【色覚異常の話】周りの人達には、どうやら虹が虹色に見えるらしい。

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言われ慣れない単語ゆえに「下品」という単語が「両親」という単語と長い間リンクしていて、そんな遠い昔の記憶があの時にフラッシュバックしたのかもしれない。



僕の見る世界、ひいては僕自身も「先入観」と「大衆からの刷り込み」で出来ている。


僕はなんてつまらない人間なのだろう。



下品事件のあと



その一件で懲りた僕は、自分好みに色彩を弄ることは金輪際しないと誓った。


その代わりにといっては何なのだが、何枚か少しずつ編集の度合いを変えた写真を友人達に見せて、どれが一番綺麗か聞いてみることにした。


すると、9割方の人が同じ写真を指差すのだった。


僕にとってはどれも同じ写真にしか見えないのにも関わらず、だ。

彼らが同じ写真を指差す度、お前はマイノリティだと非難されている気分だったが、「下品事件」のショックに比べれば何でもなかった。


それを繰り返して「一般的に綺麗だといわれる色合いにする編集方法」がある程度分かってきた。

色彩の変化は微量過ぎて、編集前と編集後の違いは全く以て識別出来なくて、よって編集後の写真も僕にとってはモノクロのままだった。


だが、あのトラウマから「ああ、一般論で綺麗と言ってもらえるならそれが一番だ。俺はセンスが無いから。」と半思考停止状態で編集方法を身につけていき、完全に思考停止してからは、面白いくらい画像編集が上達した(と言われただけで、無論僕には全く違いが分からなかったが)。


「このくらい明るさの夕焼けだったらコントラストをここまで弄って全体の明るさをこのくらい下げて」「晴れた日の海の写真はここまでブーストをかけてから色温度を下げて」と機械の如く色彩を弄れるようになった。


僕が綺麗だと思う下品な写真よりも、皆が綺麗だと言ってくれるモノクロの写真の方が、自尊心を守る上ではよっぽど価値のあるものだった。




あの写真との再会、そして



それから1年程経って、昔使っていたハードディスクからデータを移行している時に、不運にもあの写真を見つけてしまった。


まあ黒歴史だけど、良いだろう。

その時はそう思って、軽い気持ちでファイルを開いた。



その写真は、吐き気を催すほどに下品だった。


彼がそう思った以上に、その写真は僕の目に下品に映ったと断言出来る。


この写真を「どうかな…?」と恐る恐る友達に見せた自分を想像すると、あまりの惨めさに全力で顔を顰めることぐらいしか出来なかった。


屈託のない笑顔で笑う子供達の姿が、下品で、汚らしかった。



画面から極力目を逸らしながらその写真を左上までドラッグして、何の躊躇いもなくゴミ箱のアイコンの上で指を離した。


クシャッという虚しい音と共に、表示されていた写真は消えた。




僕が色盲であることには何ら変わりはないのに、一年前に世界一綺麗だと思っていた写真は、世界一下品で毒々しい写真に変わってしまっていた。


残ったのは、周りの人達が口を揃えて綺麗だと言ってくれるモノクロの写真だけだった。



そして、世間一般に浸透している審美眼に流されたが故に、やっと見つけた僕だけの色鮮やかな世界は、本当の意味でこの世に存在しなくなってしまった。


個性とは何なのだろうか。

僕の存在意義とは何なのだろうか。


絶望で言葉が出なかった。



あの写真が下品だと言われた後に一人流した涙が、愚かに思えた。





それからしばらくして、色々な不幸が重なって、僕は鬱になった。


当時のことは、良く覚えていない。

あの時期の記憶だけが、ぽっかり頭から抜けているのだ。


頭の使い方が分からなくなって、起き上がるのが嫌になって、常に頭の中にもやもやしたものが渦巻いているような状態だった。

食べる度に吐いた。

時々部屋に来てくれる人とも上手く話せなかったし、その人が帰ってからも何を話していたのか全く思い出せなかった。


学期中にも関わらず、僕は実家に帰った。


実家では、両親が「ゆっくりでいいから、ゆっくり休みなね」と言ってくれて、僕もその言葉に甘えてゆっくりさせてもらうことにした。

親が出かけて1人になってから、昔大好きでいつも聴いていたチャイコフスキーの「白鳥の湖」を聴いてみた。


止まっていたものが一瞬にして動き出した。

涙が溢れてきた。




自分が幸せになれる選択を




こんな重度の色盲の代わりだったのだろう。

神様は僕に素晴らしい音楽的才能を与えてくれた。


ただ音名が分かるだけの絶対音感ではない。

僕の頭の中には、誰にも理解出来ない美しい音楽の世界がある。



知っている曲であれば、楽譜なんかなくても一発で完璧に吹くことができるが、それは僕の中でそんなに大事なことではない。

音楽を聴けば、全ての楽器の音が音名で入ってきて、それにイメージの中で別の楽器のフレーズを付け加えることだって出来る。

複数の楽器を想像して音楽を奏でることだって出来る。

目を瞑ってチューナーのAを410Hzあたりから上げていって、440Hz丁度にあわせることさえ出来る。


「好きな曲が何でも弾けるって楽しいでしょ」と頻繁に言われるが、正直全然楽しくない。

技術という制約を取っ払った、頭の中で奏でる音楽に浸っている方が、よっぽど楽しいのだ。



楽譜なんかいらなかったし、まず読み方もよく分からなかった。

音楽用語なんかスラーとスタッカート、フォルテとピアノくらいしか知らなかった。

コンクールで吹く曲も、単純に自分が聴いていて好きな曲を選んだ。

先生が楽譜を持ってきてしまったのは、正直鬱陶しかった。


楽譜通りに吹いたら、子供の演奏は大人の演奏の下位互換にしかならない。

ただただ楽譜通りに吹いて、そんなのの何が面白いんだろう。


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