自己愛と甘えの人 ~幼少期~

前話: 強すぎる自己愛と甘えの人 ~前置き~

小さな頃の家族構成は、
父、母、姑、ひとつ上の兄、私
2件続きの長屋に住んでいた

私と兄はえらい虚弱体質で、母親が働きに出てたので母親の母親の祖母に面倒をみてもらっていた
手には兄を背中に私をおぶって小児科通いしてたらしい

でもね、それがいくつかまでかは知らないけど、その割りには覚えてないのよ、ほんと小さかったとはいえ
正月お盆とか行ってたんだけど、なんかあまり喜怒哀楽のない印象だったな
そう可愛がられた記憶もない

それに土地も財産も長男にやって、あてがわれた部屋は日当たりの悪い小さな部屋だった
78歳で癌で死ぬ時も面倒をみたのはうちの母親のみ…今考えれば母親の、従兄弟の母の、その長男から考えれば諸悪の現況はもしかして祖母?
祖父が早くに亡くなって働きづめだったろうし、前の前の世代だしね

父親は外ではものも言えないが、そのうっぷんか母親へのDVははんぱなかった
殴るは蹴るわ、髪の毛掴んで引きずり回すわ
飯が不味いってちゃぶ台返しするわ(確かに天才的に不味くはある)
そして、麻雀、ゴルフ、お酒?買いたいものは買う
5人家族で10万しかお金入れなかったと母親は言う

姑の嫁いびりは基地外レベルだった
いつも外に向かって「嫁に殺されるー!」とか叫んでた
子供のころでも頭おかしいやろと思ってた
もちろん可愛がられたことなどない

で、一家の家計を支えるために母親は朝から晩まで働きにでる
もちろん家事いっさいはやって当然

そしてうちら兄弟はというと、従兄弟も言うが悪そうだったらしい
で、母親の伝家の宝刀「躾という名の体罰」
体罰というより虐待に近いと思うし、あれは躾じゃなくて怒り
あたしはこんなに大変で働いて忙しいのになんで言うこと聞かないのよー!っていうね
たたき方も躾の域を超えてたもん
3度通行人に「助けてください!殺されます!」って外に飛び出たけど通行人が諭した後待ってるのはさらにひどいせっかん。助けも求めなくなった
一回母親が木製バットを振り上げたことがあった、その時私は「もう振り下ろしてくれ」と思ったのを覚えている

そしていつも言う言葉
「犬猫でも叩けば言うこと聞くのに、あんたは犬猫以下や」
「あんたのためにしるんやからな」
犬猫以下、人間でもなかったんだ
子供心になんか違う、、、いつも思ってた。もちろん言えるわけがなかったけど

兄も暴力だった、父親の影響だろうね
山口の外郎が好きで、半分ずつ食べなさいってもったいないから一日一個たべてる横で兄がバカバカ食べていて、そして案の定あたしのエリアの外郎が食われる、反抗したら殴る、みたいな
一回「口で言えるやろ、口でいいや」→ボコッ、てな具合に口より手だった
「お兄ちゃんだから尊敬しなさい」って言われて「この人のどこに尊敬するところがあるよ、年とか関係ないやろ」って言ったの覚えてる
特にひどかったのは専門学校の時、何かで理不尽なこと言われて顔にでたのか手を振り上げたから思わず反射的に手元にあったマグカップ投げたら兄の顔をかすってね
1時間くらいだったか、母親が帰ってきて止めなかったらまだ続いてたと思うけど、もう殴るは蹴るわぼこ殴りにされてね、痣までできたもんだから学校を休ませない母親が治るまで休みなさいって休ませたもんね

とにかく暴力一家だった
わきあいあいした記憶ない
母親からぎゅーされたこともない
優しく話しかけられたこともない
機能不全家族どころじゃない、家族じゃない

母親はよく言う今でも「ほんとあんたは父親に似て、、、」
私も人付き合いがうまくなかった、兄は母親のB型気質に似たのかそうでもなかったけど
幼稚園でも家が近くの優しい子しか覚えてないもんな、引越ししちゃったけど
あと覚えてるのは将来の夢に「会社員」って書いたら先生がえーって顔してたなー

小学生にあがって特にうるさくなった、あれはするな、これもするな、そして勉強はしろ
不満そうな顔でもしようなら「誰が養ってると思ってるんだ、子供は親の言うこときけばいいんだ」
いや、生んだのはあなたたちでしょといつも思ったけど言えるはずもなく、全部が聞けたわけじゃないけど基本反抗は許されなかった
そして馬鹿なもんだから「親のいうこときけ」→「大人の言うこときけ」→「人の言うこと聞け」的になってったとこあるかな

だからけっこうな性的いたずらの対象になった
世の中の男っていうのはもちろん全部がそうじゃないけど、思っている以上に幼児にいたずらするよ
痴漢もね。JRで一時間通勤してたころもどんだけの数の痴漢にあったかわかんないもん
幼児や女は抵抗しないし、そういうことなんとも思ってない男多い

で、そんな中で事件は起きるわけだ
小学3年だったよな、しらないじじぃからいたずらされたのね
それがほんとなんてタイミングでか知らないけど、「こうこうこうしたらね、赤ちゃんできるとよ」
いや、違うんだけど子供の作り方とか知らないから
「赤ちゃんできちゃった、、、どうしよう母親にバレたら殺される。。。」
殺される前に自殺しなきゃ、でも怖い。お腹がでてきたら死のう
それから毎朝起きてはビクつきながらお腹をチェックしてたけど大きくはならない、当たり前だけど
なんでか妊娠期間が一年だとは知ってた
そうやって一年が過ぎ、違うんだとわかった時にはうつになってたし、元々できなかった勉強はそれどころじゃなかったのでもう全くわからなくなってた
元々そうはなかった明るさ、活発さ、社交性も

母親は何も気づかなかった、見てもなかったんだろうね
父親は元気ないようだけど、と言ったので無理して相撲とったのは覚えてる
でも恐怖の一年は私には多大な影響となり、いろんな意味で取り戻せなかったし、たぶんここで人生諦めて終わったのね

それまではまだ漠然とでも、それとわりと早熟っぽかったんで考えてたとこもあったと思う
でも、機能不全家庭、毒母、そして決定的な鬱で思考をやめたのかな

小学生でも覚えてる人って、その赤ちゃんの話をしたいじわるいばりたい人とその子分の2人だけ
友達っていなかったというか作りきらなかった
覚えてることも植えた向日葵の芽がでなかったくらいしかない
修学旅行はどこにいって、どうしてたんだっけ…
あ、習い事は習字、ピアノ、そろばんは挫折、いつからか入れられた塾は行かされてた
その挫折も母親のネガティブ呪文
「あんたは、あれもこれもどれひとつ続いたことないやん、どうせ続かんよ」
のかっこうのまと
もちろん45の今でもこの呪文は撒き散らされる


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