本腰入れて早稲田(&慶應大学)目指して浪人生活送った18歳の時の話。

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今の仕事のルーツ・きっかけになっているのかなと今では感じる出来事だったが、


高校時代、集英社の編集者の方のご厚意で 


当時アイドル兼女優兼歌手として人気絶頂だった広末涼子と日本武道館の楽屋で会わせて頂いたことをきっかけに、

 

大学受験の的を早稲田に絞ったのは高校1年の終わり頃だった。


わせだ。。ワセダ。。。WASEDA。。。


何処にある大学かもわからなかった当時。


けれど行く事だけは決めた。


決めたその瞬間から、額に必勝必殺のハチマキを巻き、俺は必死に勉強に取り組んだ、、、


わけはなく、行く事だけ決めて、とにかくバイトとカラオケとほどよく部活に明け暮れて残りの2年間を過ごした。


受験勉強は独学で行い、校則上本当はやっちゃいけないのにバイトしてお金を貯めては自己投資。 


どんな手を使ってでも受かりたかったので、現役の時は指定校推薦とか一芸入試とかスポーツ推薦とか

あらゆる推薦も志願した。 


指定校推薦だが、うちの高校はそこまで頭が良くなかったのか、早稲田枠は存在しなかった泣


あったのは明治大学が一つだけあったぐらいで、その枠は隣のクラスの秀才が早々に持ってった。


一芸入試だが、一芸持ってなかったので却下された。


厳密に言えば一芸は両手じゃ足りんぐらい持ってたんだが、

高校の先生方が早稲田にお披露目することを許さないネタばかりだったのだ。。


じゃあ最後の手段はスポーツ推薦だ。


半分幽霊部員として所属してたバレーボール部での栄えある戦績でどうだ。


足立区大会にて準優勝!これね。


スポーツ推薦を提出し、お金も15000円バイト代から捻出して振り込んだ。


数日後、大学の方からと思われる方から自宅に連絡があった。


「あのー大変申し訳ないのですが、区大会で、しかも準優勝程度ではちょっと、、、」


そんなニュアンスだったように思う。


超恥ずかしい。。。なんて思っちゃいけない。


チャレンジすることが大事ね。


運が良いのか悪いのか、無謀なチャレンジだったが振り込んだお金も綺麗そのままに戻って来た


文字通りの門前払いを喰らってしまったわけで。


ああ、じゃあもう正々堂々正面から学力勝負になったというわけですねと。




受けた大学は5つ。

全部東京都内の大学で、早稲田、慶応、上智、立教、そして明治だ。

これらね。判定でほぼ全てEランクだった大学ばかり。


早稲田しか行かないという決意をしたのになぜ他の大学も受けるのか?


ここにね、ある種のブレを感じますよね笑


まあ、自分のスペック的に全部滑り止めにならないぐらいレベル高かったので、

どこ受かっても嬉しかったでしょうが。



で、ふたを開けてみりゃ軒並み落っこちまして、 


浪人決定。


日程的に最後の合格発表だった早稲田での合格発表の帰り道の氣分は、、


そう。失恋したあの日と似ていた。

 

多くの同級生達が進学決定し、卒業式を笑顔で迎えてお別れしてゆき、


卒業旅行でスノボに行き、


春を迎えた。


厳密には学生とは言えないアダルトな年齢一歩手前の妙齢な18歳という年齢。


俺は浪人生という道を選んだ。 



予備校は代ゼミを選んだ。


人生初の"予備校・塾"というものの類いに一年通して通うことにした。


塾や予備校ってそれまでの人生で行った事なかったのでとにかく全てが新鮮。


高校からは男子高だったので、女子のいる環境に最初はいちいちグッときてたが、基本黙々と勉強した。基本ね。


講義内容の実力云々よりも、面白さで講師を選んでいたように思う。


勉強の面白さは代ゼミの講師の方々のおかげで目覚めさせて頂いたように思う。



特に世界史、古文、現代文、英語は面白かった。

”学び甲斐”があること

学ぶ"意義"や”価値”を感じられるってのは継続・集中するのにもってこいの理由だ。


そんなこんなであっという間に年が明け、センター試験を受け、

まさかの「ボロボロの結果」に引き笑いがおさまらず、一気に私大受験への臨戦態勢を整えにかかった。


必死度が増したってやつです。代ゼミが出すお守りとか破魔矢とか買っちゃったわー。

神にもすがりましたわー。


2月になり、立教大学文学部英文学科から私大受験が始まった。



池袋にある立教大学のあの蔦が絡まった古き良きキャンパスって感じの雰囲気が好きだった。

イギリスにありそう。

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