30歳何の取り柄もない主婦が改めて自分の人生を振り返った結果、たった1つ好きな事に気がつくまでの話
■30歳
世では「アラサー」なんて言葉で片付けられる。しかし、30歳と聞くと数字のマジックなのか個人的には60歳還暦までの一区切りという印象を受けてしまう。
「良い機会だ、改めて自分自身と向き合ってみようじゃないか!」
そう思ったのが ”七夕” だった。
なんて心の中で1人突っ込みを入れながら、書き場所を求めた結果ここへ辿り着いた。
色んな方のSTORYを読んで「こんなに上手くは書けないな。」
苦笑いしつつも、書きたくてウズウズしているのが自分でも分かる。
自分自身を振り返る作業というのは、どうしても長くなりがちである。
興味を持って読んでくれる方がいれば幸い、そんな感覚で書いていこうと思う。
■痛みの記憶
私は、真冬のよく晴れた朝に生まれたと母は言っていた。
生まれ故郷は、冬でも暖かくリゾート地として年間を通し賑わっている。
父、母、兄、そして私。典型的な4人家族として暮らしていた。
ただ一つ違っていたのは、力が支配する環境だったこと。
家庭内は常に不協和音が響き、猛獣と化した父に母が殴られて吹っ飛び、庇った兄は蹴られ、私はただ泣くことしが出来なかった。母がいつの日か殺されるのではないか、幼心に胸を痛めた。父の顔色を窺うようになると、段々会話するのが恐ろしくなっていった。
底辺の家庭環境だと笑われるだろうか?
「絶対服従」それが我が家だった。
思い出したくもない過去があったり、人生で生きるのが一番辛かったのも10代だ。
私は中学1年当時イジメにあっており、イジメっ子達に石を投げられ、罵詈雑言を浴びせられ、泣きながら帰った記憶がある。
そんな時も庇ってくれた中学時代の友人達とは、今でも連絡を取り合っている。
本当に、友人達には感謝してもしきれない。
「どんな事があっても、あなたの味方だよ」
どれほどこの言葉に救われただろうか。
イジメ発覚後、母は過保護な上に心配性になった。
いつの間にかイジメのターゲットは別の子に移り、3年に上がる頃には解放されていた。
ただ体はその状況を覚えているのか、不安や恐怖が襲うとお腹が痛くなるのは相変わらず続いた。
この症状にいたっては、30歳になった今でも続いているのでなかなか面倒だと思う。
イジメた子達は、今は立派に母親業をしているので名前は出さない。
ただ思うのは彼女らの子が、かつて彼女達がした事を繰り返さないようにしてほしい。ただそれだけだ。
■人間関係に悩む
高校に進学してからも、相変わらず人間関係に悩む事になろうとは思いもしなかった。
比較的明るく派手なグループに属していた私だが、門限が厳しかった事あり、次第にグループから外れ誘われる事もなくなった。
中学時代の同級生はかろうじて仲良くしてくれたが、どことなくよそよそしかった。
顔色を窺うのに慣れていた私は、微妙な空気の変化を察知するのが得意だった。
これが致命的な性格だとこの頃は知るよしもない。
ほぼ女子高だったのと、思春期特有の変なプライドも相まって関係を再構築するのは困難を極めた。
いつの間にか疲れて、上辺だけの付き合いにとどめるようになっていった。
「居場所がない」
自分よがりではなく、どこにも居場所がなかった。
他の子達がキラキラしていて眩しかった。
私にはいくら手を伸ばしても届かない、そんな感覚に襲われた。
居てもいなくても同じだし、居なくなっても誰も気にしない。
次第に学校からは足が遠のき、途中まで登校してすぐ家に戻るようになった。
専業主婦だった母は、何も言わずただ「おかえり」といつも通り迎えてくれた。
■担任の言葉
留年が嫌だった私は、毎回テストで点数を上げて単位を落とさないようにするタイプだった。
3年の担任は現国の先生だったか、違ったか今では覚えていない。
年配の女性だったが、小柄で可愛らしかった。
その担任が、答案用紙を返す時に一度だけ褒めた事があった。
「先生驚いたよ!あなたこんなに素敵な文章が書けるの?小説家とか物を書く人目指してみたら?」
当時の私はほめられた事に気恥かしさを覚え、慌てて席に戻った。
席に戻った後、答案を見つめながら私は担任の言葉を反芻していた。
だがすぐ現実に引き戻される事になる。
■進路変更
高校在学中から”美容師”を夢見て、両親にも美容学校に行きたいと伝えていた。
美容学科が新設された専門学校に早々に願書を出しに行き、後は入学金諸々を払えばおしまいのはずだった。
入学金の納入期限が迫っている。
母からは何も言ってこない。
バイトをしていたので、貯金はあったはずだ。
しびれを切らして私から母に問う。
「ごめんね、お金がないの。本当にごめんね・・」
母は泣きながら小さく呟いた。
目の前が真っ暗になった。
どれほど泣いたか分からない。
ただ、父が無職になって生活に困った為、貯金は使ってしまった。
それだけは理解できた。
あとの話は覚えていない。
その頃から、父を憎み話さなくなっていった。
父も苦しかったであろう。本当は高校へ行くのも難しい家計状況だったと、後で母から聞いた。
温室育ちの小娘にはこの世の終わりのように思え、思い描いていた人生が、一瞬にして崩れ去る現実を受け入れられないまま、残りの学校生活を過ごした。
すべてが灰色。
まさにこの言葉がぴったりだった。
この頃の日記には、父への憎しみの言葉しか書かれていない。
何の準備もなく就職活動したところで受かるわけもなく、卒業後の進路は未定のまま、私は3月1日を迎えた。
■就職そして家庭崩壊
「人生つまずいた」感いっぱいの私は、就職してもすぐに仕事を辞めて転職を繰り返した。
アパレル・受付嬢・・何をやってもすぐに飽きてしまう。
「何か違う」
悲劇のヒロインじみた私は、次第に心がすさんでいくのが分かった。
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