雑誌を作っていたころ(65)

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仲代達矢氏のインタビュー

 大失敗の挙げ句、仕事を失ってしまったわけだが、運命の女神は完全にぼくを見捨てたわけではなかった。ひとつが切られたら、まるで埋め合わせをするようにほかのPR誌の仕事が舞い込んできた。民間療法である温熱健康法の団体が出している雑誌だ。ぼくはこの雑誌の、おもに巻頭インタビューを担当することになった。

 この雑誌ではいろいろな人を取材したが、印象に残っている人が何人かいる。その筆頭は、俳優の仲代達矢氏だ。ちょうど舞台「ドン・キホーテ」の7カ月にわたる全国公演の最中で、全133ステージというハードな仕事を休みなしでこなしているところだった。

 75歳という年齢でロングランの主役を務め続けるというのは、簡単なことではない。ブロードウェイなら代役が5人くらい控えていて、ちょっとでも体調不良になったらすぐ交代できるが、日本では即休演である。それでは楽しみにしているお客様を失望させるし、関係者にも多大な迷惑がかかる。

 そのため氏は毎日、「絶対に風邪を引かない」という固い決意で過ごしていたそうだ。その決意があまりにも強かったために、ほんのわずかでも体調が低下すると、「このままでは風邪を引くぞ」と勘が教えてくれるようになった。そうなったら、薬を飲んで早く寝る。強い責任感のなせる技だ。

 もちろん、日ごろからの鍛錬も怠らない。若いころはジョギングで、70歳を過ぎてからは水中ウォーキングで足腰を鍛え、体力を蓄える。最近はサインを求められると、「老化は進化」という言葉を添えるようになったが、それは老化を下り坂ではなく、さらなる高みへ続く登り坂ととらえているからだ。

 俳優・仲代達矢を世に出したのは、黒澤明監督だった。映画『七人の侍』に、当時俳優座養成所にいた仲代氏を端役として登場させたのだ。だが、着物を着て、刀を差してただ歩くだけというシーンに監督のOKが出ない。何度もやり直しが続き、このシーンのために半日も撮影がストップしてしまった。

 役者は足腰が基本だが、歩き方はその基本に直結した最も重要な演技である。黒沢監督はその基本ができていなかった俳優の卵のために、時間を割いて丁寧に教えてくれたのだった。その恩を返すために、仲代氏は今は亡き奥様の宮崎恭子さんと2人で、「無名塾」という俳優養成学校を始めた。もう30年以上前のことだが、それが今も続いている。

 無名塾の養成期間は3年。やっと俳優らしい歩き方や話し方ができたところで卒業になる。猫背でボソボソと小声で話していた若者が、2000人の劇場でもマイクなしで声が通るようになる。頭の上から糸で釣られたように、まっすぐ立って歩けるようになる。そうやって若い人たちを指導することで、仲代氏自身も多大な学びを得てきた。

 氏はインタビューの最後にこう語った。「ドン・キホーテのように、笑われてもいいから夢と理想を持ち続けることが大事だと思うんです。そうすれば向上心が芽生えてきます。向上心さえあれば、あとは自分で高めていくことができます」

 何歳になっても向上心を持ち続け、プラス思考で生きる。これが進化を続ける原動力になるということを、ぼくは老俳優から1mの距離で教わることができた。

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