雑誌を作っていたころ(64)

後編: 雑誌を作っていたころ(65)

大失態

 仕事にも「類は友を呼ぶ」という法則があるらしい。日本エイサーのPR誌を一生懸命にやっていたら、別のPR誌から声がかかった。友人のWebデザイナーからの紹介で、さるISOの認証機関が発行している機関誌の制作をお手伝いすることになったのだ。

 ぼくに与えられた仕事は、ユーザーを訪問しての事例取材と、認証機関の専門家を取材しての記事づくりだ。前にPHP研究所でISO関連の書籍を作ったことがあったので、この分野はまったくの素人というわけではなかったが、それでも初めて知ることが多くて勉強になった。

 取材先も大企業あり、中小企業あり、お役所ありとさまざまで、ネクタイを締めたり、ぴしっとジャケットを着込んでの取材が多かった。といっても、実際にやることは同じ。取材先を訪問して録音機をセットし、あらかじめ決められている質問項目に沿ってインタビューしていく。帰ってからそれをまとめて原稿にするのだ。

 しかしこの仕事で、ぼくは痛恨のミスをやらかしてしまった。広島での取材に新幹線で向かったのだが、前日の仕事がハードだったため、新幹線で寝過ごしてしまったのだ。はっと気づいたら列車が広島駅を出るところ。携帯電話を見ると、同じ列車に乗っている女性担当者からのメールと留守電が山ほどある。最後のほうは悲痛な叫びだ。

 新幹線の次の停車駅は小倉。せめて新岩国に止まってくれれば傷は浅いのだが、本州を外れてしまっては、大遅刻である。頭の中はいろいろな思いがぐるぐると渦を巻き、手は冷や汗でぐっしょり、もちろん顔面蒼白である。やがてクライアントの責任者から電話がかかってきた。覚悟を決めて、デッキで携帯電話にかじりつく。

 頭ごなしに「バカもーん!」と怒鳴ってくれればまだ気が楽だったが、責任者は冷静に次の行動を指示してきた。おそらく時刻表や地図と首っ引きで最善の策を考えてくれたのだろう。小倉で降りてUターンする列車名を教わり、広島ではなく東広島で降りてからタクシーで移動するように指示される。もちろんタクシー代は自腹だ。

 取材も、その後の帰路も、ほとんど針の筵(むしろ)だった。今思い出そうとしても何も出てこないところをみると、自分で記憶をブロックしたようだ。人間は、あまりに辛い局面になると、そうやって自分の精神を保護するという。どうやらぼくにもそんな保護回路がついていたようだ。

 その雑誌の仕事は、ほどなくしてなくなった。干されたのかもしれないし、予算的な都合なのかもしれない。あるいはその両方か。だが、失敗してしまったという思いは消えない。力不足で評価が低かったのなら納得できるが、ポカで落第点を取ったことはいつまでも悔しい。そのことからの収穫があるとすれば、二度と寝過ごさないぞと自分の心に誓ったくらいか。

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雑誌を作っていたころ(65)

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