31歳で獣医をやめなんとなく絵を描き始めてから家賃0円のクリエイターズシェアハウスに受かるまでの話
海上氏の知り合いの紙やさんに頼み、ギャラリーの床、壁、天井を計測。ギャラリー全面を絵で覆うような展示を企画提案してくれた。老舗の紙やさんと一緒にギャラリーのサイズを計測し、約1ヶ月後にできあがった紙を見にギャラリーに行った。棺桶かと思えるほど大きな箱に折りたたまれて入っていた和紙は、反物に使われるような上質の素材を使って作られていて、箱を開けると森の匂いがした。
紙やさんの日本橋の店舗に伺った際、ご主人が教えてくれたことがある。
「ペンで描いていると、数年で全部消えちゃうよ。そういうのも考えて描いてる?和紙と墨汁なら良い物を使えば1000年は保つよ。消えるのが作品というならそれでもいいけど、考えたことがないなら、一度考えてごらん」
壁は一番長いところで約6メートル。いつもA4くらいのサイズの絵をケント紙にペンで描いていた自分では、どんな画材を使ったらいいかも分からなかった。海上氏の主宰するウナックでは、井上有一という書家の取り扱いギャラリーでもあり、作品もよく見かけていたし、よく分からないけど墨汁がいい気がした。
「墨汁を使って描きたいんですが、よく分からないんです」と言ったら、海上氏が昔から懇意にしている書家の人まで紹介してくれた。
その人が新大久保にある書道用品のお店に連れてってくれ、筆について、墨について教えてくれた。それ以来、私は主に和紙と墨汁を使って制作している。
2012年の4月に入って制作を始める時、海上氏はギャラリーの閉まっている土日を使って自由に制作ができるように、ギャラリーの鍵を貸してくれた。シェアハウスの6畳の部屋ではとても制作することができず、制作場所にも困っていたので、願ってもないことだった。室内が汚れないようにするため、和紙の下に敷く養生紙もギャラリーで用意してくれていた。
紙やさんは練習用に1枚多く紙を用意してくれていた。1メートル×60センチくらいの紙で、今まで自分が描いたことのあるサイズからするとかなり大きいものだった。初めて筆を和紙にのせてみると、いつもは自動的に描いている線が全く描けなかった。飽きっぽい私は絵もすぐに完成していないと嫌なタイプで、それまでは1つの作品にかける時間は2時間くらいだった。翌日に続きを描くと、線が全く違う形状になるので、なんとなくまとまりが悪いような気がしていたのも、制作の途中で時間をあけない理由だった。
どうしたらいいかわからなくなって、この日は数本線を引くだけで終えて帰ることにした。
始める前に「展示の期間はいつにしようか?」と言われていて、作品の制作時間が異常に早い私は、この時、大型作品制作にかかる時間もよく分からずに「夏までには全部仕上げておけると思います」と答えていた。実際に個展開催したのは2013年の1月。4月の制作開始から途中でモンゴル取材などで空いた期間はあれど、完成までは約9ヶ月かかったことになる。
▼制作の様子はこんな感じ。
ゴールデンウィーク中はギャラリーに泊まりこんで制作し、好きな時間に起きて制作し、絵の上で寝てはまた制作するという生活が、なんだかちょっとかっこ良く感じたし、幸せだった。
一番小さい天井から描き始め、壁面を半分くらい描いたところで、海上氏に直接見せる機会があった。
途中経過をFacebookでアップしていたが、友人たちはこぞって「おもしろい!」「がんばれ!」「展示が楽しみ」という声をくれていたし、自分の線画に包み込まれるほど大きな作品に、自分自身も楽しく感じていて、「これなら海上さんも喜んでくれるだろう」と思っていた。
全然ダメ、これならやらない方がいい
ギャラリーのスタッフさんに「海上さんには今日見せるよ」と言われていた日、その海上氏からいきなり電話がかかってきた。とにかくすぐ来いという。
職場から近かったこともあり、少しだけ仕事を抜けてギャラリーへ向かった。
すると海上さんは開口一番こう言った。
「なんだろうね、これは、全然ダメだよ」
パターン的になってしまっている。全然つまらない、こんな展示ならやらない方がいい。
友達や知り合いからの声と海上氏の意見は真逆だった。
この展示をやる際、「絵が必要とするだけの紙を用意しないといけない。はみ出すということは、その絵に対して紙が小さすぎるということ」と言っていた海上氏は、今回の私の制作経過を見て、
「大きい絵でこんなになってしまうというのは、あなたの絵は大きい絵には向いていないのかもしれない」
そう言った。
続けるかやめるか、そう問われて、「まだやりたい」そう答えた。
紙はまだ半分以上残っている。
残りの紙に描けるだけ描き、それでダメなら仕方ない。いつも通りに描いているつもりだったのにダメと言われて、正直何を変えればいいか分からなかった。
繋がるように描いていた壁面の制作をやめ、床面の制作に着手した。壁面は隣り合う壁がつながるように描いているが、床と天井だけは独立して描かれている。ダメと言われた理由について、海上氏は「説明はできないがとにかくダメ」と言っていたが、1つだけ思い当たることがあった。それは
「計画的に描いていたこと」
ふだん、構図も下書きもなく、いきなり好きな場所から描き始める。てきとうに描き始めても、人の手で描くと正確に線を引くことができず、どこかが必ず出っ張ったり尖ったりする。それをなじませるようにしていると、勝手に絵が描き上がるわけで、いつもはそうやって描いていた。
しかしこの時は、描く前にどの当たりにどの形状がくるか、を考えてから描いた。初めての個展でチャンスを掴みたい、失敗したくない、来る人に喜んでもらいたい、そういう思いから、事前にどこにどんな形がきて、というのを考えて描いていたのだ。
最も大きい床面の制作を始めて、ただ黙々と、自分の本来の描き方というのはどうだったのだろう、と問うていた。358cm×567cmの床面は、描いても描いても終わらなかった。それでも描き続けていたことで、徐々に床面は空間なくぎっしりと密度の高い線で埋め尽くされていった。
▼床面の制作風景。紙自体が少し大きく作られていることもあり、一度に広げて描くことができない。
もういいだろう、と思えるくらい描き込んだ床面の絵はまるで水面のように見えた。
そうしているうちに時間が経ち、「8月には開催できるのでは」と言ってた言葉もどこかへ飛んでいき、もはやいつ完成するか分からないような状態に陥っていった。
2012年8月。ウェブ制作の仕事をいったん中断し、再び地球の歩き方の取材の仕事でモンゴルに行くことにした。今度は3週間。360度地平線しかないような世界で、もちろん苦労だっていっぱいしながら戻ってきた時、気持ちが晴れやかになっていた。次の仕事に入るまでの1週間の間、たまたまギャラリーがお休みだったこともあり、ひたすら引きこもって制作した。
再び海上氏に経過を見せ、今度は「おもしろくなった」という言葉をもらった。
制作も終盤にさしかかり、ようやく個展開催の目処が立ち、2013年1月に2週間の期間をとって個展をさせてもらえることになった。
巨大な絵は展示の準備も大変で、スタッフの方が指導もしながら手伝ってくれ、ライティングや光の使い方なども簡単に教えてくれた。絵で囲まれた空間の中にいると、自分が羊水の中にいるような、顕微鏡で見える世界の中にいるような、1つの細胞になったような感じで、踊りだしたくなるくらい楽しかった。
作品のタイトルは「自己受容と自己治癒の美術」と付けたが、展示のタイトルは「獣医作家たまの部屋」と海上氏がつけてくれ(当時は小さい頃からのニックネームであった「たま」の名で活動していた)、作品の講評も美術誌『6月の風』に書いてくれた。
全体像が見られたのは自分でもこの個展の期間だけ。靴を脱いで絵の上を直接歩いてもらっていたため、2週間の間に絵はボロボロになった。
最初に「ダメ」と言われた時に描いた壁と、モンゴルから戻って気持ちがオープンだった時に描いた絵で、自分でもはっきり分かるほど線の自由度と形状の多様性が違っていた。
▼パターン的でつまらないと言われた壁面
▼モンゴルから帰国時に制作した壁面
展示があっても誰も来てもらいたくないって思ってた私だったが、この展示だけは多くの人に来てもらいたいと思った。年賀状代わりに案内ハガキを送ったら、みんなが来てくれ、その人たちの紹介でさらに人が来てくれた。
人が体験して楽しめるものを作りたい
ある時、ギャラリーのファンの方が来てくれた。その人が一歩、作品世界に足を踏み入れた時、表情がうわっと変わったのを見た。それは何か嬉しい驚きがあった時の表情で、それを見た時「こういうのを作りたい」って思った。
美大生と一緒のグループ展に参加して、自分の描いたものを恥ずかしいと思っていた自分も、この展示に関しては多くの人に来てもらいたいと素直に思えた。それは、この展示には「うまい」「ヘタ」がなかったからだ。たぶん、何も描いてない紙だけの展示だったとしても、紙の中に入るという体験はきっとおもしろいと思う。うまい絵は描けない。だけど、人が体験して楽しめるものを作りたい。アウシュビッツに収容された精神科医のフランクル医師が、極限状態の時に見た夕焼けの美しさをずっと覚えていたように、その人の心に残るものが作りたい。そう思った。
この展示がきっかけで、ものすごく飽きっぽかった自分も、1つの作品を作るのに時間がかけられるようになった。自分の絵を他の人と比べて恥ずかしいと感じることがなくなった。それに何より、もっと突き詰めたい、って思えるような「やりたいこと」が見つかった。
2013年8月、フルタイムでの仕事を改めて辞め、9月に初めてニューヨークに行く。よく分からないけど、世界でアートっていえばニューヨークっぽい気がした。行く前にニューヨークのギャラリー60件くらいにメールしてみたけど、返事はなかった。現地のギャラリーに配れるような小冊子を作っていったけど、慌てて作ったそれは誤字脱字だらけで、仕方ないので現地で黒と白のペンで修正して渡してきた。ウェブサイトはフリーサーバーだったし、CVもウナックでの個展以外の展示キャリアはほぼなかった。
12月にはお金を払ってロサンゼルスでのグループ展に参加。現地まで行って3週間の滞在期間の間に、ひたすらギャラリーを巡り、どうしたら海外で展示できるようになるのか、ギャラリーで取り扱ってもらえるようになるのか聞きまわった。たまたま会ったアーティストさんが世界を飛び回っているようなキュレーターさんを紹介してくれたが、英語で作品説明ができず、細胞をモチーフとした作品制作をしていたので「セル、セル」とひたすら繰り返した。好きなアーティストは誰か、と聞かれて誰も思い浮かばず、「自分の作品が一番好きです」と言ったら、「それはみんなそうだよ」って言われた。
行動しているうちに、同じく行動している友達ができ、情報共有をしながら励まし合えるようになった。現地でできたアーティストの友達は、展示がある度に声をかけてくれた。
この頃くらいから、初めてアートコンペで賞をもらえるようになった。それでも落ちるほうが圧倒的に多いのだが。
2014年7月。これもお金を払ってるが、ニューヨークで個展を開催。お金さえあれば、たいがいのことはできる。情報収集や機会獲得も兼ねているので、真夏のハイシーズンだったが3週間渡米した。費用はクラウドファンディングで捻出した。
現地のギャラリーに見に来て欲しいと展示のポストカードを渡し、連絡先を聞き、展示してもらいたい場合はどうすればいいのかを聞いてまわった。他にも置けそうなところには、どこにでも置いてまわった。公共情報しか置いてないタイムズスクエアのインフォメーションセンターには、人目を気にして置き逃げしてきた。細いツテを使って現地で出会った人が、日系新聞を紹介してくれ、すぐに連絡したことで、個展についての情報が現地新聞の3誌に紹介された。セントラルパークの目立つところで公開制作し、声をかけてくれた人にカードと名刺を渡した。公開制作を見てくれた人が子どもを連れて個展会場まで足を運んでくれた。
▼セントラルパークのストロベリーフィールド近くでの制作風景。
いくつか場所を変えながら、一番目立ちそうなところを探していたが、ここか噴水のところが一番声をかけられやすかった。
Artist Statementも複数回書き直し、HP用のドメインも取得し、とあるギャラリーオーナーに「よく考えてる」と言われるほど、予告なく振られても英語で作品説明ができるようになっていた。
2014年6月、渡米する少し前に、家賃0円のクリエイターズシェアハウスTOLABLのことを知った。ちょうど6月に家を出ないといけないタイミングで、前の家は日当たりが悪かったので、日当たりがよくて大きい作品が作れるところがいいな、と思っていた。6月末、合格のメールをいただいてからすぐ、「家がなくてヤバイです」と頼み込んで、ベッドも冷蔵庫も洗濯機もない状態の家に早々に移り住んできた。家はまだ工事中で、部屋を出るとよく工事の人に会った。屋上のある5階建ての家でしばらくの1人暮らし。
5階の屋上でダンボールを敷いて空を見ながら寝ようとしたらすぐに雨に降られて、撤収したりしてた。
▼2014年の後半に描いた絵はこんな風になっている。
家賃0円クリエイターズシェアハウスTOLABLに関わるクリエイターの中で、私はかなり年上のほうだ。最近では学生起業も珍しくなくなった。20代前半で「もうトシだから」という発言を聞くと悲しい気持ちがしなくもないが(笑)、早くからやりたいことが明確で、それに向かって歩める人はすごいと思う。
私が本当にこれをやりたい、と真剣に向き合ったのはたぶん、ウナックでの個展の時からだ。33歳になる1ヶ月前。獣医師免許を取るまで、特に障害もなく順風満帆にきてしまった自分にとって、人生の良い流れは勝手にやってくるものだった。だから、ちょっとうまくいかないと「自分には向いてないんだ。もっと向いてることしよう」と簡単に諦めていた。
何歳であっても、ゼロから挑戦し始められるはずだ。そうは言っても、30を過ぎると難しくなってくる。仕事を辞めれば再就職は難しく、家族もできる。「現実を見ろ」と言われることも増えるだろう。
そういう時、私は伊能忠敬を思い出す。言わずと知れた日本地図の制作者で、50歳になってから天文学や測量を学び、55歳で全国行脚し始めた強者だ。
日本のアート系のコンペも年齢制限がかかり、35歳まで40歳までと言われることもある。若い人を応援するシステムはあっても、30歳を過ぎて新しく始めようとした人を応援するシステムは、あまりないように思う。30歳や40歳になったら、挑戦よりもサポートにまわる人が増えるのかもしれない。
年齢を聞かれるのは好きじゃない。「その年でまだそんな夢見てるの?」って思われてないか、勝手に考えちゃうからだ。新聞やウェブメディアに取り上げられるのは嬉しい半面、「なんでいちいち年齢を記載するんだろう?」って思ってる。
天才っていうような人たちも、この世にはいるんだと思う。でももしも、何の才能もなくても、必死でつかみ取ろうと努力し続けられるなら、そういう人を人は応援したくなるのだと今は思う。
美術のキャリアはなく、デッサンもできないし構図もよくわからないが、最近は教えてくれる人が増えてきた気がする。作るものにお金を払ってくれる人も増え、オーダーももらえるようになってきた。それに何より、いろんな情報をくれたり、チャンスをくれそうな人を紹介してくれたり、協力してくれる人が増えた。自信はないし、今だって確定的なことがあればそっちのほうがいいと思っているが、こういう人たちがいるおかげで、逃げ出さずにいられている。だから、いつか、「成果」と呼べるようなものを出して、支えてくれる人たちにちゃんとお礼を言いたい。
不思議なことに、私の周りには「無理に決まってる」という人がほとんどいない。全く根拠なく「できるよ」と言って協力してくれる人ばかりだ。
「才能がないなら早く諦めたい」
そう言っていた自分は、一歩何か行動するごとに広がるチャンスを必死で掴もうとしているうちに、才能の有無を考えなくなった。才能がなくてやめるか、才能がなくてもやるか、その選択の権利は常に自分にあるからだ。
今は、世界中を作品展示をしながら巡り、世界中の人が楽しめる体験を作りたいと思ってる。まだ道半ばで、達成できたことはほとんどない。一生のうちに全く何も起こらないまま野垂れ死んでいくかもしれない。
たとえばそうだとして、それでもやるかどうかだ。
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今後の活動の励みになりますので、よろしければ、「読んでよかった」していただけると嬉しいです!
2015年の1月21日、恩師である海上雅臣さんに久しぶりに会いに行きました。
「いい仕事だね、展覧会やろうか」
今の絵を見せると海上さんはそう言ってくださいました。4月に再び、私を変えるきっかけをつくってくれたウナックサロンで個展ができそうです。
ニューヨークのアートフェアに出したいが、お金がなくて困っていると言うと、「じゃあ、右や左の旦那様、ニューヨークのアートフェアのための資金調達展にしよう」と快活に笑いながら言ってたのが、なんか嬉しかったです。
▼ウナックサロン
他にも、自分の活動から少しでも医療に貢献を、という思いを込めて、iPS細胞を応援するプロジェクトを実施(プロジェクトは終了)
▼世界の誰かとパートナーになれる!iPS細胞のアクセサリーで人と人との繋がりを可視化しよう!
https://motion-gallery.net/projects/cell_art_ouma
才能がなくても、やれることをやれるだけやっていきますね^^
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