させていった。

 内容だけでなく、パフォーマンスにも策を施した。元ミュージシャンのM君や、副業が大道芸人の私が、パフォーマンスの指導が苦手なわけがない。スピーチの途中でラップを披露したり、会場に呼び掛けて多数決をとったり、腹話術人形と会話したり…と、あの手この手で、スピーチを「おもしろいもの」にしていった。

 結果はもちろん、上位総なめ、連続優勝だ。優等生には「能力試験」というチャンスがあり、そうでない学生にも「スピーチ」というチャンスがある、というかたちを、大学内に作ることができた。あ、ちなみに、その後、マニラのスピーチコンテストでは途中に歌を入れたり、小道具を使ったりするのが禁止になった。えーと、まだやってないネタはなんだったかな? (つづく) 



MKD物語9 「単位ウォーズ」


 フィリピンの大学は、思った以上に単位に厳しい。そして、日本とはそのシステムが根本的に違う。何が違うかというと、授業料が単位ごとにかかるのだ。つまり、たくさん単位をとろうと思ったらそれだけお金がかかるということで、学生は、仮に単位を落とせばもう一度そのぶんのお金を払わねばならないのだ。日本の大学が「年間いくら」で授業料が決まっていて、その間、単位は取り放題だったのは、ある意味サービス満点だったのだ。しまった。もっと単位とりまくっておけばよかった。

 とにかく、そんなシステムなので、学生は単位が取れるかどうかにものすごく神経質だ。落とせばそのぶんお金がかかるのだから当然だろう。そして日本語のテストは「難しい」と評判だった。あまりにもカンニングが多いので問題の番号をシャッフルしてランダムに配るという方法を私が導入した結果、何人もの学生がこのトラップにひっかかって隣の優等生の回答を丸写し、あえなく轟沈したりしていたので、特に「私のテストは難しすぎる」と不評だった。うーん、カンニングできないのを難しいって言われてもなあ…。

 厄介なのは、単位を落とした学生ではなく、その親だ。成績を出した後に、親が職員室に乗りこんでくるのはしょっちゅうだった。「なんでうちの子が単位落とすんですか!」というわけだ。フィリピンには「単位を落としたら留年」というシステムが小学生の頃からあるので、小学校教師である私はある程度こういう修羅場には慣れている。だがまさか、大学生にもなって親が怒鳴り込んでくるとは…。親の顔が見てみたい。いや、やっぱり見たくない。

 こちらとて、好き嫌いで単位をやったり落としたりしているわけではない。単位をやらないのには、それなりの理由があるのだ。フィリピンの教育機関の評定方式は100点満点の加算式で、75点に満たないと落第になる。100点満点の75点って相当難しいんじゃないか?と最初は思ったのだが、なんのことはない、どの学校も成績にゲタをはかせていて、実際は出席、提出物、テストなどで4割~5割くらいのパフォーマンスを見せていれば、落ちることはない。つまり、それでも落としている学生というのは、教えた内容の半分もできないやつ、なのだ。

 「こちらが出席率、こちらが提出物、こちらが小テストの結果で、これが定期テストの結果です。ほら、全部足しても4割もできてませんよね?だから単位はあげられません。おひきとりください。」と、論理的に説明しても、納得する保護者はいない。というか、評定システムは授業の最初にプリントにして配っているので、これで納得する人なら、そもそも乗り込んでくるはずがない。やれ、私は教育省の偉い人を知っているだの、クラスメイトの誰それよりもテストの点は高いだのと関係のないことを言っては、単位をくれと言ってくる。贈り物を持って来る人も多い。金目のものではなく、フルーツやら米やらを持って来るあたりが、意外とツボで、一瞬単位あげちゃいそうになるが、やはりそういうわけにはいかない。

 挙句、大学からも「もうちょっと優しく評定してくれ」と指導を受けた。うーむ、どうしたものか。(つづく)



MKD物語10「クラブをつくろう!」


 自分自身の大学時代の思い出、その半分以上がサークルの仲間とやった馬鹿な遊びの思い出な気がする。「走れメロスごっこ」と称して駅伝をしたり、「本気でかくれんぼ」と称して非常食を買いこんで大学構内で2泊3日のかくれんぼをしたり、アミダくじで服を交換して、まったく似あわないファッションで授業やバイトに出たり、おなじくアミダくじで1週間、住む部屋を交換したり…。

 しかし、MKDにはサークルがなかった。まあ、大学が始まって3年目、まだ学生が150人くらいしかいないのだから、無理もない。だが、やっぱり大学といえばサークルだ。あの大学生ならではの「たまり場でウダウダする雰囲気」をぜひとも学生たちに味わってもらいたかった。というわけで、学生たちを口説いて、サークルを立ち上げさせることにした。まあ、サークルという呼称だと大学事務局にぴんとこないだろうから、クラブ、だ。

 だが、学生たちのやりたい音楽クラブやダンスクラブは「日本文化と関係ないからダメ」と許可が下りない。別に許可なんていらないから勝手にやればいいじゃん、とも思うのだが、学校内に「たまり場」をゲットするためには、やはり学校側の認知は重要だ。日本文化に関係あるもので…音楽…。手元にある楽器は私が趣味で集めた、統一性のない楽器たち。アコーディオン、沖縄三味線、インドの太鼓、竹笛、竹サックス、タンバリン…、これでどう「日本文化」なクラブを作れというのか。っていうか、こんな楽器の組み合わせで合奏したら、まるでチンドン屋だ。…ん?チンドン屋?…って日本文化だよな?

 というわけで、チンドン屋がいかに「日本の大衆文化」を代表するものであるかを、学生達と一緒にネットで調べ、報告書みたいなのにまとめて大学に提出したところ、「これはすばらしい!」とあっさり許可が下りた。やってみるものである。空き教室を使うことを許されただけでなく、大学祭などの際に演奏することを条件にいくばくかの活動費までもらったので、ダバオの町で手に入る上に素人でも演奏しやすい楽器、ということで、日本や韓国の中古品を売っているジャンクショップでピアニカを3台ほど買ってきた。楽器の数に合わせて10人くらいを集めたら、あっという間に満員御礼。MKDチンドンクラブの発足だ。

 高校生の頃にトランペットを吹いていたという学生と、ギターがちょっと弾ける、という学生の2人を除いて、他の全員が音楽の素人だ。だが、幸か不幸か、この楽器構成だと、あんまり上手じゃなくても、パフォーマンスの仕方さえにぎやかなら、結構それらしく見えるのである。フィリピンの大学に多いトランスセクシャル系の学生がにぎやかしにはもってこいだ。道化師のようなメイクにもまったく抵抗なく、意気揚々とやってくれる。大学のイベントに約束通り出演したところ、学長にもいたく気に入られ、なんと町の祭りのパレードにも参加することになった。マニラの日本文化祭にも声をかけられたりしたほどだ。Youtubeに当時の動画が今も残っているので、よければ見てみてほしい。http://youtu.be/-vsjjL4tkPY

 そんなこんなで、学生たちはたまり場を手に入れ、私は学生と遊びまくっていた。まさかそれが大問題になるとは思わずに…。(つづく)



MKD物語11 「さらば、MKD!」


 私たちは学生と仲が良かった。一緒に飲みに行ったり、バンドを組んだり、海に遊びに行ったりすることも多かった。学生の気心を知ることができるし、学生が日本語を使う機会も増えるので、万々歳と思っていた。しかしフィリピンの大学の常識としては、あまりこれは好ましいことではなかったらしい。

 理由としては「先生の威厳、ひいては学校の威厳がなくなる」「公平に採点できなくなる恐れがある」「同じ授業料を払っているのに、日本語を学ぶ機会の濃さに差が出てしまう」というようなことらしい。まあ、懸念は分からなくもないが、たいした問題ではないだろうと、私たちは学生と遊び続けた。まさかそれで贔屓して仲のいい学生に単位をやるほど落ちぶれてはいないつもりだった。

 あるとき、学生たちの発案で1人の先生の誕生日を祝おう!ということになり、みんなで一緒に日本語教師の職員室で、パーティーをすることにした。ケーキやピザやジュースやビールを用意し、学生たちが歌い、日本語で祝いのメッセージを送る。音楽をかけて踊り、楽しく時間を過ごして、ああ、日本語教師って楽しい仕事だなあ、小中学生と違って、大学生で教えるやりがいってこれだなあ、などと感じていた。…のだが。

 一夜あけると、これが大問題になった。「ビール」である。

 日本の大学では、研究室などで先生と学生が一緒に酒を飲むのは、それほど珍しいことではない。少なくとも、私が大学生だった頃は、当たり前のことだった。先生の誕生日をみんなで祝った記憶もある。だが、フィリピンでは大学で先生と学生が一緒に酒を飲むというのは、「大学がつぶれかねない」不祥事なのだそうだ。うわあ、知らなかった。

 責任をとって1人の先生が辞めることになり、残った私たちにも金輪際、授業以外で学生と関わるな、というお達しが出された。さすがにそれは行きすぎだろうと思って反論したら、危うくクビになりかけた。そのくらい重大な事件だったのだ。そのときにいろいろ事務局の人やフィリピン人の先生たちと話しているうちに、「なるほど、ここは感覚としては高校なんだな」と気づいた。制服着用の義務、学生との距離の取り方、そして、何か問題があると学生本人ではなく、親が怒鳴り込んでくる感じ。そのどれもが、「ここは高校だ」と思えば納得できる気がした。

 思えば、これまでが自由すぎたのだ。大学がそれなりに成長し、組織が固まってくると、私のような「アウトロー」は居心地が悪くなる。いつまでも規格外に頼っていてはシステムも作りにくいし、新人へのしめしがつかない。そろそろ潮時かな、と私は感じ始めた。そんなわけで、私は完成してから4年間、大学ができていく様を内部で見ながら働いてきた職場を、辞することにした。

 さあ、次はどこの職場で遊ぼうかな。(おしまい)



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