雑誌を作っていたころ(37)

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さらば青人社


 1997年7月、ぼくは社長に辞表を提出した。代表取締役専務を辞任したいという申し入れだった。

 いきなり辞めては残る社員に動揺が起きると思ったので、二段階で辞めようという考えだった。

 それに対して社長はこう言った。

「なんだかややこしいな。逃げるのならそう言えばいいのに」

 この人には何もわかっていない。自分が作った会社から好きこのんで逃げたいやつがどこにいる。あんたが潰しかけているから、それを守ろうとしているだけなのだ。


 ぼくは社長にこう聞いた。

「もし青人社を買ってくれる人がいたら、応じますか?」

 それに対する答えはYESだった。ただし、条件が折り合えば。

 すぐさま社内の有志を集め、以下の文書を配布して協力を呼びかけた。


***

「青人社の誇りを守る闘い」

 青人社は出版社であり、株式会社組織であると同時に、雑誌作り、本作りへの情熱によって集った技能集団でもある。

 もちろん、資本主義社会における会社組織とは、営利を追求することが存続のための条件であり、これが果たされない以上、滅びることになることは避け得ない。

 しかしながら、会社組織は滅んでも、ひとつの屋根の元に共通の目的を持って集まった仲間たちまでもが解散する必要があるのだろうか。

 かつて創業者を失った青人社は、選択の余地なく新たな経営者をいただくこととなった。しかし、わずかな資産を短い時間で失い、ほとんど身売り同然の形でまた新たな経営者に支配される立場となる。それもつかの間、不幸な事件で援助体制を喪失してから約1年、とうとう文字どおりの存亡の危機に立たされた。

 会社組織の存続が誰の立場でも第一義であるならば、いかなる業態の変化、どのような形のリストラも是といえる。しかし「魂の部分の青人社」すなわち技能集団のもつ場の雰囲気こそが青人社の実態であると信ずる者にとってはそうではない。

 これまで名ばかりの経営者であり、さほどの指導力を発揮せずにいた現場責任者として、私は青人社に所属する有志の諸氏を結集し、新たなる青人社を構築したいと願う。

 それが、かかる事態を招いたことへの、私なりの責任の取り方である。

 本日、諸氏の心よりの提言、意見を伺いたいと思う。

***


 それから水面下での動きが始まった。凸版印刷の部長に会い、青人社を買ってくれる会社はないか、探してくれるように打診した。東京印書館の役員にも会って、同様の依頼をした。共同印刷にも。

 だが、折衝が続いているとき、寝耳に水の事件が起きた。社長が勝手に「起業塾」の営業権を知り合いの不動産屋に売却したというのだ。そんなことをされては、こちらの努力が水の泡だ。あわてて社長室に飛んでいった。

「きみはもう専務じゃないんだから、相談する必要はないだろう?」

「青人社売却の話がこれで飛んでしまいます。なぜ切り売りするんですか?」

「金がないんだよ。売れるものから売るのは常識じゃないか」

「他業種の人ならそう考えるでしょう。しかし出版社の価値はブランドや雑誌だけではありません。価値があり、売れる本を作れるスタッフと体制こそが一番の価値なんです」

「理想論はもういいよ。とにかく金がいるんだ」

 その後、問題はさらにこじれた。社長が何を思ったのか、青人社の営業権を金融屋に売り渡し、その中に不動産屋に売った「起業塾」が含まれていたのだ。二重売りだ。


 折しも社内は引っ越し準備でごった返していた。六本木日産ビルから六本木一丁目のABビルへ都落ちするためだ。「ドリブ」のスタッフはすでに社を去り、ワールドマガジン社の社員も姿を消していた。まさに落日そのものの状況だった。

 ぼくは青人社売却の計画を諦め、自分の会社を作る決心をした。


 自分の会社といっても、ぼくには単独での起業の経験はない。あるのは嵐山さんたちと青人社を作ったときの記憶と、「起業塾」を作ってきた上で溜まった知識だけだ。とにかく人脈を使って、なるべく投資をしないでスタートしようと考えた。ぼくには大した貯蓄がなかったし、出版関係の仕事をすれば、運転資金がいくらあっても足りないことは熟知していたからだ。


 早速、平凡社時代の同期で、青人社でも監査役を依頼していた公認会計士の小坂くんに相談を持ちかけた。彼は青人社の経営について何度となく相談していたので、状況は完全に把握している。苦境に立ったとき、説明をしなくてもわかってもらえる人がいるのはとても心強いことだ。


「何人くらい連れて行くの?」

「社員としては自分ひとりでやりたい。来る者は拒まずだが、経営が安定するまでは人を雇う余裕はないと思う」

「それは賢明だね。で、法人格は?」

「そこがポイントなんだけど、官庁や大手企業の仕事を受けることを考えると、法人格は絶対に必要だと思う。有限でいいと思うけど」

「人が作った会社で良ければ、ひとつあるよ。僕が預かっている会社だから、変な債務がないことは保証できる。それを使って登記を変更すれば、資本金を用意しなくても済む」

「なるほど、それは助かる」

 会社を作るには資本金を用意しなければならない。有限会社の最低資本金は300万円(当時。今は有限会社は作れない)だが、既存の会社を譲ってもらい、登記変更をすればそれが不要になる。開業資金をできるだけ低くしたいぼくにとっては、まさに渡りに船の話だった。


 次にオフィスを用意しなければならない。自宅には余分な部屋はないし、就業時間が不規則な出版業では、家人に迷惑がかかる。当面は自分ひとりだから、自宅近くにアパートでも借りようかと物件を探し始めた。

 すると、ぼくが辞める気配を察知したのか、廃刊になった「ドリブ」のスタッフから連絡があった。編集長だった大浦くんが代表だ。

「山崎さん、新会社を作るのならついていきますよ。俺と佐藤カマタクは確実です。あとで成田と武内も合流できます。それから中村慶も」

 新会社で何をするかは決めていなかったのだが、この話で一気に具体化した。それだけスタッフがいれば、雑誌が作れる。編集プロダクションとして雑誌を1冊まるごと請け負う仕事をすれば、収入も安定するだろう。


 となると、アパートやマンションでは手狭だ。5、6人が仕事をできるようなオフィスを借りなくてはならない。すぐさま不動産屋に手配して、中央線沿線で四谷からお茶の水までの間の物件を紹介してもらうことにした。

 なぜそのエリアなのかというと、講談社は護国寺、小学館は神保町、その他の出版社はその間に集中している。中央線の四谷からお茶の水の間だったら、どこに行くにも便利だと思われたからだ。

 ほどなく紹介のFAXが20枚ほど届いた。最初の物件は市ヶ谷駅。住所は九段南だ。1階と地下という変則的なフロアだが、まずこれから見てみようと思った。かつて平凡社があった場所の近所であるということが、妙に親近感を持たせてくれたからだ。


 下見にはひとりで行った。不動産屋のおばちゃん営業マンが案内してくれる。横山ビルという小さな軽量鉄骨造り3階建てのビルの前に、小太りのおっさんがいた。大家さんだった。

 すると、背後から「あれっ? 山崎さんじゃないの」と声がかかった。不動産屋のおばちゃんが「こんにちは」と挨拶する。振り返ると、知った顔があった。

 創刊以来長きにわたってホットアートで「ドリブ」のデザインを担当してくれた川口さんだった。独立して事務所を構えたのは知っていたが、この近所だったのだ。しかも不動産屋が同じ。これは奇遇だ。


 大家さんに部屋を案内してもらう。リフォーム済みで、広くはないものの居心地の良さそうなフロアだった。天井が高いのがいい。地下室に降りてみる。図面で見たよりも広く感じる。ここは1階よりさらに天井が高い。地下室ならではの圧迫感が微塵もなく、これならタコ部屋にしてもノイローゼ患者を出す気づかいはないと思われた。

 聞けば大家さんはこの裏に住む大工さんで、今は引退して工務店を経営しているのだという。このフロアは貿易業を営む息子さんのために作ったものだった。地下室は倉庫代わりだったのだ。

 大家さんからはぼくの経歴をかなり詳細に質問された。ご近所に迷惑になるような店子は入れたくないのだそうだ。すでに何件も断ってきたと言っていた。配送のトラックが来るような仕事の人は困るのだと。ぼくが出版業をやるつもりだと言うと、安心したようだった。


「2階と3階もおたくの同業者ですよ。それなら、やりやすいんじゃないの?」

 2階と3階にはコパニカスという編集プロダクションが入っていた。ぴあ出身の人が社長で、手広くやっているらしい。ぼくらが1Fと地下に入れば、まるごと編プロピルになる。そういうのも面白そうだと思った。


 翌日から他の物件を見に行く予定だったが、その晩から大家さんの電話攻勢が始まった。

「あんたを気に入った。他の人にはもう見せないから、早く決めてくれ」

 そんなことを言われても、まだスタッフに見せてない。

 あわてて大浦くんを伴い、再度見に行く。大浦くんは地下室をひと目で気に入り、

「ここにしましょう。ここならいい仕事ができますよ」

 と言った。これで決まった。


 それから大浦くんと2人で、小坂会計士のところに報告に行った。譲ってもらう会社の件も進めなければならない。定款なども決めておく必要があった。

「オフィスが決まったの。それはおめでとう。ところで社名はどうする?」

「実は青人社を作るときにぼくらで考えた『悠々社』という社名があるんだけど」

「山崎さん、何ですかそれは。初めて聞きましたが」

「それはね、かくかくしかじか」(第09話参照)

「そんな名前があるなら、それにするっきゃないじゃないですか」

「僕もそれがいいと思うよ。重厚感があって、最近流行のカタカナ社名よりいいじゃない」

 こうして社名も決まった。あとは什器備品をそろえて、仕事を始めるばかりとなった。







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