雑誌を作っていたころ(50)

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黒子が表に出た日


「開業マガジン」の制作で悪戦苦闘していたある日、1本の電話がかかってきた。

「NHKのディレクターをしている吉村といいますが……」

 彼女は教育テレビのディレクターで、「にんげんゆうゆう」という番組を担当していた。この番組はひとつのテーマで1週間のシリーズを構成するものだが、近々「不良中年」をテーマにするのだという。その中心人物として、わが師の嵐山光三郎が選ばれたのだが、その中で「不良中年の独立」という話題で1日分を作りたいというのだ。


 嵐山師は「それなら山崎という舎弟がいるから、そいつに協力させろ」と指示したらしい。持つべきものは有力な師である。

 さっそく吉村女史に、起業に関するいろいろな材料を提供し、「開業マガジン」で過去に取材した人のリストも渡した。そして話し合いを進めるうちに、事態は思わぬ展開を見せた。「いっそのここと、山崎さんがスタジオに来てしゃべってください」と言われたのである。


 自慢じゃないが、ぼくがテレビに出たのは、幼稚園のお遊戯会が取材された時と、「笑っていいとも増刊号」で嵐山編集長の悪口を言った時だけだ。それが45分間スタジオでアナウンサーを相手にしゃべるだなんて、話を聞いただけで気が遠くなりそうだった。

 しかし、ぼくの心のどこかに「出たがり」「出しゃばり」の部分があるのだろう。自信もないのにOKしてしまい、僭越にも吉村女史の書いた台本に手を加えたりしてしまった。

 収録当日、一張羅のスーツを着て、NHKに出かけた。今まで取材のためにNHKに出入りしたことは何度もあるが、「出演者」として入ったのは今回が初めてだ。そして、生まれて初めて「お化粧」までさせられた。


 NHKの番組づくりは面白い。録画なのに、生放送と同じ要領で時間ぴったりになるように収録するのだ。録画なのだから、編集で自由自在にカットして時間を合わせればいいじゃないかと思うが、それだと臨場感に欠けるのだそうだ。だから変なアドリブを入れたり、急に早口でしゃべったりするとおかしなことになる。

 リハーサルでは、5秒余計にかかった。そうなると、生来の天の邪鬼が顔を出し、本番ではぴったりにしてやろうと思ってしまう。生まれて初めて番組に出演し、出ずっぱりのメインゲストで心臓バクバクのくせに、大それたことを考えたものだ。だがしかし、こけの一念が通ったのか、本番収録は時間ぴったりで終わった。

「お上手ですね−」と、相手をしてくれたアナウンサーやプロデューサーの人から誉められた。


 お化粧を落としてもらい、受け取ったタクシー券で事務所に帰ると、どっと疲れが出た。トイレに入ると、猛烈な下痢ぴー。本人は平常心でいたつもりでも、体は正直だ。実際はものすごく緊張していたのだ。


 この番組は0.3%という視聴率の割にはよく見られた。何度も再放送されたことも追い風になったのだろう。いろいろな知り合いから「見たぞ」と電話がかかってくる。うちの親のところにも「あんたの息子がテレビに出ていたよ」と知り合いから連絡があったそうだ。ネット上の知人にも、偶然この番組を見た人がずいぶんいる。


 そして、黒子が表に出た余波は、意外なところに表れた。奈良商工会から「創業塾」の講師として、講演の依頼が舞い込んだのだ。番組を見ていた人が、「次の講師はこの人で」と指名してくれたらしい。それがそれから数年間に数十回、全国を股にかけての講演行脚につながった。


 さらに、自分に妙な自信がついた。今までは「自分は編集者であり、黒子である。だから極力表には出ないようにするべきだ」と考えていたのだが、テレビ番組に出たことで「個としての自分」に目覚めてしまったのだ。

 今までよりライター的な仕事を積極的にするようになったり、「開業マガジン」で連載の署名原稿を始める気になったりしたのは、この番組出演が契機といえる。あらゆることが、この番組をきっかけに変わっていった。

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雑誌を作っていたころ(51)

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