僕の偉大な苦闘の話

 1.苦闘の予感


 電車に揺られ職場と自宅を往復するのも、もう何年目になるだろう。

 携帯をいじり、さして興味のないサイトを読んで時間を潰す。定期購読している雑誌はもう読み終わってしまったし、かといって座席で眠るのも乗り過ごしが怖かった。田舎に向かい走る快速電車は、一駅乗り過ごすだけでも取り返しがつかなくなる。

 夜の街を通り過ぎ、乗客達は思い思いの駅で降りていく。

 車内は人もまばらだ。皆これから家に帰り、妻や恋人、家族と一緒に夕食を囲むのかもしれない。一人暮らしの人もいるだろう。食事をとる暇もなく宿題にとりかかる学生だっているかもしれない。

 皆、それぞれの人生がある。

 沢山の人生が混ざり合う電車の中で、僕もまた僕の人生を生きていた。

 顔はあくまでも平静を装い、しかし吊革を握る手には万力の如き力を込めて。

 両足を踏みしめ、心持ち内股に。

 全身全霊、持ち得る全ての想像力を注ぎ込んで、ハワイでサンセットビーチでビーチバレーでパツキンチャンネーで何だかとにかく幸せそうな自分を夢想する。ハワイでなくても構わない、とにかくクソみたいな電車に乗ってクソ会社からクソ自宅までクソ帰宅しているクソ現実をクソ振り切れるなら、どんな妄想でも構わない。

 乗客達の人生など知ったことか。家族と夕食とか馬鹿か。くそ。みんな降りろ。僕一人残してみんな降りろ。もしくは停まれ。快速だけど電車停まれ。各停ばりに停まれ。


 呪いと怨念の連鎖。

 怒りと憎悪が炎となって僕の背景に立ち上っている。

 そう。

 僕はその日、極大級の便意と戦っていた。


 2.苦闘の始まり


 僕はもともと極端に胃腸が弱い。大抵いつも腹痛を抱えているし、ちょっと無理をすればすぐに腹を下す。下世話な話で申し訳ないが、とにかく僕の人生イコール胃腸との戦いと言っても過言ではないぐらいなのだ。

 しかし、僕ももうオトナである。

 三十路越えてるわけである。

 僕が小学生だった頃、三十路越えの男性と言えば、バーコードハゲにチョビヒゲ、右手で秘書のおっぱいをわしづかみ、左手にワイングラス、膝の上にペルシャ猫。三食に一度はステーキを食べて当然歯は総金歯、宝箱を踏んづけて王様みたいな椅子にふんぞり返って座る、そういうイメージだった。大間違いだ馬鹿野郎と言われればその通りだけど、とにかくそのぐらい「わかりやすいオトナ像」というのがあった。

 三十路を越えて思う。

 子供の頃と変わってねえな、と。

 わかりやすいオトナなんて、所詮イメージに過ぎないんだと。

 少なくとも僕はそうだ。むしろ労働の対価としてお賃金を少々頂戴しちゃってるせいで、金持ちの馬鹿なボンボンぐらい手に負えない感じに成長してしまった。

 まさかこの歳になって少年ジャンプをまだ愛読してるだなんて、過去の僕は想像しただろうか。ヤンジャンも読むけど本家もね! みたいな馬鹿なオトナになるだなんて、誰が予想するだろう。経済誌読んで株とか売り買いしてるはず、という「わかりやすいオトナ像」は、全く現実とはかけ離れた存在になってしまった。

 まさかだ。

 まさか三十路越えて、今にもうんちを漏らしてしまいそうで悶絶するなんて。

 トイレに行きたくて行きたくて震えるだなんて。

 ──やっぱり仕事終わりにアイス食べたのが良くなかったのか……!

 後悔しても時既に遅し。

 僕の大腸は既に、アイスの手でヤられてしまった。エロ同人みたいに。このままでは肛門までもが「んほぉぉ!」とか言う羽目になってしまう。そうなってしまった場合、僕も多分「あひぃ」とか「らめぇ」とか「もう死のう」とか言う可能性が非常に高いので、何とかここは肛門の頑張りに全てを賭けるしかない。

 頑張れ。

 頑張れ僕の肛門。超頑張れ。


 3.対決! 琵琶法師!!


 うんちを漏らしそうなとき、どれだけお金を持っていようと、どれだけイケメンだろうと、どれだけ勉強ができようと、人は皆等しくか弱く儚い生き物であることを自覚させられる。勉強のできるお金持ちのイケメンは多分うんち漏らす前に何らかのリスクマネジメントをしていると思うが、まあ知ったことではない。

 頭の中で、僕と同じ顔をした琵琶法師がびわをかき鳴らす。

 ベン……ベン……ベン……ベン──。

 スローテンポの平家物語。僕が耳なし芳一だったら、この便意だけで平家の怨霊どもはスタンディングオベーション、そして号泣の流れになること間違いなしだ。

 だが生憎僕は耳ありサラリーマンであり、琵琶の代わりは大腸の悲鳴だ。肛門にお経を書き忘れて肛門だけ削ぎ落とされるとか死ぬよりも勘弁なので、ここは何としても便意を封鎖する必要がある。

 お腹に力を込めるのは禁物だ。

 あくまでも冷静に。クールだ。クールになれ僕。脂汗がダラッダラ流れてるけど、それはそれとしてクールに振る舞うのだ。

 僕の顔をした琵琶法師を妄想の中でタックルして引きずり倒し、マウントポジョンからのパウンドに入る。ボッコボコだ。こいつをボコボコにして、一時の安寧を獲得せねばならない。

 ベン……。ベン……。ベ……。…ン………。…………。………………。

 ああ──静かになってきた……。

 震える手。俯いたまま上げられない顔。内股。近年稀に見る肛門括約筋のシンクロ率上昇。僕の初号機こと肛門が暴走してしまう前に、何とかしてネルフ本部こと自宅に帰投せねばならない。

 ゲンドウも僕。シンジも僕。ミサトさんも僕だし使徒も僕。

 新世紀僕ァンゲリオン。

 よし、何考えてるかわかんなくなってきた。いい調子だ。このまま妄想の世界に逃げ込もうそうしよう。便意すら忘れ去ろう。

 快速電車の中、ようやく次の停車駅を告げるアナウンスが流れる。

 よし。

 まだ本来降りるべき駅ではないかもしれないが、最悪一端降車してしまっても構わない。今更帰宅が遅れたところで、誰が文句など言うだろう? 三十路のオッサンがぶらり途中下車して帰宅時間が遅れることなど、三十路のオッサンがうんちを漏らして時間通りに帰宅することに比べたらどれだけマシか。

 降りる。

 降りるぞ。

 次の駅まであと五分もない。

 ひとまずは安心だ、と気を抜いたのが悪かったのか。

 その日一番のビッグウェーブが、僕のお腹を直撃した。


 4.最終決戦


 ベンベン……ベベン……ベン……。

 ベン……。

 ベンベンベンベン……。

 ベベベベベベベベベベベベベ!

 ベン!!

 ──ヘヴィメタルだ。

 琵琶法師は退場した。

 代わりにステージに現れたのは、メガデスとかマノウォーとかチルボドとかアークエネミーとか、まあとにかく何かあのへんのメタルバンドだった。

 便意のアルペジオ。

 凄まじいハイテンポ。平家の怨霊も泣いて逃げ出す。

 というか僕が泣いてしまいそうだ。

 この歳で、電車の中で「コンニチハ!」してしまったら、もう色んな意味で終わりだ。セカイノオワリも真っ青なぐらい世界が終わる。

 腹の肉をねじ切らんばかりの勢いで掴み、痛みを痛みで上書きしようとする。昔サッカー漫画でそんな対策をしていた。現実には普通に痛みに痛みがプラスされただけだったので、より一層泣きそうになっただけだったが。

 電車が少しずつスピードを落としていく。

 ──駅だ!

 もう頭の中には「トイレ」の単語が渦巻いている。

 普段和式トイレを毛嫌いする僕だが、事ここに及んでそんな我が儘を言ってられない。洋式トイレに限らず、今なら和式でも中華式でも北欧風でもギーガーがデザインしたみたいな暗黒近未来デザインの便器でも、喜んで尻を乗せる自信がある。かつてなく僕の尻はオープンだ。洋ピンに出てくる、そばかすだらけのブロンド女優よりもオープンだ。

 便意の波が、肛門へのラッシュを始める。

 正直「コンニチハ!」が全開だとしたら「コンニ(ニだけ小声)……」ぐらいまでは来てしまっている。

 一刻の猶予もない。

 迫る駅のホーム。

 ドア前に並ぶ乗客。

 誰よりもドアに近付き、ほとんど顔をぴったりくっつけた状態で開放を待つ僕ァンゲリオン。

 足踏み。便意軍最後の猛攻。城門がこじ開けられる寸前だ。呑気な車掌のアナウンスにすら殺意を覚えながら、電車がゆっくりと停まる。

 ドアが、開いた。

 ヘヴンズドアが開いた。

 瞬間、僕はかつて陸上部に所属していた頃の記憶を思い出していた。

 猛烈なダッシュ。

 トイレにロックオン。

 もはや「コンニチ……」ぐらいまで来かかっていた便意軍に対し、そして僕は高らかと勝利の凱歌を歌い上げる。

 天上の開放感を味わいながら、僕はふと、うんち漏らしそうなだけでここまで盛り上がれるんだから、僕も大抵コスパいいな……と思った。

 あと、うんち漏らしそうなだけっていう事態そのものが、三十路越えのハゲた小太りのオッサンとしてはあり得ない事態だよな、とも思った。


 5.その後の僕とオトナの話


 あれから数年。

 未だに僕は、電車通勤を続け、たまに途中下車してトイレに駆け込んでいる。

 油ものもアイスも変わらず大好きだ。

 少年ジャンプも読み続けているし、おっぱいをわしづかみにしても怒らない秘書は知り合いに一人もいないし、三週間に一度ぐらいしかステーキを食べられない生活のままだ。

 まあ、実際にまだ漏らしたことはないのだから、子供の頃思った「わかりやすいオトナ」になるのは諦めることにした。


 ……おっぱいをわしづかみにしても怒らない秘書は、まあ、四十路ぐらいまでには雇うことができるだろう。そのとき僕が何の仕事をしていて、何のために秘書を雇っているのかは、まだわからないけど。

 少なくとも「猛烈な便意に耐えて、うんちがコンニチハ! しないように頑張る人を支える仕事」とか、そういうニッチ極まりない隙間商売ではないことを祈るばかりだ。

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