~入院生活から見えたもの~
・世界中から監視されている感覚
・母親も覚えていない、夕飯のメニュー。
・一月二十六日、僕は死にかけた
・入院前夜
・「俺はやついいちろうの息子じゃねえんだよ!!!」
・千原ジュニアさんが言っていた、「カテーテル」~一週間の束縛・帯同生活~
・解除。そして、また束縛・帯同
・「笑っていいとも!」の最終回だけ見れた。
・世界中から監視されている感覚
ここまで出来れば、あとはちょっとの衝撃で、気が変になるのは目に見えている。
家の中でも、監視カメラが仕掛けられていると思いこみ、部屋の中で暴れ回った。家の周りで工事をしていたので、玄関の扉を「ドンドン!」と、事あるごとに、ノックしてもらっていた。その時、必ず、普通の口調で、
「どうされました~?」
と、投げ返していた。
昼休みになると、テレビには自分の家が、犯罪者の家として、生中継とされていると思いこみ、テレビをつけることが出来なかった。
トイレの掃除をして、母親が迎えに来て、僕は病院へ連れて行かれた。
・母親も覚えていない、夕飯のメニュー。
母親も、覚えていないという、焼き鳥の手羽肉が入ったカレーを食べたいと、母親に言っても、作った記憶が無い。と言われた。
それぐらい、お互い疲弊していた。
食卓で、刺身とご飯をちょうど半分しか食べておらず、母親が激昂した。自分も激昂して、イラつきながらご飯を食べ、二階へと登った。
・1月26日、僕は死にかけた
エレ片のコント太郎の2014年一番最初の放送で、ゲッターズ飯田さんに対し、パーソナリティのやついさんが、「今年のエレ片の、悪い所って、何?」と、しつこく聞いていた。それに対し、飯田さんは、「1月26日に、エレ片にとって、大事な人が死にます。」という衝撃的な内容だった。
自分は、1月26日の真夜中。母親と大喧嘩した後、自分の部屋で寝ることを拒み、父親の部屋で寝ることにした。
最初は反抗心と怒りで、気づかなかったが、1月26日と言うのは、新潟では極寒で、暖房器具が無い父親の部屋で寝る行為は、自殺行為に値する。
心臓が、「ドクン。ドクン」と波打つ時に気づいた。
これは、お父さんが迎えに来てしまう。
ゲッターズ飯田さんの言っていた、「1月26日に、大事な人が死んでしまう」の、大事な人って、自分の事なんじゃないか。と、思いこみ、自分の部屋で寝ることにした。
そのまま父親の部屋で寝ることを決意していたら、父親と同じ、心筋梗塞で亡くなっていた、そして、この文章も書いていなかったかもしれない。
・入院前夜
自分は、「最後の靴」のトラウマを発見した心療内科に行っていた。
しかし、いつもと様子が違う。自分が来るや否や、看護士さんたちの自分への態度と、周囲への緊張感が急変し、まくし立てる電話の音、「本日は、都合により、診察が出来ません。」
急にどうしたんだろう?
そんなすっとボケていた自分だったが、トイレにひきこもって、結婚式のスピーチをしたり、認知症の小冊子を読んでいた。
母親に促され、診察室のそばの席に横たわり、母親だけが診察室に入って行った。
母親はなぜか怒られていた。理由は、自分しか原因が見当たらない。
「どうしてもっと早く来なかったんですか!」
そうやって怒鳴られていた。
後々になって気づいたことだが、柏崎厚生病院で出されていた薬を、服用しなかったために、夜、眠れなくなり、支離滅裂なことを言い始めた為、もっと早く来てほしかった。という意味だったんだと思う。
精神科医と言う仕事は、かくも難しい仕事だと痛感した。
と、同時に、薬の服用に疑問を持っていても、医者の勧めを断つと、みるみるうちに、生活が一変していく。
もし、治療や投薬に納得していない人がいたら、遠慮なく医師に相談した方がいい。
・「俺はやついいちろうの息子じゃねえんだよ!!!」
、暴れ回った。母親への不信感からか、女性を見ると、怒りをあらわにしていた。
絶賛、世界中に監視されているキャンペーンを実施しているので、窓も怖かった。みるものすべてが怖かった。そのまま自分は、病院へ入院する事になった。
始めの入院から、10年経った出来事だった。
・千原ジュニアさんが言っていた、「カテーテル」~一週間の束縛・帯同生活~
とにかく、暴れ回ってしまうので、両手両足を拘束され、生殖器には、カテーテルを挿入された。テレビで千原ジュニアさんがおっしゃっていた奴だと思い、激しく抵抗したが、挿入されてしまった。
泣こうにも、涙を手でぬぐえない。
かかりつけの赤羽先生には、
「ここは、ジャパニーズ・プリズンブレイクだ」と、大変失礼なことを言ってしまった事を思い出している。
また、ある時は、「自分は、Qさま!の11番目の席に座るんだ!自分のイニシャルは、11番目だからね!!」
と、意味不明なこと言っていた。
食事は点滴で、喉が異常に乾いたので、いつものように、「お水くださ~い!お水くださ~い!!」と叫んでいた。
一時、点滴がうまく流れないと言う事があり、看護士さん達が焦っていた事があった。自分は悠長に、
「風流ですね~」
と言うと、看護士さんが、
「これ、なんだかわかりますか?」
と、点滴を指さしながら言った。
自分は、東側。右手に点滴を打たれているので、四神の青龍を思い出し、
「風に揺れる流と書いて、『風龍』ですかね~」
と、言った。
この時から、徹頭徹尾、頭がおかしかった。
・解除。そして、また束縛・帯同
一週間後、両手両足の拘束が解除され、食事も普通に食べることが出来た。
しかし、解除された解放感から、歌を大声で歌ったり、薬を運んでくれる看護士さんに大声で話しかけたりして、徐々に、落ち着きが無くなって行った。
ある日、赤羽先生と沢山の看護士さんが押し寄せ、ベッドの位置を元に戻し、またカテーテルを挿入された。
激痛だった。
でも、自分は思い知らされた。
病院って、暴れちゃだめなんだな。
と。
それに気づくまで、丸々2か月かかってしまったが。
・「笑っていいとも!」の最終回だけ見れた。
2014年1月28日から、3月31日まで、部屋に拘束されていた。風呂のある、火曜日と金曜日の時間だけ、部屋の外に出ることが出来た。
赤羽先生に、「笑っていいともの最終回だけ、見たいので、退院させてください。」
と、のたうち回っていたので、最終回だけ、ホールの昼休みの時間、部屋を出てみることが出来た。
タモリさんとたけしさんの濃密なトークに、やられた。
夜のグランドフィナーレを見ようとしたら、看護士さんに止められた。
でも、その日を境に、いろいろなことが変わっていった。
まず、自由に部屋の外に出ていいという「ふれ」が出たのだ。
あとは、突然、前述の「鈴木一由」さんがやってきて、
鈴木さん。「「くわばらくんってさ、退院する気ある?」」
くわばら「「あります!!」」
鈴木さん。「「じゃあさ、働く気ってある?」」
くわばら「「あります!!」」
鈴木さん。「「そっか、じゃあ、参考にさせてもらうね~」」
と言って、去って行った。
自分は、もしかしたら退院できるかもしれないと思い、その日の作業療法室で、ぬりえの裏に、「提案書」と手書きで書いて、「希望時間」、「希望月収」、そして、「通院・投薬を辞めない」、「頑張らないし、怠けない」と書いた。
その後、赤羽先生にも届き、
「無理しないで行きましょうね~」
と、言われた。


