飛行機が苦手な妻が,それを一瞬で克服した話

私の妻は飛行機が苦手だった。

 結婚前から苦手だった。結婚して私の実家に行く時にも,青ざめた顔で飛行場に向かった。飛行機から降りたあとは,彼女が復活するまでに相応の時間を要した。頭脳明晰,穏やかで優しく,運動神経抜群と苦手なことが見当たらない彼女の,数少ない欠点の一つだった。

 何年前のことだろうか,季節は初夏。彼女と2人で東京に向かって飛行機に乗っていた時のこと(いや,復路だったかもしれない)。私の右斜め前の席に座る初老の男性がいた。そのブロックには彼1人しか座っていなかった。

 飛行機が飛び立った。上昇していく機体に合わせるかのように,妻は調子が悪くなっていった。いつものことだ。飛行機が雲の上に出る頃には機体も安定した。妻は静かに寝息を立てて寝入っている。私は学芸会の脚本を書いていた。

 機内はいつものような感じだった。右斜め前の男性が視界の隅に入った。どうやら新聞を開いて見ているらしい。周囲に誰も座っていないので,気楽な感じだ。


いつものように

 機内に

「ポーン」

という音が響き,いつものように機体が下降し始めた。着陸地に向けて,また妻の調子が悪くなる時間帯が来る。

 妻はいつものように〈エチケット袋〉を準備する。実際に使用することは殆ど無いが,手に持っていると安心できるのだろう。フライトアテンダントが客席間を巡り,お定まりの言葉をかけていく。

 私の横に来たフライトアテンダントの足が止まる。

「お客様,お座席を戻して,シートベルトをお締め下さい」

 彼女が話しかけたのは,件の初老の男性だった。彼は熟睡しているらしく,何度話しかけられても反応しない。十数度話しかけられただろうか,フライトアテンダントは切迫した様子で,男性の肩をゆすり始める。

「お客様,どうかされましたか?お客様!」


 フライトアテンダントのただならない様子に,周囲の乗客が気づきはじめる。私も男性を見つめた。私の席から見えるのは,短パンからのぞく彼の脚だけ。その色は,土気色だった。

 そこからの光景は,まるで映画かドラマを見ているようだった。フライトアテンダントたちが大声で叫ぶ。

「お客様の中で,お医者様はいらっしゃいませんか!」


 機内は騒然となる。それに呼応するかのように,機内アナウンスが始まる。

「お客様にご案内申し上げます。ただいま後方の座席をご利用のお客様でご気分のすぐれない方がいらっしゃいます。ご搭乗のみなさまのうち,お医者様か,医療機関に勤務されている方はいらっしゃいませんでしょうか」

 フライトアテンダントや副機長が駆けつける。彼らは男性の周囲の座席を外し始める。広場が確保されると,男性は横たえられた。飛行機の座席は,意外と簡単に取り外せるのだなと感心しながら見ていると,声をかけられた。

「これ,持って下さい!」

 声のする方を向くと,チューブと針のついた点滴の袋を持った男性が,私の顔を見つめていた。ああ,医者が乗っていたんだ!とすぐに気がついた私は,着陸に向けて機体が下降する中で一人立ち上がり,点滴の袋を持った。

 揺れる機体では,点滴スタンドが役に立たないのだろう。周囲にいる人間のうち最も背の高い人間(私の身長は180センチメートル)に,点滴は委ねられた。


 ドラマのようだが,その飛行機には,医者の集団が乗っていた。なにかの学会に向かう途中だったようだ。現役の医者たちがてきぱきと処置していく。フライトアテンダントたちも入れ替わり立ち代り意識を失った男性に声をかけ,心肺蘇生法を施している。みんな汗びっしょりだ。

 そこに持ってこられたのはAED。最初の一度は電気ショックを与えることができたが,二度目からは起動せず。どうやら床が振動している機内では,安全装置が働いて使えないようだ。

 そのまま十数分。措置は続けられた。気がつくと飛行機は着陸していた。飛行機が停止した途端,AEDが働き始めた。私はフライトアテンダントにうながされて点滴袋を彼女に渡し,飛行機を後にした。


 その後数日間は報道に気をつけていたが,一切表に出ることはなかった。ということは,男性は一命を取り留めたのだろうと思う。

 一連の騒動の中,驚いてしまったのか,妻は調子を崩すことがなかった。現在海外まで飛行機を使うようになったが,この日以来,妻が搭乗中に体調をくずすことはなくなった。

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