仕事を辞めてフィリピンで大学院生をしている話【第1話】

後編: 仕事を辞めてフィリピンで大学院生をしている話【第2話】



「仕事辞めよう」、そう決意したのは2013年の11月のことだった。


その頃私は、とあるIT系の大手企業にシステムエンジニアとして常駐勤務していた。平たく言えば派遣である。私の所属していた会社はこの業界ではそれなりの規模のSIer(えすあいあー:システム開発を専門とする会社)で、その企業の二次請けとして長い付き合いがあった。


私が参画していたプロジェクトは国内大手企業向けの業務システムの刷新で、そのプロジェクトには都合1年ほど関わっていた。プロジェクトは総勢100名を超す大規模なもので、私の所属したチームには私と同じ会社の人たちが数名働いていて、それ以外にも私の会社のパートナー企業から数名のエンジニアを迎えていた。皆、初顔合わせのメンバーである。といってもSIerで働いていると初顔合わせのメンバーと働くのはざらで、とっくに慣れっこになっていた。


プロジェクトへの参画当初、私は1エンジニアとして詳細設計やプログラミング、単体テストなどを担当することになっていた。私は比較的プログラミングが好きな方で仕事の内容にもわりと満足していたので、当初はとても高いモチベーションで仕事に望んでいた。


徐々に状況が変わり始めたのは、参画してから1ヶ月経つか経たないかの頃である。メンバーの遅刻・欠勤が目立ち始め、スケジュールも徐々に遅れを見せ始め、残業・休日出勤が常態化し始めた。ゴールデンウィークもお盆もほとんど休みなく働いた。それでもスケジュールは一向に遅れを取り戻せない。だからまた残業・休日出勤をする。いま思えばいわゆるデスマーチというやつだったのかもしれない。金曜日の夕方に行われるミーティングは、休日出勤の話題に終始した。プライベートな予定など全く立てられない状態だった。土曜の午前中にはクリーニング屋に行かなければいけないので、午後から出勤させて下さいというのが精一杯だった。ただその頃はまだ徹夜残業がないだけまだましだったのかもしれない。


当時私は片道2時間をかけて通勤していた。往復で4時間である。電車の乗り換えが2回あり、座れることは稀で、徒歩も30分近くあった。遠距離通勤はかれこれ2年半ほど続いたのでだいぶ慣れてきてはいたが、それでも仕事と通勤の疲労が積み重なるとそれがボディーブローのように効いてくることを身をもって知った。また私は元来お腹が弱い体質だったので、クーラーの効いた車内に居続けることはとても過酷だった。なので通勤中は冷たいものを飲むのを控え胃腸薬を常備するようにしていたが、それでも腹痛で冷や汗をかきながら途中下車することが度々あった。


私は2012年の12月からオンライン英会話を始めた。特にこれといった強い動機は無く、ネットの広告を見て、「ああ、英語がしゃべれるようになれたらなぁ」というごく軽いものだった。このプロジェクトに参画する2ヶ月ほど前のことだった。ただ始めた当初は別のプロジェクトの仕事が忙しくほとんどレッスンが取れなかったのだが、年末年始にある程度まとまった時間が取れたのでその時間を全て英語の勉強に捧げた。英語の勉強が楽しいと思うようになったのはその頃からだったと思う。それからは通勤時間と昼休みは全て英語の勉強に充てるようにした。どう勉強するのが効率がいいのかが分からなかったので、あらゆることを試すようにした。英語に関する本をたくさん買って読んだ。英単語、英文法、ポッドキャストによるリスニング・シャドーイング、英文記事のリーディング、いろいろと試す中で自分に合う学習方法がだんだんと分かってきた。私の通勤鞄には常時3、4冊の本が入っていた。夜中の12時半に自宅の最寄り駅に着いた後、帰路にスマホで英会話のレッスンを行うのが日々の楽しみだった。


オンライン英会話を始めた当初は毎回冷や汗をかきながらレッスンしていた。話したいことが話せず、言葉に詰まり、沈黙が続く。何か話さなければと思い、焦ると余計に話せなくなる。無理にフリートークをせずに、テキスト中心のレッスンに切り替えた。それからは徐々に話すことに慣れ、三ヶ月もするとたどたどしいものではあったが英語で表現ができるようになっていた。英会話の先生がフィリピン人だったこともあり、先生の話を聞くうちに徐々に海外に興味を持つようになってきた。留学をしてみたいと思ったのもこの頃からだったと思う。


仕事は相変わらず大変で、あまりの過酷さから離脱するメンバーもちらほら出始めていた。新しいメンバーもどんどん入ってきていて、流れでそのメンバーを私がマネジメントする感じになっていた。自分自身の作業を持ちながらメンバーのマネジメントもするプレイイングマネージャーというやつだ。聞こえはいいが単に仕事の量が増えるだけの辛い役回りだ。もちろんメリットもあるにはあるのだが。マネジメントをすると頻繁にメンバーから質問を受けるので、その度に自分の作業が中断される。時には30分くらい捕まることもあり、それが終わると他のメンバーから間髪を入れず質問やら相談やらが来る。やっと終わったと思って自分の作業に戻るのだが、どこまでやったのか分からなくなり、復帰するまで多少時間がかかる。やっと作業を再開できたかと思うと、またメンバーから質問を受ける。その繰り返しだ。なので休日出勤した時で、たまたまメンバーが少ない時はとても集中できていいなと思った。


2013年11月、プロジェクトは終盤にさしかかり過酷さを増していた。残業・休日出勤は減らず、メンバーも私もすっかり疲弊しきっていた。離脱するメンバーも増えていて駒不足が深刻になってきていた。この頃私は頻繁に胸や頭の痛みを感じるようになっていた。煙草の量も増えていて、食生活もかなり崩れてきていた。夜中の1時に夕飯を食べることもざらだった。お酒を飲むと翌日起きられなくなるので、全く飲まなくなっていた。正直私はこの状況にほとほと嫌気がさしていた。過去数年間ずっとこんな調子で、自分がこの先ここで働き続けても幸せになれるとは到底思えなかった。だから環境を変えたかった。幸いお金は少しづつためていて、しばらくは働かなくても済む程度の蓄えはあった。独り身という身軽さもあったと思う。英語の勉強はなんとかがんばって続けていた。フィリピンへ行って大学で学ぼうと思っていた。そして退職を決意した。上司は理解を示してくれたが、プロジェクトがまだ大変な状況で私が比較的重要なポジション占めていたため慰留しようとした。私もプロジェクトが厳しい状況にあったことは十分理解していたが、自分のやりたいことがそれを上回ってしまった。退職の決意は揺るがなかったが、退職時期を延期することにした。できるだけ自分の役割を全うしようと思ったのだ。この間はこのプロジェクトの中で最も過酷だった時期で、何度終電を逃しカプセルホテルに泊まったか数えきれないほどだ。カプセルホテルに泊まると通勤時間が短くなるので楽だなと思ったこともあったが、その分長く働かなければならないのでどっちもどっちだと思った。


2014年2月、退職時期が近づいてきた頃に上司から再度慰留された。しかしこれ以上延ばすと6月の大学入学に間に合わなくなる可能性があるので断ることにした。そして退職した。

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仕事を辞めてフィリピンで大学院生をしている話【第2話】

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