「同性愛者」と言われて悔しくてたまらなかった子ども時代の話
自分で言うのもなんだが、僕は「玉のように可愛らしい」子どもだった。
3歳くらいまでは、外出すれば必ず女の子と間違えられた。母に手を引かれて買い物などに行けば、店のおばちゃんたちが「かわいい女の子ねえ」と声をかけてくれた。気を良くした母は、出かける前にわざと僕の前髪をゴムで結んだりして、こんな風に間違えられるのをまんざらでもない様子で眺めていた。
当事者の僕と言えば、自分の意識ではこんなに「男らしい」僕がなぜ女の子なんかに間違えられるのかと納得できず、「かわいい女の子ねえ」と声をかけられるたびに「男の子だよ!」と抗議の声を上げていた。真剣かつ必死の抗議にもかかわらず、いつもおばちゃんたちは相変わらずのニコニコ顔で、僕を眺めていた。
ある日のこと、とうとう耐えきれなくなった僕は、ズボンの前を下げてちっちゃなちんちんをおばちゃんたちに見せつけてやった。
小学生になってからは、さすがに女の子に間違えられることはなくなったが、体は他の子よりも一回りほど小さく、相変わらず可愛らしい子どもだった。が、剣道教室にも通い始めて、僕はますます「男らしく」なっていっていると自分では思っていた。
ある日の稽古での出来事だった。
みんなで並んで、素振りの練習をしていた時の事だった。僕は、剣道の先生の竹刀の構え方や振りかぶり方の説明についての話に飽き飽きしてしまって、隣の子とおしゃべりをしていた。しばらくおしゃべりを続けていると、剣道の先生が僕の前に来てこう言った。
「お前は、さっきからくねくねして隣のやつと話してばかりで、何だ。ちゃんと話を聞かないとだめじゃないか。お前は、男のくせに男とベタベタして同性愛者みたいな奴だ。」
全くの不意打ちのような言葉で、僕は恥ずかしさと屈辱で首筋に熱湯を浴びせかけられたような気持ちになった。全くそんなつもりはなかった。確かに、人よりはちょっと落ち着きがないことには自覚症状があったけれども、くねくねして隣の子とベタベタしながら話をしているという気持ちは全然なかった。どうして、こんな言われ方をしなければならないのか、子どもながらにものすごい屈辱感を味わった。
また別の日のこと、家で工作の宿題をしていて、たまたま赤い油性ペンがあったので、何となく暇つぶしに左手の指の爪をそのペンで赤く塗ってみた。それからしばらくして、そのことを忘れたまま友だちの家に遊びに行った。そこで、その友だちのお母さんに真っ赤に塗った左手の爪を見られてしまった。
「あなた、爪に色塗るの、好きなの?」
友だちのお母さんの表情からは隠し切れない嫌悪感がにじみ出ていた。この時ばかりは、しまったと思った。さすがに化粧に興味がある子と思われても仕方ないと思ったのだが、この時にも言いようもない屈辱感を味わった。決してそんなつもりはなかったのに、女の子のマネがしたかったわけじゃないないのに。その友だちからは、僕が帰ったあと、お母さんから「あのオトコオンナみたいな子とは遊んではダメ」と言われたと聞いた。
自分では、全くの男の子だと思っているのに、ふとしたことで、「同性愛者」だとか、「オトコオンナ」だとか言われてしまう。自分のジェンダーアイデンティティを否定されることの苦しさとは、つまりこういうことなんだろうと今にして思う。
普段はそれほど意識しないのだが、自分のジェンダーを巡る認識は、アイデンティティのかなり根っこのほうにあって、これを否定されたり、揺さぶりをかけられるということは強烈な打撃となる。
言いようもない屈辱感。何で、こんなことを言われてしまうのだろう。自分自身の思いと正反対であるようなことを押し付けられて、僕は、何か悪いことでもしていたんだろうか?
これは、たまたまマジョリティとして「異性愛者」として生まれた僕が、人よりちょっと体が小さく可愛らしかったために(自分で言うのも恥ずかしくなってきてはいるが)正反対のジェンダーアイデンティティを押し付けられて苦しんだ体験と記憶。
わかるだろうか?
もし、自分がマイノリティである「同性愛者」あるいは女の子の心をもって生まれたとしたら、今の社会では、正反対のジェンダーアイデンティティを常に押しけられながら人生を歩んでいかなければならないことになる。そこで不用意にも「自分」を出してしまえば、あのころ僕が味わったような嫌悪感を投げつけられ、そして屈辱感を味あわせられる。生まれてから死ぬまで、こんな人生を送らなければならないとしたら、この世は文字通り地獄だろう。
ちょっと想像してほしい。例としては、こんな自分の体験と記憶は適切ではないかもしれないが、とにかく、自分が持つ性質と正反対の振る舞いを期待され続け、そこから外れた場合は制裁を受ける生活を。
勇気があれば、そんな自分を認めてもらえるように努力したり、仲間を募って活動をしたりすることもできる。
マイノリティは「このような自分」が存在することを常に自分自身で説明し続けていなければ、そんな自分は「いないこと」にされてしまう。その一方でマジョリティは自分自身が何者であるかを説明する必要はない。存在の証明に関する説明義務は、常にマイノリティの側にある。
マイノリティは、マジョリティの無関心の中で、不可視化され存在しないことになっている。最大の暴力とは、「そもそも、そんなことは存在しない」とされてしまうことなのではないだろうか。これは「同性愛者」の問題だけに言えることではない。政治、民族、宗教、あるいは格差や貧困、そんなものはそもそも、ここ(この国)には存在しない。マジョリティが素朴にそう思うことによって、存在自体が否定される。
だから、マイノリティは自分が存在していることを知らしめるために声を上げざるを得なくて、それはまさに生存を掛けた叫びであることだろう。でも、これは、そんなに簡単なことじゃない。子ども時代の僕の経験で言えば、そんなことがあった時に冷静に誤解を解くなんてことはまずは思いつかない。ただ恥ずかしさと屈辱で身動きができなくなるだけだ。
(ちなみに今にして思えば、特に初対面の人がいる場面で必要以上に粗野にふるまったり、野卑な言葉を使ってしまう露悪的な傾向が自分にはあって、その根源には子どものころのこんな経験が影響しているのかもしれない。)
とにかく、あらゆる人が存在の証明に関する説明義務を一方的に課されずに、あるがままで生きられる社会というものはどのように構築していけるだろうか?そして、このような問題について、ことばの教育はどのように関わることができるだろうか?
たぶん、誰しもが、些細なことであってもマイノリティ的な「性質」を持っていると思う。それは、好きな音楽とか、俳優とかそんなものからでもいい。他人にはなかなか理解されない「何か」に対する思い。そんな思いを他者も抱いていることを意識し、その立場になって考えていける想像力があれば、世界はもっと住みやすくなるのではないかと思う。
全米で同性婚が合法化された日に考えている。
著者のMatsui Takahiroさんに人生相談を申込む
著者のMatsui Takahiroさんにメッセージを送る
著者の方だけが読めます