フィリピンに出発前、会長が私の会社を訪ねてくださいました。久々に社長室で会う会長は当初の凛々しさは無く、どことなく小さくなったような印象を持ちました。

「ナベさん、何から何まで本当にすまない。おかげで会社を持ち直すことが出来そうだ。しかし捕まった菊池が心配だ。彼にも日本で待っている家族がいる。船も何もかもあきらめるので菊池をすぐに釈放してもらうように話をしてほしい・・・」
「これ、出張費用として使ってくれないか?」
帯が付いている札束を渡されました。
「出張費用はすべて会社から出ています。気にしないでください。」
申し出を断ると
「いや、社長からも許しをもらっている、フィリピンで何かと見えない経費が掛かるだろう、納めてくれ。」
社長も軽くあごでうなずきこちらを見ていました。
「分りました。それではありがたく頂戴致します。船を放棄すれば菊池さんも解放されるでしょう。たぶんそれが奴らの手口だと思います。」
「菊池さんを無事に連れて帰ります。」
会長は幾度となく私の手を握り「ありがとう、本当にありがとう」と涙ぐんでいました。私の祖父は両方とも早くに亡くなりました。
もちろん「おじいちゃん」と遊んだ記憶がありません。もし、おじいちゃんがいて一生懸命肩もみをしたらきっとこんな感じの優しい目で「ありがとう」って言ってくれるだろうな。と懐かしい温かさを感じていました。
私が運転免許センターと呼んだ混雑がひどい法廷は午前と変わりなく相変わらず「オレンジ色」の殺人罪の被疑者が私の周りをうろうろしています。
モーガンフリーマン似の裁判長が着席を言い渡すと「裁判長!」と、こちら側の弁護士が手を上げました。
「どうぞ?」
「船の所有者が論点のこの裁判ですが、先ほど菊池さん側より船の所有権を争う裁判は必要ないと提言されました」
「どういう事ですか?」
「はい、船はガマ社長側に無条件で引き渡します。」
「どの船に使用したかわからないダイナモもすべて放棄します。」
私はガマ社長をちらっと見ました。ガマ社長もこちらの視線を察してニコッと笑いながらうなづきました。
「原告人の意見は?」
「この船は私の船とわかってくれればそれでいいんです。訴えを退きます。」
白髪頭を抱えた裁判長は検事の顔を見てまるでお手上げといった表情で両手を上げました。
ガマ社長は平静を装おうと必死でした。しかし、してやったぞ顔は隠し通すことが出来ませんでした。あまりの嬉しさに笑みが止まりません。これがガマ社長の必勝パターンでした。
自分が命に代えてでも守ろうとした船をいともたやすく放棄してしまった事の悔しさが日本に帰れるうれしさを完全に超えていました。菊池さんの憮然とした態度を弁護士が一生懸命なだめてくれていました。
「さっ、菊池さん日本に帰りましょう」
頼んでいた菊池さんの荷物はNBIの職員が全てバックに詰め裁判所まで持ってきてくれていました。
このまま空港に向かおう。菊池さんと私が乗った車をパトカーが前後を挟む格好で三台で空港に向かいました。
「日本行の最終便には間に合いますね」とNBIの運転手が前後のパトカーと連絡を取りながら進みます。
「ノー!国際便には乗らない、ドメスティック(国内線)に回ってくれ。」
少し強い口調になりましたが、ガマ社長の仕掛けた罠はこれが最後だとは思っていませんでした。出国審査官に鼻薬をきかせてわれわれを出国禁止のブラックリストに登録することは容易だと思いました。
いくら船が自分の物になったからといってすべてが終わった訳ではありません。訴えを退けた人たちの多くが日本に帰国を果せていないことを見ると、ガマ社長は当然空港で罠を仕掛けるでしょう。
ブラックリストに登録されればフィリピンからの出国は不可能です。訴えを取りさげさせ、釈放されたはいいがマニラから逃げようと空港に向かった人たちはことごとくこの手を使われ空港で御用となるわけです。
そうして船はガマ社長のものになり、騙された人たちは未だ日本に帰れずマニラのアンダークラウンドの中でうごめきながら生きながらえているしか方法がありませんでした。
マニラからセブに回ってセブから日本に帰ります。
いくらガマ社長でもセブまでは州が違うので手出しは出来ないでしょう。でも十分用心しましょう。空港からは分れて行動しましょう。飛行機の席も別、セブ空港まで一切菊池さんとは話を交わしませんでした。
無事にセブに着き、セブ発成田行きの最終にはしばらく時間がありました。
とにかく出国だけは済ませておきたい。
フィリピンの出国ゲートは長蛇の列が出来ており、皆がのんびり出国手続きをしています。
まずは菊池さんが出国を済ませ両手を上げてこちらに合図をしました。
ここで私が逮捕されたら菊池さんは助けてくれるだろうか?など考えながら出国の列に並んでいると空港警察とは違う色の制服を着た数人組がうろうろとし始めました。明らかに誰かを探しています。
一人の男が私を見て指を刺しました。
嫌な予感がしました。ターゲットは私かもしれません。
身を低くし人込みを隠れるように出口まで向かうと空港警察官に止められました。
「この先はVIP専用レーンです。一般の方はこちらにお並び下さい」
先ほど私を指さした連中との距離はどんどん縮まり「ミスター!」と声をかけられました。
彼らの様子からするとアップグレードでビジネスクラスに乗せてもらえるような雰囲気ではありません。
とっさにポケットにあったフィリピンペソを手の平に乗せ空港警察官に「私はVIPでしょ?」と札束を握った手で握手をしました。
私の手の平からお札が無くなったとき、空港警察官が「どうぞこちらへ」とレッドカーペットに案内してくれました。
転がるようにゲートをくぐりました。ぎりぎりでも出国ゲートを抜ければもう治外法権です。誰が何と言おうが逮捕は出来ません。もしかしたらマニラを出国していない私達を不審に思いセブに連絡を取ったのかもしれません。
日本に向かう機内でやっと菊池さんと話すことが出来ました。
「久々の日本ですね」
「はい・・・」
「後は日本でゆっくりやりましょう」
「はい・・・」
エリート銀行マンのプライドをフィリピンでことごとく潰された菊池さん。挙句にすべてガマ社長にしてやられた感が漂い終始言葉すくなでした。
対照的に私は無事に菊池さんを奪還出来た満足感と機内サービスで飲んだワインのおかげで饒舌でした。
「くやしいな・・・」
「何がです?」
「船を獲られた事です・・・」
「別にあんなおんぼろ船なんてどうでもいいじゃないですか」
「おんぼろ船?あれにはわが社の7000万円がつぎ込まれています!」
「7000万円?船はそんなにしませんよ?ハハハ・・」
「何を笑ってるんです?」
「船は二束三文、売り物になりません。奴らにくれてやりましょう」
「一千万円もした幹縄を含め新品の漁具も入ったままです。」
「いえ、漁具までは放棄したとはいっていません。」
「はっ?」
「放棄したのは船だけです。」
「えっ?」
「裁判中にNBIの職員が船の中にあった新品の漁具を全部運び出しています」
「えっ?魚群探知機もGPSもですか?」
「当然です。会長はすべての漁具を自分で買い領収書や機械のナンバリングまですべて控えを持っています」
「ガマ社長が借金を払わないのですべて差し押さえです。裁判でお金を借りたって言ってたじゃないですか」
「しかも、あの船は指定した漁具が揃っていなければ出航できないように湾岸警察にも登録しておきました」
船は放棄したといっても、漁具は放棄したとは言っていません。100kMも引ける延縄の幹縄や最新式の魚群探知機はすでに買った時の値段と同額で中国のマグロ船が買いたいと申し出ていました。私がガマ社長のところへ行ったのは漁具の確認と海上警察への登録が主たる目的でした。
「しかも円安が進んでいますので漁具だけ売っぱらってもかなり回収できそうです」
会長から頂いた出張費用は半分がNBIの漁具の運び賃と保管料として、そして半分はこれからの裁判の手付金として弁護士へ渡されました。いくら高給取りだといわれている国際弁護士でもそれなりの金額を渡したのでそりゃ、彼らも気合いが入ります。
「ハハハ・・これは楽しい。完全に逆転勝利ですね」
「いえいえ、まだまだ始まったばかりです。彼らはこれから地獄を見ることになるでしょう」
商社マンはやられたら三倍にして返すと教わってきました!
腕利きの国際弁護士、NBIの署長、湾岸警察ともしかして怒らせてはいけない人たちを怒らせたのはガマ社長だったのかもしれません。
「成田空港には会長が迎えに来ています。帰りの車の中でゆっくりと作戦会議をしましょう。」
そして、ガマ社長と女形社長への取り立て作戦が始まりました。
しかし事を進めていくところで思わぬ大きな問題が発覚して、私は人生最大の経験をするところでした。
裁判所から直接船に向かったガマ社長、やはりガマ社長もあまりにも話がうまく行き過ぎたので少し心配になって船を見に来たのでしょう。漁具をすべて持って行かれ、ただの木造のおんぼろ船となった船を見て真っ赤な顔で怒りくるっていたそうです。
そして案の定マニラの空港に連絡をして私たちを出国させないように指示をしたそうです。
「あいつらを生かして帰すな!」
と、激昂していたようです。そのままマニラ空港から出国していたらパスポートにブラックリストの烙印を押されしばらく日本に帰れなかったかもしれません。
普段、人の目をキチンと見ない物静かな印象のガマ社長が怒り狂っているには訳がありました。
邪魔者の菊池さんの自由を阻害し会長から追加の金が届かない事を理由に船を売ってしまおうと考えていたそうです。
すでに売り先は見つけており、契約も交わしていたそうです。
ガマ社長のサインが入った「計算書」と書かれた7000万円の承諾書は公証書類として英訳分付で日本のフィリピン大使館に提出していました。
しかし、「計算書」だけではいくらフィリピンでも詐欺として立憲しにくく国際警察を動かすほどの効力としては弱いものでフィリピンの弁護士からも決定的な証拠が欲しいとくぎを刺されていました。
「証拠がないならガマ社長に証言させよう。きっと裁判で金の出所をつつけばきっと借りたと言ってくるでしょう。」
「その裁判記録が残り次第こちらが船を放棄しましょう。」
一か八かのかけでしたが、何もしないで船と引き換えで菊池さんを釈放しても何も残りません。
菊池さんには申し訳ありませんがひと芝居うたせていただきました。もし、ガマ社長が証言しなければ菊池さんの釈放も時間を要するところでした。
準備金をたんまりと弾んだためフィリピン人弁護士の動きは早かったです。あっという間にガマ社長の自宅、工場、奥さんが住んでいるマンションとすべて差し押さえにかかりました。
「いわれた通り、ガマ社長の奥さんが住んでいるマンションも分りました。そちらも差し押えました。フィリピンは借金を返さなければ金額により刑事告訴も出来ますがどうしましょうか?」
「今まで散々日本人を騙してこれだけの物を築き上げたんでしょう。彼らの分まで徹底的にやりましょう」
「分りました。地元の警察も協力してくれるでしょう。」
フィリピンの弁護士と電話で打ち合わせが終わり、事件の報告と共にNBIの署長に電話をしました。
「署長、以前、署長の弟さんがマニラ空港のそばに冷凍設備がある食品工場を探しているとおっしゃいましたよね。」
「ああ、今、世界的に日本食ブームなのでフィリピン産のアワビやらウニなどを冷凍にして販売したいと考えているんだがマニラも空港のそばだと土地の買収も高くてね。しかも冷凍設備やら真空パックやらで何かと設備投資が必要なので考え中だ」
「それならマニラに良い物件があります。日本人が経営している食品加工会社なんですが、そちらが資金ショートを起こしてこちらの借金が返済されずにいるんです。」
「弁護士がすべて書類を持っています。もし、良かったらこちらの持っているガマ社長の債権のすべてを弟さんに買ってもらえませんか?」
「わかった、その土地なら空港にも近いし備品も新品に近いと弁護士から聞いている。早速、弟に検討させよう]
「それと弁護士が言ってたよ」
「えっ?なんて?」
「日本の商社もえげつない」って・・・
あっという間に雲間に隠れた事でまるでニンジャのようだとNBIの署長からいわれました。
弟さん経営の冷凍食品はすべてそんな私にちなんでいたかは不明ですが、ニンジャのロゴマークが入っていました。
ヨーロッパ方面で大変人気になった「ニンジャ」シリーズの帳合いはすべて弊社が窓口となり、フィリピンの出張費用を大きくカバーする利益を上げる事が出来ました。
フィリピンではプライドをずたずたにされた菊池さんではありました。日本に帰ってきた途端、見事なまでに復活を果たしました。
「菊池さん、どうしたんです?こんな朝早くに」
「今、東京に着きました。これから女形社長を相手に告発するつもりです。」
「告発って刑事事件でですか?」
「はい、罪名は詐欺罪です。勿論民事でも損賠賠償を請求します。あれから日本に帰ってガマ社長と女形社長に騙された人たちを探しました。彼らも協力してくれます。二人でつるんで今までに被害金額は3億円近いそうです」」
「それは凄い、マニラでは債権を主張した署長の弟がガマ社長を追い出して工場を占拠したといっていました。占拠に署長まで乗り出したらしいですよ。ガマ社長がローンでお金を返すって言っても金利だけで年利30%かけられたんだそうです。支払いが遅れたら逮捕だって脅されているそうですよ」
「年利30%?そりゃガマ社長もお手上げだ、NBIの所長もえげつないですね。こちらも負けてはられません。私もとことん女形社長を追い詰めますよ。」
「金融マンも意外とえげつないんですよ」
ひと通り話を済ませ電話を切ろうとしたとき、菊池さんが思い出したようにガマ社長と女形社長の秘密を話してくれました。
「あ~っ!そうそう!ナベさんマニラでガマ社長に泊まっていけっていわれたでしょ」
「はい、ホテルがもったいないから泊まっていけっていわれました」
「危なかったですね~、ナベさん狙われてたんですよ、ガマ社長と女形社長に」
「狙われてたって、命をですか?」
「ハハハ・・いえ、ガマ社長と女形社長は長い間ビジネスパートナーである前に特別な関係だったそうです」
「特別な?」
「はい、おホモ達って事です」
「え~!!ガマ社長の自宅には女の影が無く男ばかりだったのでもしかしたら真面目な人なのかなと思っていました」
「いや、まったくその逆でガマ社長からしてみれば毎日若い男に囲まれてハーレム状態だったそうですよ」
「だって奥さんがいるっていってましたが」
「だからそれはカムフラージュで毎晩あのらせん階段を上がりピンクのネオンが付いたキングサイズのベットで女形社長とガマ社長とは愛を確かめあっていたんだそうです」
「ガマ社長はナベさんの事が相当お気に入りだったそうですよ、そっちの意味で・・」
「ある意味お互いいろんなところが無事でマニラから生還したんですね」
その後、菊池さんとは5年前に亡くなった会長のお通夜で会いましたが元気な様子でした。結局女形社長への詐欺罪は立証できず刑事告訴は断念を致しましたが、民事裁判では和解にこぎつたと聞きました。また、ガマ社長に騙され刑務所に入れられた方たちはすべて無事に釈放されたそうです。
事件の後、しばらくマニラに出張の機会はありませんでしたが、数年後久々にマニラに行く機会がありました。
懐かしさも手伝い暇を見つけてあの港に立ち寄りました。漁具の入っていた倉庫はすべて中国資本の商社が好条件で魚具を買ってくれたおかげでがらんとしていました。
結局オーナーのいなくなった船はあれから一度も港から出る事を許されず、メンテナンスも施されていないため浸水の痕があるのでしょう。バランスを崩し斜めに傾いたまま息苦しそうにマニラの波間に漂っていました。
終わり・・
このお話はフィクションです。登場する団体や人名など実在は致しませんのであしからず(笑)

