第5話 助産師は見た
ケイティが何かをガン見している。目をやった私はフリーズした。
「ねえサチコ、公衆浴場はタトゥー禁止って言ってなかったっけ?」
「見ちゃダメ!!!」ささやいたはずの声がひっくり返ってかすれ、小心者の私は思わずケイティの頭を湯船の中に沈めてしまった。
我が家から歩いて3分、K温泉での出来事だ。洗い場には20代前半とおぼしき女性が二人、こちらに背を向けて談笑している。左の彼女は観音様、右の彼女は不死鳥。どちらも背中いっぱいの見事な彫り物だ。線画とわずかな色しか入っていないが、完成すれば見事なものだ。
場数を踏んだ助産師ならではの落ち着きだろうか。うろたえる私をものともせず、水面から頭を出して長いブロンドの髪を絞ると、ケイティは私の耳元でこう尋ねた。
「極道の妻たち ?」
「…かもね」
ケイティの頭に渦巻く疑問、わかる。日本人が刺青に抱く感情は特別だ。うちに来るゲストはみんなそれを理解している。だからタトゥーのあるゲストは銭湯には連れて行かない。それなのにこの光景は何?小さなタトゥーすら禁止の銭湯が多い中、ここは刺青の人が堂々と入浴している。K温泉リピーターの私でさえ、この日の光景はアメイジングだ。引き返せない異次元に踏み込んでしまったかのような感覚。なぜ今日に限って?
番台のおばちゃんがガラス戸を引いて入って来た。サウナのタオルを替えに来たようだ。おばちゃんの目指す方向には二人がいる。視界に入らないはずがない。おばちゃんは二人に何か言うのではないか。ケイティと私は湯船で気配を潜めつつも、今度はおばちゃんの一挙一動をガン見していた。
おばちゃんはサウナ室に入ると、水分で重くなったサウナ室のタオルを手際よく集め、もわっとした汗臭い空気と共に運び出した。そして、入って来たガラスの引き戸を開けると、脱衣場へと帰ってしまった。完全にスルー。
「サチコ、今の、どういうこと?」「私もわかんない…」
いい加減のぼせてきたので洗い場に出ることにした。そこへ追い打ちをかけるように、クラっと来るケイティの提案。
「せっかくだから死角に入って、鏡に映してあのアートを見ようよ。サチコだって本当は見たいでしょ」
うわあ。二人が英語を理解していませんように…。確かに私も興味はある。かくして我々は彼女たちに背を向け、斜め後ろにポジションを取った。この日この時間、K温泉女湯はエアポケットに入ったかのように、私たち4人しかいなかったと記憶している。洗い場はガラガラなのに、なんという不自然なポジショニング。
「どうやらいつも行ってる銭湯が、今日に限って休みだったみたい」
背後から聞こえてくる二人の会話を総合し、ケイティに伝えた。ケイティもアートを十分堪能したようだ。極妻二人は先に出て行った。
その夜、二人であずきバーを食べていると、ケイティはつぶやいた。「彼女たちがいつも行ってる銭湯、気にならない? 明日、行ってみようよ」
マジですか… 私はイヤだった。電車で3駅先の名物廃墟「千歳楼」に夜つれて行かれるほうが100倍マシなくらい、本当にいやだった。
何をそんなに恐れているのか自分でもわからないのだが、とにかくもう中に入って刺青の人だらけだったら怖いので中には入らないという条件で、件の銭湯を二人で見に行った。三丁目の夕日にでも出てきそうな、瓦屋根と高い煙突を持つ、絵に描いたような銭湯だった。私の気持ちを尊重してくれたのか、ケイティはその建物を見て満足してくれた。
ところが銭湯を背にして閑静な住宅街を歩き始めると、ケイティはまたもや目撃してしまった。こんどはちょっと違うものを。彼女がガン見するのは保育園の隣、小さな成人映画館と、そこを出入りする女装した男たちだった。繰り返すが、ここは閑静な住宅街である。隣は保育園である。
「このあたりの地域は保守的だと思っていたけれど、そうでもないようね」
春日井を離れて2年が過ぎようとしている。が、どこまでも好奇心旺盛で、どこまでも冷静なメルボルンの助産師を、私は生涯忘れないと確信している。ただ、春日井が保守的なのか進んでいるのか、懐が深いのかは、わからずじまいである。
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