雑誌を作っていたころ(41)

前話: 雑誌を作っていたころ(40)
次話: 雑誌を作っていたころ(42)

相馬さんのこと


 できたての悠々社に、新しいスタッフが加わった。相馬健二さん。60過ぎのベテラン編集者である。

 もともとは美術出版社にいて、技法書などをたくさん作り、やがて独立して編集プロダクション「たちぬい企画」を開業。平凡社などの仕事を請け負っていて、ぼくも遊びに行ったことがある。青人社時代にも何回かお世話になった。


 その相馬さんが、編集プロダクションを畳み、フリーランスとして仕事を手伝いたいという。早速、進行中のVICSムックに加わってもらうことにした。3つの取材チームが撮影した写真を仕分け、セレクトして入稿の準備をする仕事だ。

 だが、どうも様子がおかしい。何日か経って、別のスタッフから話があった。

「昨日、一日中机の上を引っかき回していましたよ。整理した写真が見つからないと言って、みんなの机の上まで。『この箱に入れて整理したんじゃないですか?』と言ったら、あった、あったと喜んで。ちょっとボケてるんじゃないですか」


 そこで気をつけて見ていると、やっぱり少し変だ。流れに乗って作業をしているときはいいが、ふと手が止まると、長時間考え込んでいる。

「相馬さん、お体の具合が悪いんじゃないですか? 決して無理はしないでくださいよ」

 と話したが、本人は笑っている。すぐに慣れるから大丈夫だと。

 相馬さんは料理の名手である。かつては趣味でおせち料理を百人分作り、大晦日に知り合いの家を回って届けていたそうだ。巨大なアイスクリーム製造器を持っていたが、「もう使わないから」と、業務用の鍋や調理器具と一緒に悠々社に寄付してくれた。何を隠そう、悠々社名物の「鍋」は、そのとき相馬さんがくれたプロ用の寸胴鍋で作るものなのである。ご自慢のアイスクリームも、一度だけだが全員に振る舞ってくれた。


 ある日、相馬さんの親友である自動車評論家から話があった。相馬さんが悩んでいるという。

「彼はね、自分では仕事がそこそこできると自信があったんだ。だけど、きみの仕事ぶりを見ていたら、その自信が木っ端微塵に砕けてしまったらしい。あんなスピードで、次から次へと仕事をこなす人は見たことがないと言ってたよ。だからさ、自分の能力を基準にして他人を見るのは少し考えたほうがいいんじゃないかな」

 ぼくは驚いた。自分が人一倍仕事のできる人間だなどとは思ったことがなかったからだ。それどころか、もっと早く、もっといい仕事ができないと生き残れないと考えていた。編集作業は肉体労働ではない。大量の頭脳労働と、少しばかりの手先の仕事だ。だから肉体的な年齢はハンディにならないし、経験があればあるほど有利だと思っていた。


 そこで相馬さんと2人で話をした。すると、彼は意外なことを言い出した。

「まだらボケって知ってますか? 記憶が一様ではなくて、ところどころ不鮮明になる状態です。どうやらそれに罹っているらしく、みんなと協調してやる仕事では足を引っ張るかもしれません。できれば、1人でコツコツやる作業に回してほしいんですが」

 ちょうどVICSムックが終わりかかっていたので、相馬さんには次の仕事を単独でやってもらうことにした。ライフワークで「世界の交通史」をまとめている人から出版の相談があったので、担当にしたのだ。これは向いていたらしい。著者は70歳過ぎの人だったので、話も合ったのだろう。相馬さんは喜々として仕事に取り組み始めた。


 だが別の面では相変わらず、相馬さんはぼくらを驚かせてくれた。彼は四谷のアパートに住んでいたので、九段の悠々社までは歩いて通える。そのために、「目が覚めちゃったから」とか言って、朝の3時に出勤してきたりする。徹夜で原稿を書いているスタッフが、よろよろと1階のトイレに上がってくると、そこに相馬さんが黙って立っていたりするのだ。その結果、「もうちょっとで、小便漏らすところでした」となる。神出鬼没だが、おとなしくて存在を忘れそうになる。そういうキャラクターの人だった。


 あるとき、スタッフがこんな質問をしてきた。

「山崎さん、普通の血圧ってどのくらいですか?」

「え、120の80とかじゃないの?」

「相馬さん、いつも200超えているんです。指先で計る血圧計を持っていて、ぼくらに数字を見せてくれるんですけど、そのとき『これは人間の血圧じゃないねえ』と笑って」

 そんなある日、相馬さんが3日ほど来ない日が続いた。気にしていたら4日目にやってきて、仕事を辞めさせてほしいという。体力に自信が持てなくなったとのことだった。

 引き留めなければならない理由がなかったので、「近所なんだから、ときどきは顔を見せに来てくださいね」と言って、日割りのギャラを払って別れたが、それが相馬さんと交わした最後の言葉になった。


 それから半年。雑事に紛れて相馬さんのことをすっかり忘れていたが、相馬さんの親友だった自動車評論家がげっそりした顔をして現れた。「相馬が、死んだよ」という。アパートで亡くなっていたのを大家さんが発見したそうだ。死後2カ月くらい経っていたらしい。

 大家さんは誰に連絡したらいいかわからず、警察経由で奈良のお嬢さんに来てもらったそうだ。くわしいことはわからないが、相馬さんは奥さんや子供と別れ、天涯孤独の身の上だった。相馬さんの部屋にはたくさんの資料や原稿があったはずだが、それらはお嬢さんの手で処分されてしまった。その自動車評論家が事実を知ったのは、ふらりと四谷のアパートに寄って、大家さんに話を聞いたからだった。とっくに葬式も終わっていて、遺骨はお嬢さんが持って行ってしまったが、お嬢さんの連絡先はわからないという。

 その話を聞いて、ぼくらは暗澹たる気持ちになった。

「自分の未来を見るような気持ちです」

 と、「開業マガジン」編集長の大浦くんがつぶやく。

「何かしてあげられることが、あったかもしれませんね」

 と、最年少スタッフの佐藤くんが言う。

 まるでお通夜みたいな雰囲気の中で、ぼくらは仕事を続けた。会社を始めてたった1年での出来事だった。


 それから、「相馬さんを見た」という声がときどき出るようになった。といっても怪談ではない。みんな、相馬さんのことは憎からず思っていたから、出ても仕方がないという感じなのだ。人の気配を感じると、視野の端に相馬さんがぼんやりと見える。きっと行くところがなくて、ぼくらの仕事が気になって、ふわふわと漂っているのだろう。


著者の山崎 修さんに人生相談を申込む

続きのストーリーはこちら!

雑誌を作っていたころ(42)

著者の山崎 修さんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。