15才、3月3日。晴れのち曇りのち雨。出来るだけ遠くに行こうとした日。失意とやけっぱちから始まった旅。目的と、死に場所とを求めて。

降りるべき場所で降りる、という、いつもの考えは何処かへ、本当に、綺麗さっぱり消えていた。放心していた、というのが大きかったのだろう、おそらくは。後になってみても、そう思う。あれだけ「からっぽ」という、あの完全な空虚。その全身の感覚は、例え大失恋をしたっても、人生に於いて未だ味わったことがない。

望もうが望むまいが、元よりトラブルメーカー気質で、だからこそ優等生であろうと心がけてきたのであって…だからこそ放心しきってしまった。どの面下げて帰還したらいいのか、さっぱりわからなかったのだ。

おしまいまで行こう。

降りるべき場所を過ぎ去ってから、まず始めに『ぼんやりした』頭で『決めた』のはそれだった。

したことのない試みだったし、それは全てが終わったら、元々冒険心のつよい私がしたいと決めていたことであったから、考える頭がどこかへ行ってしまっても、まずそれは、つよい指針になったのだった。

大丈夫。ソクラテスも歩きながら考えた。私もこれまで歩きながら、暗記ものや簡単な文法、計算問題を四六時中こなしてきたでしょう?15の私は、きっとそういう風に考えていたのかもしれないし、やっぱりただ放心していたかもしれない。ただひとつ言えるのは、放心はもちろん、酷くショックを受けていて、あの時殆ど私は抜け殻だった。しかしそれでも、15の私はやりたいことを確実に遂行する意志をまだ持っていたし、何よりはっきりしているのは、あの私ほど賢かった私はいない。

「歩みを止めてはならない。前進し続けろ」

私が常に言い聞かせてきた言葉だ。「そうすれば、少なくとも得るものはある。財産になる。そして、あとでそれは助けになってくれる。必ず。それは私なのだから」ちっぽけで不細工で、それでも漸く苛めに合わない位の適応力——雑誌の読み込みによる服装の研究及び小物使い、それらの効果的な褒め方と、如何にそれが《話題の取っ掛かり》として有効であるか、や、嫌われる、好かれる10の条件の実行が恐ろしく効くこと。そして何より、服装とスキンケアが《あからさまに防御》だと知ったこと(私服校において、スクールカーストは明白であった。当然運動部…ジョックスは上であるし、我々合唱部なんて廃部寸前の真面目がやるようなマイナー弱小部は(反論しても、合唱人諸君。余程の強豪校でなければ、これが現実だと受け止められないか)底辺の、ナードだ。(合唱人諸君よ、それでも誇りはある。全力を持ってして臨み、新たな手法も取り入れ、楽しくやって大会にも挑んだことをここに記しておきたい。ナードの気風からも脱出の兆しがあるようで、私は泣く程嬉しい。すてきな後輩のかわいこちゃん!こういった例が希有なのも、賢明なる合唱人諸君はお分かりだと思う)

ひとえにそれは、同学年の僅かな仲間と、心優しく合唱にも、顧問の先生にも、そして私なんぞにも(!)愛情をもって接してくれた後輩達のおかげだ。(あんまりに卒業時の色紙や、手紙が、あんまりで言葉にし難くて、ふと見ると、自信なんかとうに失くしたので、失くしたのに、泣いてしまう。それも、いつもの私の泣き方ではない。只々、静かに延々と涙が流れる、なんていうクサい泣き方をするので、いつもの「うわああん」より、かえってはずかしい)

こんなことができたのだ。きっと、その自信に裏打ちされて、私は様々の委員会なり責任なりを、自らに恥じぬ、評価も得ることの出来るコンディションでこなせた。どれほどの本を読んでも、大学に通っても、もっと難しい勉強をして、恋愛を知っても、社会も知っても、15の私には勝てないのだと、確信を持って言える。


その15の私が終点の本牧に着くのは、あっという間のことだった。バスに乗った時には厭になるくらいの晴天だったのが、国語の心情描写かというくらいの「どんよりたれこめた曇り空」になっていた。気がついたら、その場所には看板が立っていた。『サイクリングロード』。そこでふと考えが浮き上がった。サイクリングロードでは運動場になってしまっていて、その性質上、歩くにしてもぐるぐる廻る羽目になるかもな。

そして、本牧。海がある。そちらに向かえる筈だ。自動車用の看板を見上げ、小学校での授業のことを考えた。川崎の臨海工業地帯。海はあるはずだ。

そうして、工業用の道路に、程なくして辿り着いた。

生涯で工業用の道路を見たのは、あれを含めて2回だ。

それは巨大で、タイヤはゆうに、でかい、と、からかわれていた私の身長——当時で167cmくらい、今思えばどうってことない——の2倍くらいあるんじゃないかと思えたし、今まで見た道路を5つくらい並べてるくらいに太い道路だと思った。一度は車に轢かれたことのある私だったけれども、ああ、これに轢かれたら即死だ、というくらい大きい鉄の化け物じみたダンプカーやトラックが、何の安全用のフェンスもなく、それはまるで見慣れた近所の寂れた商店街の道路と同じような気安さと趣で、白線一本のみ隔ててびゅんびゅんと行くのだ。その圧倒的な存在感ときたら!ますます気が滅入ってきた。それでも海の方へ海の方へ歩いていって、とうとうたどり着く…と思えば、そこはやっぱり鉄の化け物の根城で、巨大な奴らが錆び付きながら群れをなしていて、向こうに曇り空と錆と工業地帯に相応しい、

淀んだ海が見えた。海も鉛の色をしていた。重金属の色。

死ぬのなら、私は海で死にたかった。けれども、どうしても、あれに飛び込むのは厭だった。あれは海じゃない。重金属のプールだ。

15の私の名誉に誓って言う。日和見でも、臆病でもなかった。「行きたい場所」へ行けなかった私だ。せめて「逝きたい場所」くらいは、どうか確実に選ばせてほしかった。贅沢を言わせて欲しかった。妥協はここでも許されるものでは決してなかった。

そうして、元来た道を帰った。ダンプカー達と、今度は顔を見合わせて。迫ってくる奴らの流れに逆らって。サイクリングロードにも背を向けて。


長い長い、うらぶれた商店街がどこまでも続く道をひたすらに歩いた。サイクリングロードを外したのは正解で、特に不快でもない道を、ローファーでどこまでも歩けた。橋を渡り、古びていて、本当に色彩のない道をどんどん歩いた。そのうち小雨が降って来たが、気になりはしなかった。けれど、若い女の人が、傘を差し出してくれた。コンビニの前だったように思う。青い色が後ろにあって、その人の髪が黒く服が白いのだった。寒いでしょう、とか、どうぞとか、家はすぐそこですから、とか。親切な人だった。けれど、私は何もかもがどうでもよくなっていたし、この後死ぬ気なのかもしれない、とどこか他人事のように考えていたから、そんな親切を受け取るわけにはいかないと思った。その後も、若い男の人や、女の人、そして2人組の建物の中にいた役所の人らしきおじさんが、タオル持参で同じことを言ってくれた。お礼を言って断ってしまったけれど、でも、すごく嬉しかったのを覚えている。

赤の他人に優しくされたのは、人生であの時が初めての経験だった。

確かにあの時、寒かったのかもしれない。確かにろうそくの火が体内に灯るような心持ちだった。また、人はみんながみんな、そう親切ではないのだ。


でもここで不思議な偶然が起きた。世にも不思議な偶然だった。

そんなこんなで疲れ果てて、住宅街の道路の坂の、コンクリ縁に腰掛けていたらば、近くにこれまた若い、少し不良めの兄さん二人があんまりよろしくない会話をしていた。とは言え、制服姿でうらぶれている私も相当よろしくないのは明らかである。で、だ。なんというか、自棄になっていた私は無謀にも混ざりに行ってしまったのだった。若干、というか、大分あれである。

ここでのやり取りは、読者諸兄にとっては——例えば「まどマギ」におけるさやかの電車の一場面。あれを、根本は同じだけれども、相当にマイルドで和気あいあいとしたものと想像して貰えれば、情景は想像に易いか、と思う。ある種の思春期に於ける潔癖さや、正義感なんかも。

ともあれ、終始シリアスを貫くのは性に合わないし、悩みを抱えた?者同士だ。兄さん達は「お前面白いな」と心広く受け止めてくれ、その後普通に話をするに至り、私も捨て鉢の勢いで話しかけた所はあれども、学校の不良と一律にして「不良っぽい人」を語るのは大いに間違いだ、ということを学び、そうして私たちは別れた。すっかり日も暮れて、私はまた寒さと戦いながら、バス停もよくわからん、見切り発車の旅を続けるのだった。

おお、寒い。なんか駅前に行くバス停が全然見当たらない。住宅街じゃ暖がとれない…けど、そもそも何の為に放浪してるの?ああ、無理に受けた滑り止めには行きたくないんだ。帰りたくもない。死んでもいいってやつだ。でも方法がわからないんだ…


ところが。


さっきの兄さんが、数時間後、偶然私の目の前を車で通りがかったのだ!「さっきの中学生!」

私は拾われた。「俺だったからよかったけど、よく知らない人の車に乗っちゃ駄目だからな」苦笑いで兄さんは言った。今にして思えば、彼は恋愛系のトラブルを抱えていたのだ。こういうことから発展もするだろう。兄さんが今、幸せな家庭で暮らしていることを心から願う。降ろしてもらう時に、彼が私の幸せを案じてくれたように。数奇な巡り合わせ、というのは私の人生に於いてあるが、今のところ片手で埋まるほどではない。その力やなんやかやで、幸せになっていてくれていたら嬉しい。


さて。

私は後に歩いていて見た風景やら、証言なんかで気付くことになるのだが、どうやら本牧から件の兄さんと出会うまで、ずんずん金沢八景まで歩いて行ったことに違いがない。大体8時〜9時位に本牧行きに乗って、さまよって日が暮れる前には八景にいたことになる。

そこから新杉田まで、帰り際落として行ってもらった形になる。

なぜ新杉田と記憶しているかというと、ここでも出会いがあったからだ。寒さしのぎに駅ビルに入ったが、座れるような場所もなし。立ち眠りやらしてみるも、夜も遅かったので、すぐ出る羽目となり、駅前のバス停だかのベンチで、いい加減眠たいのでぼーっとしていた。

すると、目の前で携帯片手に喋り通すサラリーマンがいる。こっちをちらと見ているが、敵意や好機の目だとか、同情とかではないと思った。それなりにいじめられたりが激しい中学にいると、自ずとそういう視線は嗅ぎ分けられるものだ。同類を見る目というか、同じ目線「で見ようとしている」のと、同じ目線「になっちゃってるし、そこで話すしかない状態の人間」は全く違う。

「今ね、女子高生と話してるの。そう!連れてくから!」こっちを見て、人の良さそうなおじさんはにっこりした。上記の理由もあるし、抜け殻にも近いし、まあ読みが外れたところで、痴漢に遭うのは日常茶飯事であったので、もうどうにでもなれである。


そのサラリーマンは「こんなとこに女子高生いたら危ないよ」というようなことと、「仲間とごはんを食べに行くとこ、女の人もいるしママさんが見張ってるから」そしてやっぱり「おじさんだからいいけど、ほかのおじさんについてくのは物凄く危険だから止めなね」ということを言われ、スナックというかバーというか、そんな感じのところに連れて行かれたのである。

確かにそこにいた人達は、サラリーマンのおじさんが言った通り、みんな感じがよく、女の人もいて、今にして思うとだけれど、あんなところで伸びてる中学生を保護して連れて行く、そしてそれを言い出すおじさんの人柄からして(察し)というやつだったのだと思う。チャーハンを食べさせてもらって、どうしてこうなったか、の成り行きを話させられる羽目になった(情けない)。

そのせいか、今でもお酒のある、ああいうこじんまりとした場所は、下手なカウンセリングルームよりも話しやすく、問題解決にすっきりと結びつきやすい場所に思えるのだ。あの暗さは告解室にも似る、と思う。行ったことはないのだけれど。

女の人は半ば私を抱いて言った。「今はその滑り止めに行くしかない運命かもしれない。けど、これから転校だってできる。その後のことは変えられるよ」

私にとって、その言葉はほとんど革命だった。『転校すればいい』!また頑張ればいいだけの話なのだ!こうして私は答えを得た。めちゃくちゃな旅の経験と、優しい人との触れ合いの記憶と、希望を手にして。


はた迷惑な話ではあるが、いろんな偶然と、優しさに支えられて、無事転校を成し遂げられた。

その場所に凱旋というか、お酒を飲みながらの謝罪と感謝が出来たので、ここに記しておこうと思う。


著者の宮崎 すみれさんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。