またこうして、書き続けられることを心より感謝します。読んで下さる皆様、本当にありがとうござい
ます。
前回、「30歳何の取り柄もない主婦が改めて自分の人生を振り返った結果、たった1つ好きな事に気が
つくまでの話」という記事の中で、憎しみ続けた父の話を書きました。
たくさんの方々が読んで下さり、有り難く思います。
今回は、父が家を出た後から現在に至るまでを書きたいと思います。
■蝕まれた心
すべてが壊れた夜以降、私達はどこへ向かっているのか、おのずと分かるようにな
ってきた。
父はいつの間にか姿を消していた。
何故「いつの間にか」という言葉を使うのか。
それは私を含め、母や兄も父に対して無関心だった為である。
むしろ居なくなってほしい、何度も願い口にした。
言霊の意味を深く、深く信じていた。
いなくなると、家の中に漂っていた悪意がどこかへ抜けた気がした。
平穏な日々が、こんなに素晴らしいとは思わなかった。
だが、体は正直だ。
ふいに父が戻ってくるのではないか、また痛みをあじわうのかと、恐怖に怯え動けなくなった。
昼夜を問わず、あの夜の光景が鮮明に思い出され、幾度となく涙する。
異常な思考はやがて私の心を蝕んだ。
時を同じく、兄も深夜にうなされるようになる。
繊細だった彼の心は、この時すでに限界を超えていた。
当時、私と母は死の恐怖に対して、常に向き合わなければならない状況だった。
なるべく刺激しないように、話題が父を連想しないように、兄と話す際は細心の注意を払った。
弱さを見せる、それすら許されない私は一体何者なのか。
人かまたはそれ以下か。
自分がひどく汚れた存在に思えて、嫌悪した。
歪んだ心を誰に話すわけでもなく、ひたすら感情を押し殺す日々が続いた。

■嵐の到来

父がいなくなると、大家から怪しまれるようになった。
不審がるのも無理はない。
年老いた母と若輩者2人。
私や兄は薄給に加え、様々な返済などもあり、手元にはわずかな金額しか残らない。
度重なる騒動に加え、父が生活費を持ち出し、家賃も払えずじまい。
恥を忍んで大家に事情を説明し、初めこそ憐れんでくれた。
大家は父とまったく連絡がつかず、家賃を回収出来ないと感じると、私達に当たるようになった。
一度だけ連絡が繋がり、大家自身で家賃支払いの約束を取り付けたが、当日になっても父は現れなかっ
た。
その為、大家の怒りは頂点に達し私達は強制退去と告げられた。
大家に罵倒されながら、家が見つかるまで置いてくれと懇願する。
何が悲しくて、またしても人から罵倒されなければならないのか。
中学時代の記憶が蘇る。
1週間だけ猶予をもらい、連日家探しに奔走する。
見つからない、契約できない、焦りと不安だけが私を取り囲む。
いっそ車に轢かれてしまおうか、疲れ果て毎日死ぬことばかり考えていた。
死にたいのに死にきれない。
この地獄のような日々は、持って生まれた業なのか。
最悪の事態として、ホームレスの可能性が頭をもたげたが、幸い最後の物件でようやく家を契約出来
た。
この時ばかりは、心の底から安堵したのを覚えている。
夜通し荷造りをし、持ち出せない荷物は置いていくことにした。
大家も、さっさと退去してほしかったであろう。
荷物を置いていくことに関して、何も言わなかった。
■父が泣いた日
引っ越し後、残された私達はお互い心の傷に触れないように暮らした。
これが、穏やかな暮らしなのか。
何度も望んだ暮らしなのに、何故こんなに苦しいのだろう。
自問ばかりで答えを見出せずにいた。
新たな生活に慣れ始めた頃、母の携帯電話が鳴った。
父からだ。
何か話しているが、小声すぎてよく聞きとれない。
全神経を耳に集中させる。
ほどなくして、母が私の元へ来た。
「父さんが話したいって。」
母は電話を差し出す。
これは、今までの恨みつらみを晴らす絶好のチャンスだ!
私は息巻いて電話を手に取る。
戦いの火蓋が切られた。
「もしもし・・」
あぁ、聞き慣れた父の声だ。
ここで怯んでは戦えない。耐えろ。
電話を強く握りしめる。
「何の用?今さら。どれだけ大変だったか・・・!」

ここまで口にして、私はあっけなく戦闘不能に陥った。
その間1分足らず。
今までの地獄のような日々も、大黒柱としての決意、無理やり仕舞い込んだ感情が、一気に爆発したの
だ。
気付けば、声をあげて泣いていた。
「ごめん、本当にごめん・・本当にごめん。」
初めて父が泣いた。
あの暴君が、娘との電話で泣いている。
長年の不協和音に加え、度重なる衝突に耐えられなくなり逃げ出した。
そんな中でも家族を愛していたことは変わりないと、むせび泣くのだ。
父は、限界だったに違いない。
父として威厳を保つ為、子供らの前では決して涙を見せなかったのだ。
そんな事にも気付けなかった私達は、家族として完全に機能を停止していた。
家族を背負うということは、想像以上にしんどい。
私は、なんてちっぽけで弱いんだろう。
父の長年の苦悩に比べれば足元にも及ばない。
見れば、母も泣いていた。
母として、そして妻として思うところがあったのだろう。
「もういいよ。こっちは普通に暮らしてるし・・許すよ。」
― 許す ―
これほど難しいことはない。
「許すこととはすなわち愛すること」
愛せないと許すことなんて出来ない。
愛とは、すべてを包み込む優しさ。
どこかで学んだ気がする。
父は最後に、知人宅に身を寄せていることを告げ電話を切った。
電話の向こう側に、父以外の人の気配を感じた。
私は父との会話を思い出し、ふとあることに気付く。
女の勘というものだ。
「このままではいけない。」
母に真実を確認せねばならない。
家族として、娘として、これから母が幸せに生きるために、最善の選択をしてほしい。
それがどんな結果になろうとも・・。
■別れるという選択
女の勘といえば、何が思い浮かぶだろうか。
おそらく大半の人は「浮気」「不倫」など、よからぬ思考を思い浮かべるであろう。
人の思考などいつまでも同じ場所に縛り付けておくことは出来ない。
頭では理解しているが、言葉にするのは気が引ける。
父には、母以外に何年にも渡って愛する人がいたのだろう。
母も気付いてはいたが、当時は父が恐ろしく問い詰めることさえ出来なかった。
病弱だった母は、女手一つで育てることに不安を覚え、せめて娘が成人するまではと耐えてきたのだ。
そんな母に真実を問うのは、あまりにも酷すぎた。
母は「やっぱり気付いてたのね・・。勘が良いから、すぐ気付くと思ってたよ。本当に仕方ないね、父
さんは。」
そう言って、罰悪そうに少し笑うだけだった。
複雑そうな顔の裏に、悲しみが見え隠れしていた。
その後、父と母は離婚した。
たった一枚の紙きれで、30年続いた夫婦はあっけなく他人に戻るのである。
生まれてから死ぬまで、人は紙切れによって人生が決まるのかと思うと、我ながら切なくなった。

■父との距離
離婚後も、私達は少しずつ父と連絡を取り合っていた。
しかし、兄だけは徹底して父と繋がることを避けていた。
「当分許す気はない。」と言った彼なりの苦悩があるのだろう。
彼の心だけは、傷が癒えるまでに少し時間を要するのかもしれない。
離婚から半年程たったある日、父から再婚した旨の手紙が届いた。
やはり、女の勘は当たっていた。
そもそも何故こんな手紙をよこしたのか?
塞がりかけた心の傷が少しだけ痛む。
だが、これ以上父を縛る必要もない。
私達は家族としては正常に機能出来なかった。
これはしっかり受け止めなくてはいけない事実だ。
しかし、老後の父の楽しみが、新しい家族であるのならそれはそれで良いことではないだろうか。
自分自身の心境の変化に戸惑いつつも、私はどこか清々しい気持ちでいた。
■その後の私達
父は新しい家庭で子供に恵まれ、現在第二の子育て真っ最中だ。
母の病は知らせたが、母の意向もあり面会に関しては一切断った。
すでに家庭を持っているので、葬儀に関しても知らせずに後日電話で報告した。
葬儀に出て欲しい半面、奥さんや子供に気を遣ったというほうが正しい。
以前までは、私の父だった。
今は生まれた子の父なのだ。
血を分けたとはいえ、私と兄は既に成人している。
生まれた幼子に愛情を注いで欲しいというのが当然だろう。
私も子を持つ親の立場になり、改めて両親の偉大さを知った。
その頃から、父に対し感謝の気持ちが強くなった。
今では月並みだが、連絡を取り合い近況報告をしている。
歳の離れた妹とまだ対面したことはない。
父には今度こそ壊さぬように、新しい家族を大切にしてほしいものだ。
最初の記事で書いた父の恐ろしさ、今回家庭を持ったこと、読んでいる方からすると私の感情に納得が
いかないかもしれない。
私も納得はしていない。
しかし、この感情も家族であった証なのだと解釈している。
愛とはすべてを包み込む優しさ、私は愛が成り立つ過程を体現したのだ。
そう考えるのは、少し大袈裟だろうか。
自分以外の人の幸せを願うこと、それは決して悪いことではないはずだ。
許すことから愛を学び、それを子や孫へ伝えていけたらと改めて思う。
私のこの感情は、年老いて最後の時を迎えても、忘れることはないだろう。
人は愛とは何かを探し続けるが、答えはいつでも決まっている。
「その人のすべてを受け入れられるか」
人としてもっとも大切な感情を、私は父から教わったのだ。
☆最後までお読み頂き、ありがとうございました。
これからも、皆様の記憶に残る文章が書けるように、応援宜しくお願いします。

