お父さんが憲兵だったというテラさんの話

数年前にテラさんが亡くなっていたことを人づてに聞きました。

テラさんはその昔、僕が金融機関で働いていたときに配属された支店の運転手だった人で、当時既に50代も半ばを過ぎていました。

支店で最年少の僕と最年長のテラさんのペアは、支店の現金輸送を担当していました。各支店の金庫には一定金額の現金が収められていて、多すぎても少なすぎてもいけません。各営業エリアには拠点となる現金センターがあって、支店の現金が多い時にはそこに現金を預けに行くし、少ない時には受け取りに行きます。

その現金センターの行き帰りの車の中で、いろいろな話をしました。

テラさんは、いわゆる戦災孤児のような人で陸軍の憲兵であったというお父さんは中国で戦死し、お母さんを病気でなくしてからは、歳の離れた兄と一緒に路上生活(テラさん言うところの「ルンペン暮らし」)をしていた時期もあったそうです。

「夏はあっちいし、冬はさぶいし、んで腹減って減って仕方ないわけよ。ピーピー泣くとアニキは怒りだすしよ。でまた、親がいる同じ年頃のやつなんか見ると、うらやましくてうらやましくてなあ、自分が情けないわけよ。」

テラさんは10代前半から温泉場の丁稚として働き始め、中学を卒業してからは様々な仕事を転々とし、20代の初めごろにこの金融機関の住み込みの管理人として働き始めました。当時は、まだ用心のために各支店に管理人さんが住み込みで働くということが一般的であったようです。

「マツイ君、アンタのように親に大学まで出してもらった人間には、縁がない世界かもしれんけど、だいたい世の中の半分くらいの人間はろくでもないんだぞ。酒飲んで暴れるし、バクチはするし、ウソつくしなあ。」

テラさんは、いつも口癖のように言ってました。幼い時に両親を亡くし、10代の始めに温泉場の丁稚として人生の辛酸を舐め尽した彼の口から出る言葉にはそれなりの説得力が感じられました。

「でもなあ、オヤジは憲兵だったから、悪いことだけはしたらアカンと思っとったわけよ。つっても、オヤジのことは何にも覚えとらんけどなあ。」

現金輸送の帰りに、テラさんはいつも取引先のスーパーの駐車場にある自販機で缶コーヒーをおごってくれて、そこでいつも一緒に一服していました。

「あのな、マツイ君のように大学まで出とるとな、うちの客なんかバカみたいに見える時もあるかもしれんけど、そりゃ、汗水流してみんな必死で働いとる。」

三流大学をぼさっと出ただけの僕にはそうも思えませんでしたが、テラさんは続けます。

「アンタから見ればどんなつまらんと思える人間にも意地がある、みんな一生懸命なんだな。そこをようわかっとらんと、この仕事勤まらんぜえ。わかるかい?偉そうにばりっとスーツ着とっても俺たちは、その人たちに食わしてもらっとるわけだでなぁ、それを忘れたらあかんぜい。」

そこまで言われんでもわかっとりますわ、と思ってましたがまだ続きます。

「まあでも、俺たちは俺たちでしんどいこともあるけどな。でもな、山本五十六さんも言っとるけど、『できぬ我慢をするのが我慢』これが『男の修行』だぜえ、マツイ君。」

ここまで来ると単なる説教オヤジですが、僕はテラさんのことがなぜか嫌いではありませんでした。それは自らが苦労人であるがゆえに、苦労をしている人の気持ちに敏感で、人情味に溢れるというか、何というか人間臭さ漂う人となりに好感を持ったからなのかもしれません。

テラさんは僕が仕事でしんどい時があると、顔色ですぐに察知しました。でも、テラさんは何も言いません。黙って缶コーヒーをおごってくれて一緒に一服するだけです。慰めるでもなく、元気づけるでもなく、ただ、隣でひきつった笑みを浮かべているだけです。

そんなある日、テラさんはこんなことを言いました。

「うちのカーチャンも病気でそう長くねえだろうし、あと数年で退職したら、俺ぁ、あのボロ屋でぽつーんだなあ。そしたら、また一人ぼっちになっちゃうなあ、やだなあ。そうしたら時々でもいいから冷やかしに来てくれよなあ、マツイ君。」

僕がテラさんの家を訪ねることはありませんでした。

でも、テラさんの最後は娘たち孫たちに看取られた幸せなものだったようです。そして、今頃、テラさんはご両親のそばで僕を見守ってくれているでしょうか。

終戦の日、そしてお盆近くの今夜、こんなことを思い出しています。

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