雑誌を作っていたころ(40)

前話: 雑誌を作っていたころ(39)
次話: 雑誌を作っていたころ(41)

青人社倒産


 開業準備をしていたころは、古巣の青人社がどうなっているのかが気にかかっていたが、「開業マガジン」がスタートし、VICSのムックも同時並行で作り始めると、とてもじゃないがよその会社に気を回す余裕など消え失せていた。

 しかしその間も、青人社に巣くった病魔は拡大し続けていたようだ。ある日、誰かが「そういえば青人社、潰れたらしいですよ」と言ってきた。びっくりして六本木へ行ってみると、ABビルにあったオフィスがロックアウトされている。かつて自分も一員として設立に参加し、10年以上も力を注いできた会社が、ついに息絶えたのだ。それと同時に、社長の青山氏と、前社長の廣瀬氏が行方不明になった。


 なぜ彼らが逐電したのかは、やがて判明した。2人とも、国民金融公庫と東京都信用保証協会からの借金で連帯保証人になっていたからだ。それ以外に、青山氏には莫大な負債がある。印刷屋さんだけでも相当な額のはずだった。

 連帯保証人ということで言えば、ぼくもそうだった。さらにぼくと廣瀬氏は学研からの借金の連帯保証人でもあった。こちらは公正証書を取られている。半年前に辞めてはいたが、連帯保証人はそのままだったのだ。


 数日後、ぼくのメインの銀行口座が凍結された。青人社のメインバンクであった住友銀行荏原支店にぼくの個人口座があったのだが、青人社への公的融資がその銀行を経由してなされていたため、「自動的に」取られた措置だという。そんな仕組みがあるなんて、想像すらしなかった。

 最初は何が起こったのかわからず、荏原支店の担当者に問い合わせて、やっとそのからくりがわかった。理屈はわかったが、それではこちらも潰されてしまう。カードの支払いや、もろもろの引き落としがすべて引き落とし不能になってしまうではないか。

 かんかんに怒って銀行に文句を言い、あちこち相談に回った。内容証明郵便も送った。幸い、青人社時代から懇意にしていた担当者が次善の策を講じてくれたため、破局は免れることができた。一時はできたばかりの悠々社まで青人社の道連れになってしまうのではないかと思ったものだ。


 連帯保証していた借金の内容は、金融公庫が残り70万円、保証協会が1500万円、学研が3000万円。いくら連帯保証人だからといって、とても個人で払える金額ではない。がしかし、保証協会の取り立ては家にもやってきた。学研の社員は悠々社にやってくる。胃に穴が開きそうになった。取り立てというものが、これほど精神活動に支障をきたすものだとは、経験してみるまでわからなかった。なにしろ、原稿が1行も書けなくなるのだ。


 その連帯保証の問題だが、結論からいえば、3つとも処理した。金融公庫は廣瀬氏の後見人であった写植屋の社長さんと相談して折半して払い、保証協会とは交渉の末、毎月わずかずつだが払うことにした。学研との交渉では、旧知の中山氏に間に立ってもらい、金額を圧縮して精算した。足りない分は「開業マガジン」に学研のCAI教室の広告を無期限で無料掲載して相殺することで勘弁してもらった。これでようやく公正証書の呪縛から逃れることができた。穴が開きかけた胃袋も無事だった。


 青人社を辞めるときに、もっと強く保証人から外してもらうことを主張すればよかったのだろうが、代わりの人を立てない限り、連帯保証人は抜けられない。当時、潰れそうな会社の連帯保証を引き受ける人など、どこにもいなかった。この時ほど連帯保証人制度の無慈悲さを痛感したことはない。

 この時以来、悠々社にはずっと金の苦労がつきまとっている。会社を設立したときに、うっかり貧乏神を招き入れてしまったのだろうか。あるいは、青人社から貧乏神が引っ越してきたのだろうか。

続きのストーリーはこちら!

雑誌を作っていたころ(41)

著者の山崎 修さんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。