「置口空助の発達障害自我強化論」(自我強化=目的意識+フレームワーク思考+対認知機能障害用ITツール群)ようやく自己コントロールが出来るようになった話。①はじめに
アップした理由
どうもです。このストーリーは「置口空助の発達障害克服論」では分かりにくかった、発達障害からくる生き辛さを軽減する具体的な方法論です。「置口空助メソッド」と言えますね。ただあくまで、「置口空助」用ということは理解して下さい。
さて、なぜこのストーリーをアップをしたかというと、実は発達障害支援団体の定例会で「置口空助メソッド」を発表することなりました。検討した結果、事前にテキストになるこのストーリーを読んで頂いた方が理解しやすいだろうという判断です。
ただ発表するだけでは「こういうこともあるなぁ」で終わってしまうし、私に与えられた時間(1時間半程)で「置口空助メソッド」をうまく説明することは荷が重い。「置口空助メソッド」から、少しでも役立てる物を何かつかんで欲しいのです。じゃないと、私はイヤなのです(笑)。
定例会に参加される方にお願いです。このストーリーを読めば、いろんな疑問が湧くと思います。せっかくなので私を質問責めにして「泣かしてやる!」という気持ちで来て下さい(笑)。正直その方が有難いですよ。質問があったほうがよりブラッシュアップ出来るので。頼みます。
人は学習の仕方に得意・不得意があると思っています。自分で試行錯誤しながら、知識・技能を磨き上げるタイプと、手本を元に自分を100点に近づけるタイプ。私は自分の特徴から間違いなく後者のタイプです。無から有を作るタイプではないし、好奇心もそれ程強くはないのです。言ってしまえば、マニュアル人間なのです。別にそれでも構わないのですが、一つ問題があって、発達障害者の生き辛さを軽減するマニュアルなんて、どこにも売っていないのです(笑)。こうなったら自分でつくるしかないんだな。
自分なりの方法論を、確立するのに正直10年掛かっていますが、振り返れば幸せな時間でしたよ。その過程で、自分の役割を定め、自分を知り、自分のスタイルを構築出来たので。これは定型発達者、発達障害者問わずに人が生きる上でのテーマかなと思います。
ただ発達障害当事者として、この世界を生き延びるだけでも、大変な方がいるというのは身に染みて理解しています。私がそうだったので。より良く生きていく上で自分の特徴に合わせた方法論が必要なのです。私の関わる中で当事者は、手本を元に自分を100点に近づけるタイプが多いと思っています。このストーリーが自分の方法論を確立するために、少しでもお役に立てれば幸いです。
という趣旨なので、発達障害に興味のない方は読まなくて結構ですよ。正直、長いので。時間の無駄です(笑)。では、始めます。
自己紹介①
発達障害当事者として、なかなかな「生き辛さ」を感じて生きてきました。人とは違うという自覚は小さい頃からありました。でも、何が違うかは分かってはいなかったです。高校生の頃には、自分の将来について悲観的でした。「多分、私はホームレスになって、どこかで野たれ死ぬのだろう」と考えていました。
ただ、まだ絶望しきってはいなかったですね。どこかで「私は運がいい」と感じている自分がいて、「何とかなるのじゃないか?」とも思っていました。まだ10代の頃でしたからね、この地元からでて、社会に出て働くようになれば、今の状況が変わると思っていたのでした。
自己紹介②
高校卒業後、浪人生活を経て就職をする訳ですが、「私は仕事ができない」と、すぐ気づくのです。学生の頃、人と違うことは何となく気づいてはいましたが、ただ、ある意味人とは違う部分を個性と考えることも出来る訳です。そうして自分を励ましていました。でも、「就労」となると、人とは違う部分が、仕事をするうえで、障害にしかならなくなるのです。
何度も、「お前は人の話を聞いてない」といわれましたね。私としては、聞いているつもりなのですよ。でも人の話を正確には理解することが出来ないし、意思の疎通も十分には出来なかった。仕事のスピードも遅く、完成度も低い。おまけに疲れやすく休みながらではないと一日もたない。人とは同じようには仕事をすることが出来ない。社会には以外と変わり者といわれる人でも受けいれられるものです。条件は「与えられて仕事をこなし、集団の和を乱さない」ことなのです。その当時の私はこのレベルではなかった。仕事が出来ないと人間扱いされないのです。
親に面倒をみてもらっていた高校時代までとは違い、社会にでると生きるために必要なお金は自分で稼がないといけない。そのため、どうしたら仕事が出来るようになるか考える訳です。でも、同じ時期に入社した同期が最初は失敗しても、徐々に仕事の精度が上がるのですが、私は同じ間違いを延々とするわけです。自分なりに工夫は当然するのですが。私は気がつくのです。「人より学習スピードが遅い」。このことは自分の中では大きなことでした。
なぜなら、とくに同期は特に努力はしていないのです。いや、仕事では真面目にはしていますよ。でもそれだけです。普通に出社して繰り返し同じ仕事をしているうちに、だんだん出来るようになるのでした。別に帰宅後も特に練習しているわけではない(当時、会社の寮でともに暮らしていたのでわかるのです)。でも、私は普通に仕事をするだけでは、いつまで経っても人に信頼されるまでには、習熟することはない。自分の仕事における能力を自覚しました。
私は基本的に楽天的な性質なので、すぐ受け入れました。「能力がないのなら、努力をすればいい」、要するにただそれだけのことなんだと思いましたね。具体的な「努力」とは何かということですが、「仕事で人により劣っている部分を分析して対策を考えて、仕事以外の自分の時間を使って反復練習をする」ということになります。
自己紹介③
結論からいうと、「努力」は出来なかったですよ。「分析と対策を考えること」は出来るのですが、「反復練習」、いわゆる「実行」が出来なかったです。その当時は無理でした。自分の能力を自覚して、生きていくうえで苦手としていることを何とかしようという覚悟があっても無理でした。言い訳ではないのですが、数々の私の特徴が邪魔をする。
弱点「整理整頓ができない」
弱点「物事の順序が判らない」
弱点「思考が飛ぶ」(解離性障害)
弱点「過食」
弱点「相手の感情に影響される」(HSP)
弱点「睡眠障害」
弱点「フラッシュバック」
弱点「人と会話をすることが出来ない」
弱点「状況判断が出来ない」
弱点「何も考えられない」(思考空白)
弱点「認識できない」
その当時はここまで明確に自分のことを分かっていた訳ではないですが、今振り返ると、幼少の頃からこれらの特徴が私の「生きづらさ」になっていましたね。
「能力がなく、努力もせず、向上しない奴」と職場で判断されると、人間扱いされないしですね。普通に「死ね」とも何度も言われましたし、無視もされるし、足元に唾をはかれたこともありましたね。こうして職場を転々とすることになるのです。職場を変わる度に、今度こそはと、また努力をしようとするのですが、実を結ぶことはなかったですね。
自分が駄目人間なんだと自覚する度に自分の中の人間性の一番大事な部分が少しずつ剥がれていく感覚はありました。いつしか、努力をしようとする気持ちをすら持つことすら出来なくなっていきました。
物心ついてから根拠もなく「私って運がいい」と思っていました。今思えばこれが私の支えになっていましたね。だから職場を変われば、「次こそは」と希望を燃やせたのです。でずが、とうとう私を動かしていた、自分自身への無邪気な信頼感が底をつくときがきました。もう、「私って運がいい」とは思うことが出来なくなりました。こうなると、自ら死を選ぶことも考えざるを得なかったです。書いていて辛いぜ(笑)。
自己紹介④
平成16年1月、東京都八王子市。
最後の職場では寮の部屋が片付けられず、パニックになり逃走。もう職場には戻れずそのまま廃人のようにカプセルホテルでただ漫然と過ごしていました。貯金はとうに底をつき消費者金融でお金を借りての生活でしたが、それも限界でした。もうホームレスか自殺をするかの岐路に立っていました。その状態で親に電話をしました。幾ばくかのお金を無心するつもりでしたが、返答は意外なものでした。
「帰ってくるのなら、その旅費ならだす。たぶんあなたは発達障害だ」というものでした。母は障害児童の施設勤務で、そのため多少の知識があったのでした。
これまで人生がうまくいかなかったのは、発達障害の影響ではないか。であれば、何か対応策があるかもしれない。私は自分の人生をやり直すことを決意しました。31歳でした。
死なずに済みました。ラッキー、そう思うしかないでしょう?
著者の置口 空助さんに人生相談を申込む
著者の置口 空助さんにメッセージを送る
著者の方だけが読めます