永い準備期間を経て、とある孤高の作家と出会い、本当に好きなものが仕事となった話

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前編: お寺で育った幼少期、異国での日々、3.11での被災、ライターで食いつないだ東京でのじり貧生活...こわがりだった私の半生の中で、唯一ゆずれなかったもの
後編: なんとなく勢いで切り抜けてきたギリギリな半生。失敗を繰り返したけど、それでも今「直感」に従って生きていこうと思える理由



私が株式会社パイレーツ大阪の一員となってから現在までの出来事は、幾つかの欠けていたピースがピタリ、ピタリと嵌まっていく過程だった。弊社代表・長谷川崇に入社を打診されたのと、孤高の作家・黒澤優子に出逢ったのとは、ほぼ同時だったと思う。



15年間、俺は三和プロセスという製版会社で進行管理をやっていた。Dという日本で一番大きな印刷会社の下請けをメインにやっていた小企業だ。創業社長が発明と貿易をやりながら大きくして一時は音羽にでっかい自社ビルがあったらしいが、不渡りを出して倒産しかけ、奇跡的に蘇生して目白台の社長宅を大改造した新社屋でゼロから再出発していた。


俺が入った1996年当時、世の中にはまだDTP(デスクトップパブリッシング)以前のアナログ製版が生き残っていた。

暗室で平アミを露光させたり、それを自現(=自動現像機)に流したり、製版カメラで版下を撮影したり、ルミラーにCMYK四版のフィルムを貼ってコンセをとったりしていたものだ。

これらの仕事はその後あっという間に業界を席捲したDTPに一掃されて今では跡形も残っていない。複雑なネガをあざやかに多重露光して魔法のように美しい紙面を作ってしまうレタッチマンの職人技も消え去った。(原理に興味がある人は鎌田弥寿治の『写真製版技術小史』でも読んでほしい。)現在でも「C版を少し洗う」などという言葉で印刷物の色に対して修正指示を出すデザイナーが稀にいるようだけど、あれはかつては色を調整するために実際に製版フィルムを流し台で減力液にひたして筆で洗い流していたことから来た表現である。この洗い流しの微妙な加減でえも言われぬ美しい色を現出させる秘法もあったのだけれど、そんなものもデジタル時代に継承させるべくもなく絶滅してしまった。


そもそも製版屋という職業は世の中に知られているだろうか。要は印刷の前段階なのだけれど、印刷物という製品をつくるには、フィルムカメラに譬えればカラープリントを焼くためのネガに相当するものが必要になる。それがないと印刷という大量複製技術も機能しない。それを作って印刷会社へ納品するのが我々の仕事だった。


そんな工程がそれだけでひとつの職業になるのかと訝るむきもあるだろうが、なる。理由は後述する。


三和プロセスは創業三十年以上経っている老舗の製版会社だった。しかし新しいものにも物怖じせず、Macintosh DTPの黎明期からデジタル製版へ参入した。Aldus PageMakerとQuarkXPressが組版ソフトのデファクトスタンダードで、Adobe InDesignなんてまだ影も形もなかった頃だ。多くの同業者がアナログからデジタルへの移行に苦慮していた。システムもまだまだ未熟だった。そんな中、三和は高い技術力となりふり構わぬ受注ぶりでアナログのみならずデジタルプリプレスにおいても頭角を現し、得意先からは早くて腕のいい使える製版屋だと思われていた。それは従業員の私生活と人間性の多大な犠牲の上に成り立っていたのだけれど。


文系の大学を卒業し、この会社の門を叩いたときは、こんなに永く在籍することになるとは思わなかったし、こんなに変な会社だとも思わなかった。DTPは当時まだ海のものとも山のものともつかなかった。しかし俺は将来性を感じていた。個人のパソコンで商業印刷物が簡単に作れるようになるなんて革命ではないか。インターネットの普及と相俟って、グーテンベルク以来の大変動が来ていると思った。本好きにとっては心躍る時代だ。いずれ、自分でも本を作ってみたい。そのための技術を習得できるかもしれない。ざっくりした将来への見通しだけをもっていた。

求人情報誌の「未経験者歓迎」の文字を頼りに、なんとなくそれっぽい会社を探し出し、深く考えずに面接へ行ったら、数日後あっさり採用され、明日から来てくれという。履歴書の備考欄に「御社のためにどんなことでも致します」と書いておいたのが効いたのかもしれないな、などと思いながら出社した。新生活が始まった。


えらいところに来てしまったと思った。学生のとき、何もすることがなくて本ばかり読む生活を続けていたので、その反動であの忙しさにも堪えられたのだろうが、そうでなかったらすぐ逃げ出してしまったに違いない。


朝、タイムカードを押して出勤し、夜中に再びタイムカードを押して退勤する瞬間まで、ドカドカ入ってくる入稿物の処理とジャンジャンかかってくる電話の応対に追われて食事はおろかトイレにも行けない。

定時などあってないようなもので、前日に遅くまで仕事していた先輩たちは会社に来ない。

その一方、いつから泊まっているのかわからない先輩が異常にハイになってケケケケ笑いながら何かをやっていたりする。

誰も仕事を教えないので、やり方がわからない。それでも入稿物は机の上に山をなしている。見よう見まねで伝票を切って現場へ回さなければ納期に間に合わない。

得意先と現場のあいだに挟まれて、どちらからも怒られ、どちらにも頭を下げる。進行は腰が低くないと絶対できない仕事だと悟った。(その点で自分に適性はあったらしい。)


最初のうちは俺のほかにもう一人、同じ進行管理職に就いている先輩がいたのでまだ大丈夫だったのだけれど、この人がある日突然失踪して、すべての仕事が自分一人の肩にかかってきた。あまりにも忙しくてパンクしたらしい。失踪の前夜、机の上に1メートルぐらいの山をなしているD印刷のピンク袋を呆然と見つめているその先輩の後ろ姿をうかがい見て、何も言えず、そっと離れたことを思い出す。交代の時間だから俺はその先輩をひとり残して薄情にも退勤したのだったか、それとも別の雑用に追われていたのか、もう憶えていない。このように「辞めます」のひとことが言えずギリギリまで抱え込んでパンクしてしまう者はその後も後を絶たなかった。いったい何人が失踪したろう。同調圧力のようなものが蔓延していたわけではなく、自由すぎるほど自由な会社だったのだけれど、だからこそ、ある種の人たちは抱え込んでしまったのかもしれない。「去る者は追わず」が原則で、誰がいなくなっても残された者で穴を埋めた。


そんなにムチャクチャな働き方をして法に触れないのかと思われるだろうが、この会社に社員という存在はなかったので労働基準法は関係なかった。みんな会社と業務委託契約を交わしたフリーランスという扱いになっていた。だから源泉徴収もされるし、確定申告もする。でも実際はタイムカードを押して一定時間拘束されるのだから社員みたいなもので、ただ諸々の社会保障が一切ないだけだ。この鵺かコウモリのような雇用形態が「偽装請負」として社会問題になったのを憶えている人も多いだろう。芸能人やテレビの制作会社なども、撮影が早朝から深夜に及んだりすることが珍しくないだろうから、この形態が一般的だと思う。業種によっては常識なので今さら騒ぐことではなかったのだ。三和はアットホームな雰囲気があって居心地はよかったが、人事は非情冷酷で合理的で、当人に何の落ち度がなくても閑散期で人員がだぶついているというだけでクビを切り、繁忙期にはまた新しく募集していた。


俺にとっては、会社に手厚く守られていないというのは気楽でストレスのたまらない状態だった。この点で不満はなかった。誰にも頼らないという覚悟のようなものが醸成されていった。不思議な会社だ。殺人的な激務と薄給で、辞めるやつは三日と経たず辞めるが、たまたま水が合った者は何年も居着く。その両極端しかいなかった。俺は後者に入ってしまった。


何ヵ月か経つと、何も考えなくても体が勝手に動いて目の前の仕事を片付けているようになった。まるで自我の殻が破れたようだった。そうなると仕事がまったく苦にならなくなった。やることを体でやっていくのが楽しい。頭でしか世界を知らなかった学生時代の自分を思うと夢のようだった。


ポスター、チラシ、パンフレット、カタログ、書籍、雑誌、店頭POP、その他ありとあらゆる印刷物を作った。と言ってもゼロからデザインを起こすのではない。すでにできている先方データを適切に出力して(またはアナログ時代であれば先方指定に従って集版して)色校正または簡易校正を出校し、その戻しを受けて直して下版、という仕事がほとんどだった。デザインして創る工程にも、下版後の印刷にも関わらない。中間形態としての製版データ(または製版フィルム)だけを作って納品するのが仕事だ。これには説明が必要だろう。


印刷は製版フィルムを受けて刷るだけなので何かあったら先方データまたは製版の責任になる。製版にとっては印刷部数が100部だろうが一千万部だろうが儲けは変わらないが、部数がでかいとリスクだけ増大するハイリスク・ノーリターン構造になっている。リスクを負うことでギャラを貰っているようなものなのだ。真の売り物は製版フィルムではなく、印刷機を回すことのできる安心である。ミスがあっても印刷機はすぐには止まらない。部数によっては会社のひとつやふたつ吹っ飛ぶ損害はすぐに出てしまう。確かにこれでは印刷は責任を免除されていないと怖くて刷れない。製版が日々それを負っている。こういう仕事をしているとみんなプレッシャーに強くなって心臓に毛が生えてくる。加えてスピードと薄利多売がキモだから何も考えなくても体が勝手に動くようになる。精神の桎梏を脱し、肉体が物そのものになったかのように自由になる。レタッチマンなんか出勤・退勤のあいさつなど誰もせず(「レタッチは人間じゃない」とよく言われたがその通りだ)、勝手に来て勝手に仕事を始めていつの間にか帰っている。いちおう会社ではあるけれど、ここには上下関係もなければプライヴェートな親愛の情の入り込む余地もなく、みんな仲はよかったが徹底的にドライで相互不可侵だった。これら全てのことが俺には心地よかった。


いろいろな印刷物の入稿データと直しの赤字をさんざん見たおかげで、門前の小僧なんとやらと言うように、色のことも文字のことも造本のことも、まあまあ解るようになった。とりわけ興味を持ったのは造本だった。

アジロ綴じ、スミ一色、四六判、16ページ折×16台で256ページの本を作るなら全紙四枚の裏表に収まるから1,000部作成するなら用紙代はいくらで印刷代はいくら、というような計算はできるようになった。もともと読書は好きだったけど、本の中身以上に外見の美しさに惹かれるようなところがあり、それが嵩じて印刷物・書物フェティシストみたいになり、とくにきれいな組版の頁なんかを見ると陶然とした。だから仕事は単純作業の激務ながらも、吸収できる知識は全部吸収してやろうという思いも図にハマって、自分的にはかなり楽しくやっていたのだけれど、まさかこの会社を辞めてわずか3年後に自分が上製本の美しい書籍をプロデュースして出版することになるとは思わなかった。

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