なんとなく勢いで切り抜けてきたギリギリな半生。失敗を繰り返したけど、それでも今「直感」に従って生きていこうと思える理由
人生を振り返るといつも「直感」に従って生きてきたように思う。
大した考えも無く勢いで切り抜けてきた局面も多いけど、そんなギリギリな生き方も決して悪くはなかったと今では思う。私は今、株式会社パイレーツ大阪を立ち上げて現在7期目。ここまで歩んできた道のりを、これからどう走っていくのかを考えるためにも、少しこれまでの半生を振り返ってみようかと思う。
絵を描くことが好きだった幼少期
小さい頃から絵を描くのが好きだった。
藤子不二雄や鳥山明などのマンガが好きで、読むのが高じて自分でも絵を描くようになった。手塚治虫先生が亡くなられる直前でのサイン会でご本人からサインを頂いたこともあり、すごくオーラがあった記憶がある。従兄弟のお兄さんも同じようにマンガを描いていて影響を受けた事もある。負けず嫌いな性格で、絵を描くことに関しては絶対周囲の人間に負けられないという意識が子供ながらに強かったように思う。
将来的には絵を描くことを仕事にするであろうとボンヤリとは夢想していたけど、大した努力はしていなかった。気の向くままに好きなマンガの模写や、人の顔を描くのが好きだったので似顔絵などを描いていた。
音楽にハマっていった中学~高校時代
中学生になり吹奏楽部に入部して、絵よりも音楽の方に傾倒していった。
クラブ活動を選ぶ際に一度美術部に足を運ぶが、他に見学者もおらずとにかく”暗い”イメージがあり入部は辞めてしまった。吹奏楽部は女子が大半で非常に華やかな雰囲気であり、無意識下の”モテたい”という願望に導かれて、そちらを選んだ。
絵は1人で行う内向的な作業であるのに対して、音楽は色んな人とコミュニケーションをとりながら創っていくものなので、開かれた世界であり非常に楽しかった。中学校の部活最後のコンサートでルパン三世のコスプレで演目を行ったのは良い思い出である。今に繋がることだが、基本的に他人と違ったことをしたがる、目立ちたがり屋な性格である。高校でも引き続き吹奏楽部を選択し、部活動に明け暮れる毎日であった。お陰で大阪にある私立の進学校に通っていたものの殆ど勉強はしなかった。男子校だった為に淡い思い出(!?)が無いのが唯一の心残りだろうか。
中学と高校の同窓生でそれぞれ音楽関係の第一線で仕事している人がおり圧倒的な才能に触れていたので、音楽を生業にする事を夢想したことは無かった。あまり描いてはいなかったものの、自分は絵で食べていくというという考えに変わりは無かった。高校生活最後の半年で、進路を決める際にほんの僅か美術系の大学への進学も脳裏に浮かんだが、美術に関して何も取り組んできていなかった為に直ぐにその方向性は取りやめた。
絵はいつか本格的に取り組めばなんとかなるだろうと高を括っていた。通常の私大を目指して大学受験を行い、取り敢えず一人暮らしをしてみたかったので東京の青山学院大学に入学した。
人生の方向性を完全に見失ったまま大学を卒業
大学時代も引き続きオーケストラ部に入部して音楽を楽しんでいた。いよいよ就職活動の時期に差し掛かった頃、どういった人生を歩んでいくのか大いに悩んだ結果、人生の袋小路に迷い込んだ。マンガを1本も描ききった事がないのに漫画家になれるとなぜか思っていた。
当然なんの蓄積も無く必死の覚悟も持たない状態で漫画家になれる訳もない。職業について大した下調べもせず、絵を描く仕事に就きたいものの、イラストレーターやグラフィックデザイナーなどの職種に対する知見もほぼ無くて、どういう道を歩んでいくか皆目見当がつかなくなる。大学入学までは決められたレールを走っていれば良かった。ところが就職という分岐点に差し掛かった時に、これまでの人生経路とまったく事をやろうとした為に、身も心も萎縮してしまった。リスクをとることを恐れて、やりたい事にチャレンジする勇気が生じず、結果的に前にも後ろにも進めなくなってしまった。ただ、普通の一般企業につとめる気持ちは微塵も生じなかった。やりたいことが明確にあった訳でなく、ただダラけた状態のままモラトリアムを貪ったのである。周囲の人間と交流を断って、文字通り引きこもりのような生活を送ることとなってしまった。
今思えば、絵を描くというやりたいことがあるなら、早くその道に向かっておくべきだった。やるべきことを後回しにしていると、取り返しのつかないことになる。大学まで出て今更絵で食べていきたいというのも世間体が気になり憚られる気持ちだった。
ようやく歩き出した大阪での専門学校時代
就職先も決まらないまま大学の卒業を迎え、何も持たない状態で実家の兵庫に帰ることにした。流石にその頃は絵を描いて生きていこうと決断していたので、大阪にある夜間のグラフィックデザイン専門学校に入学した。昼間は飲食店で働いていたのだがここで社会人の洗礼を受ける。これまで飲食店の業務経験が無かった為、現場で自分が全く”使えない”人間と化してしまったのである。非常に要領が悪い上に大卒のプライドが邪魔をして最初の1年間は非常にしんどい思いをした。ただ、辞めずに続けようとは思っていたので少しずつ仕事に慣れていき、最終的にはある程度のレベルに達っしていたように思う。飲食業は限りある時間の中でテキパキと物事をこなさないといけない。ここで仕事の運び方のイロハを覚えられた気がする。
夜間の専門学校は高卒の若い人から普通の会社勤めをしながら来ている人もいて非常に刺激になった。皆んな日中は仕事を行いつつ、ハードな物量の課題をよくこなしていた(そして大学の時に殆ど宿題をしていなかったことを反省した)。好きなことに関わってるからか課題をサボっている人はあまり居なかった。天才的に絵の才能がある友達とも出会った。狭い世界で生きてきた為、絵に関して自分より技術的に上手い同世代の人に会った事がなかったので技術力の身の丈を思い知らされた。また、高校・大学ではまったくリーダーシップみたいなものを発揮することは無かったものの、専門学校では久しぶりに飲み会の幹事などクラスの取りまとめをやらせてもらった。小学校の頃に生徒会長をやっていたけど、目立ちたがり屋の性格も相まって(!?)仕切り役は嫌いではない。自分の好きな事を、技術力を生業にするという目標を同じくして同窓となった仲間達とは今も交流が続いており、時折仕事をお願いする事もある。
大阪でデザイナーとして就職、東京でブラック企業(!?)に転職^^;
専門学校を卒業後、大阪のデザイン会社A社に就職した。小さな会社で、飲食店でのピリピリした雰囲気よりもかなりアットホームな場だった。自分のペースで仕事しながら、業務の相間にデザイン専用のソフトを扱う技術などを取得していった。
そして2年超が経った時点で転職を思い立ち、再度東京に戻ることにした。大学の知り合いもおり、東京の方がイラストやデザインの仕事は口が多いと考えたからだ。B社にアートディレクターとして迎え入れると誘われて無事に転職できたものの、会社の都合でいきなり営業に回されることになる。しかも新規事業部の立ち上げを申し渡されて、所属するのは自分1人。私は人当たりのいい雰囲気なので、営業に向いていると社長と幹部の方に思われたのであろう。元々、営業なんてやりたくないからまともに就職しなかった訳であり、まったく本意でなかった。俺はデザインがやりたかったのになんでこんな事をしてるんだ!?今でこそ会社の中で営業職が非常に重要であることは理解しているが、当時は全く納得できなかった。東京に出てきたばかりで仕事を変えられなかったので、しぶしぶ営業活動を開始する。電話とパソコンだけある1人の部屋でテレアポをして飛び込み営業を行っていったのである。こんなので仕事をとるなんて絶対無理だと思いながらやっていたのだが、受話器越しでも物腰が柔らかいのが功を奏したのか(!?)、テレアポで案件をいくつか獲得していった。電話してアポイントを取り業務のオリエンをして、パッケージの仕事でいきなり100万円単位の案件を受注する事もできた。徐々に結果が伴っていくことにより、新規の仕事を受注する楽しさを覚えていったのである。
口車に乗せられてやむなく営業を始めた訳だが、会社からの営業に向いているとの見立ては間違っていなかったのかもしれない。まったくコネクションの無いところに切り込んで、新規の案件を狩猟感覚で開拓していくのが面白かった。関西人特有の雑草魂の賜物だったように思う。
会社の創業に参加したが離脱、再起を図る
B社が今で言うブラック企業のような会社だった為、徐々に経営が怪しくなっていったので離脱する事にした。そして当時同じB社の同僚だった先輩の方が立ち上げた会社に参加することにした。デザイナーを含めて3名で会社を創業したのだが、私が仕事を引っ張ってくることができず、半年ほどで離脱することとなる。営業が案件を持ってこれなければ3人が共倒れになる、会社の判断は正しかったと思う。どこかで他人任せの甘えがあり、当事者意識が低かったのが原因だったのであろう。非常に悔しかったのだが、これをキッカケに次は自分で会社を立ち上げたいという考えに至ったのである。いずれは独立することを前提に、繋がりが持てるよう広告代理店に出向の条件のあるN社に転職、奇しくも大手広告代理店で働く事ができた。
ここまでの人生は、流れに身を任せて惰性で生きていた感が強い。そしてどこか楽観的で強い意思を発揮する事ができず、力の入れ方が中途半端になる局面がままあった。いつか頑張ればいいという後回しのメンタリティが導いた歪み。その結果、就職活動時のドロップアウトや起業した会社からの離脱など、色んな失敗も起こった。ただ、レールから外れた人生を歩み始めた事で、社会という荒波をサバイブしていく精神というか、ある程度の耐性は身についたと思う。
会社を立ち上げて走り始める
決めていた期間で区切りをつけてN社を辞め、広告物のグラフィックデザインやイラストレーションの制作会社である株式会社パイレーツ大阪を創業する。ただ、独立した時点での仕事はスポット1~2本のみ。しばらく疎遠だったB社での上司の方からの繋がりでお客様を紹介頂いたのは本当に有り難いご縁だったと思う。新規で飛び込み営業していた経験があったので、丸裸でも仕事がとれる自信はあった。少しずつではあるが業務量が増えていき、レギュラーの仕事もやがて獲得することができた。N社とも連携した業務を行うことになり、出向先だった広告代理店ともお取引頂ける事となった。人の繋がりで仕事を頂ける有り難さを身に沁みて感じながら日々業務をこなしている次第である。
不思議と会社を立ち上げたという気負いはなく、眼前にある仕事をひたすらこなしている状況。仕事が無くなり食べれなくなるのでは、という悲壮感は何故か無いのは、元来楽天的な性格だからだろうか!?起業してから、会社名を冠した音楽系のイベントを定期的に行うようになり(http://pirates-osaka.com/?page_id=161)、屋外広告の賞を授賞したことはあったものの(http://pirates-osaka.com/?p=254)、取り立てて大きな成功も失敗もなく、粛々と業務を遂行していくことで年月は過ぎていったのである。なんとなくボンヤリと、自社発信のクリエイティブ作品を世に打ち出したいなぁという思いを抱きながら。
思いがけない出会い -今
会社もやがて軌道に乗っていき早6年近くが過ぎた。
そんな矢先に仕事の現場で金川信亮と出会う。ディレクターとしての業務を他の人に手伝ってもらいたいと思っていたので私から一緒にやらないか声をかけたのである。仕事の話しをする程度で金川のバックボーンはおろか年齢すら知らなかったのだが、少しずつ情報を交換していく中で協業してみたいと考えた。私が音楽が好きで女性ボーカルのプロデュースをしたいと目論んでいたのだが、彼の趣味と偶然マッチしていたのに驚いた。これは何かの縁だと思った。
そして金川から黒澤優子を紹介された。黒澤作のすでに書きあがっている短編小説集があるのでそれを書籍として発刊しないかという企画を持ってきてくれたのである。黒澤との初見も金川と同様だがあまり記憶に無い。かなり忙しい現場で週替わりで来られるスタッフの方にまで気を配る余裕がいつも無かった。情報を交換していく内に、気付いたら3人でチームになっていたという感じだ。黒澤の短編を一読して確かな筆致の技術力は感じたのだが、扱っているテーマや抉り出しているものが一般の人に受け入れられるかは、非常に未知数だった。黒澤本人にも伝えたが、モノによっては不快感を覚えるモゾモゾした作品群である。この得体の知れない、塊になって吹き出してくる感情は一体何なんだ!?文学に造詣の深い金川の強い推薦を信じてみることにした。直感的に、会社の事業として出版をやってみようと思ったのである。しかも出版シロウトが電子本でなく、実績無しでいきなりの印刷物の書籍としての発行。『トウモコロシ』に関しては装丁なども含めて創り手の意思が隅々まで通った作品にしたいという思いをカタチにすることがベストだと踏んだ。
黒澤優子作『トウモコロシ』略して”モコ”書籍化プロジェクトが始動した。編集と組版は金川が担当。産みの親である黒澤と両者で喧々諤々、文章の推敲を進めてもらった。本の表紙周りデザインは私の盟友であるデザイナーにお願いし、著者ポートレイトも友人のカメラマンに撮ってもらった。私は直接的な作業としては表紙の小さなトウモコロシの絵を描いただけだが、一緒に仕事してみたかったスタッフとチームを組んで本を創りあげていく過程がとても刺激的で面白かった。
そして、黒澤ワールドの名刺代わりとなる作品として、電子絵本『ミカ』(http://piratesbooks.lovesick.jp/mika/)を制作(黒澤優子:文 長谷川崇:絵 金川信亮:編集)。3人でのセッションは非常にスリリングなものとなり、舞台は高校であるが、”モコ”の世界を導いてくれる鮮烈な作品が誕生した。
皆様にはぜひ”ミカ”で”黒澤優子の世界”を覗いてもらった上で、処女短編集『トウモコロシ』を堪能して頂きたいと願う。
これから歩んでいく道
長年広告制作という仕事に携わっていると、次第に自分の会社でも「コンテンツ」を売ってみたいと思うようになった。個人向けに似顔絵のイラストボードをネットで販売をしている実績もあり、販促の仕方を工夫すれば「モノ」も売れるのではないだろうかと類推したのである。私たち広告制作会社はクライアント様より大切なお金を預かって広告をつくっている。自分の会社もリスクを負いながらコンテンツを販売していく実績は、絶対プラスになると考えた。ソーシャルネットワークを使って知らなかった人と繋がりながらコンテンツを拡散していく事に挑戦し、この経験を広告制作の仕事にも還元したいと思っている。また、一昔前だと何の実績も無い会社が書籍を販売することなんて出来なかった。今はAmazonやインターネットなどのテクノロジーを使えばコンテンツの流通が実現できる世の中になったのである。クリエーターにとっては可能性に満ちた時代になった事に興奮を覚えている。まずはなんでもトライしてみる、である。
そして、私自身はどうやら周りの人との相乗効果で力を発揮しやすいタイプのようである。周囲の期待に応えたいと思うし、近しい人の力になりたいといつも考えている。1人で大仰なモノ創りに挑めるようなストイックな人格ではないようだ。他の人達の力を借りながら、螺旋状になって共に上へ登りつめていきたい。社会に対して祭りを仕掛けていく、毎日が文化祭の前日のようにバタバタ忙しい会社になるのが理想である。お祭りって成功を妄想しながらネタを仕込んでる過程が一番楽しかったりするものだから。
これからも私は「直感」に従って生きていくつもりだ。大きな方向性は「直感」で決めながら、それを達成していくために日々積み重ねるタスクを「論理」で突き詰めていく、といったイメージだ。自分の思い描いた道を勢いを持って、そして少しの知恵を挟みながら、これからも駆け抜けていきたい。
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