雑誌を作っていたころ(57)

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「開業マガジン」の落日


 会社の倒産が決定する瞬間とは、経営者が「もうダメだ」と思ったときだという。

「開業マガジン」の廃刊も、ぼくが「潮時だな」と思った瞬間に決まったといえる。

 これが大手や中堅の出版社だと、編集部に営業部、広告部がそれぞれの意見と利害をぶつけ合って、ごたごたの末に結論が出るのだと思うが、こちらは零細出版社だから独裁でことが決まる。その点は楽だともいえるが、誰に責任を押しつけるわけにもいかない辛さはあった。


「潮時だ」と思った理由は、このジャンルのベストな情報源は紙ではないだろうと考えるようになったことだ。その流れを裏付けるかのように、広告主と読者の質は号を重ねるごとに劣化していて、このままいけばいずれネズミ講や消費者金融の広告を載せなければやっていけなくなると感じていた。

 かといって、インターネットメディアとしての独立開業情報誌というのはイメージしづらかった。以前からわかっていたことだが、このジャンルは読者も広告主も、ITリテラシーが世間一般よりも低いのだ。

 ネットの知識がある人は勝手にIT起業を目指し、そうでない人は教えてくれる人を探してうろうろしているという、起業予備軍の二分化が起きていたのだ。


 ところで、雑誌は個人の仕事と比べると、質量が大きい。大きな慣性もある。それを止めるというのは、疾走する機関車を人力で停車させるようなものだ。すべて「次がある」ことを前提に回っているのに、その「次」を取り上げるのだから。

 まず大変なのは、資金的な問題だ。「開業マガジン」は赤字雑誌だったが、それでも小さいとはいえない収入がある。広告費と販売費だ。それで印刷費と制作費をまかなうわけだが、それぞれの入金と出金にはタイムラグがある。計算した結果、すべてを精算するには1000万円ほどの資金が必要なことがわかった。


 次に考えなければならないのは、人的な問題だ。それまでのリストラで、すでにかなりの人数がいなくなっていたものの、最後まで残ってくれた人たちに廃刊を通告しなければならない。高いとは決していえない報酬でこれまで力を貸してきてくれた人たちの今後を考えると、胸がふさがる思いがした。


 さらに、広告代理店やクライアントへの対応もある。単純に「やめます」と言った場合、へたをすると「次もあると思ったから広告を出したのに、話が違う。金返せ!」となる可能性もある。雑誌の幕引きは、簡単ではないのだ。だから小さい出版社では、倒産するまでずるずると突っ走ってしまうところが多いのだ。


 考えに考えた結果、自分で出した結論は「インターネットメディアへの媒体変更」だった。紙の雑誌であることをやめ、インターネットメディアに転身することで、「廃刊」という事実を糊塗しようという、ミエミエだが嘘っぽくはないプランだ。実際、そのためのサイトも作った。ただ、自分ではその方向はないと思っていたし、乗ってくる広告主もなかったために、本格的な運用には至らなかった。


 最後に、自分自身のことがあった。一部の人からは「いっそ会社を潰してさっぱりしたら」という助言もいただいていたが、それはどうしてもしたくなかった。ならば会社を存続させるために、どういう手が打てるのか。

 そちらに関しては、選択肢はあまりなかった。「一人編プロ」として単行本中心にやっていくしかない。10人で売上1億円の会社を、1人で売上2500万円の会社に変えれば、なんとかなると思った。一人編プロなら、支払経費がほとんど発生しない。これで資金繰りの悪夢からも解放されると思った。


 こうして、1998年5月に第1号を発刊した「開業マガジン」は、2003年1月発行の第29号で幕を閉じた。60カ月ほどの歴史でしかなかったが、この5年はまさに悪戦苦闘の連続だったといえる。最終号を発送し、人のいなくなったオフィスで、「もう雑誌を作ることはないだろうな」と思った。


 だがしかし、そう簡単に雑誌との縁は切れなかった。他人の作る雑誌に関わるという、新たなスタイルでの雑誌作りが待っていたのだ。


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