母よりも母だった貴女(ひと)
うらやましがって泣く弟が、うとましかった。弟の気持ちを優先する母が、嫌いだった。
その後、やえちゃんがうまく取りなしてくれたのか、気分屋の母の気が変わったのか、私は無事やえちゃんと七夕祭りを見に行くことができた。
やえちゃんは、私に浴衣を買ってくれた。そして、かわいらしく着せてくれた。
姿見に移る自分を見て、無邪気に喜ぶ私に、やえちゃんは目を細めた。
やえちゃんは、私の頬に、頬ずりした。白粉の、甘い匂いがした。
やえちゃんは白いワンピースを着て、それがやえちゃんのどこかはかなげな様子にぴったりと合っていた。
きれいなやえちゃんと一緒にいるのが、私はとても誇らしかった。
バスで山を下り、電車で○○市に行った。みな七夕祭りに行くのだろう、電車の中は、浴衣姿の客であふれていた。
電車から下りると、やえちゃんが、私の手をぎゅっと握った。
「迷子になると困るから。りいちゃんも、ぎゅっと握ってて」
「うん!!」
やえちゃんの手を、放すはずがない。
大通りに入る前から、人がごった返していた。
華奢なやえちゃんに、もう5歳になっていた私をおんぶするのは大変だろうと思ったけれど、確かに大人の背で、まわりが見えなかった。おんぶしてもらうことにした。
おんぶされて大通りに入ると、通りの両脇を埋めつくす短冊飾りが、さあっと目に入ってきた。
まるで、色が夜空に踊っているようだ。
そして、ぽつんと言った。
「好きな人にも、言ってもらいたいなあ」
「好きな人?」
それが、男の人のことを言っているのだと、幼い私にもわかった。
「やえちゃんの好きな人って、どんな人?」
「うん。夢をもってる人」
「へえ。その人、やえちゃんのこと、好きだよ」
「そうかな」
「うん、絶対だよ!! やえちゃんのこと、好きにならないなんて、そんなのありえないよ」
町でみかけるどんな女の人よりも、やえちゃんはきれいだった。年若い子だって、やえちゃんにはかなわない。
旅館への道を、二人で歩いた。
人込みから離れて、暗い空に、星がよく見えた。
天の川が空にさあっと広がって、七夕飾りとは違う美しさを、天に誇っていた。
星明りを映して、やえちゃんの白いワンピースが、水色に輝いて見えた。
本当に本当に、美しかった。
私は、触れてはいけないものに触れるように、白いワンピースの裾に触れた。
それ以上触れたら、消えてしまいそうだった。
この人を、好きにならない男の人が、いるわけがない。
心底、そう思った。
☆彡5、別れ
それから、一週間くらいたったろうか。
幼稚園に迎えに来た母が、血相を変えた顔で言った。
今、バスに向かってるって!!
意味がわからなかった。ぽかんとしていると、母がバッグをとって、私の背中を押した。
走って!!
ただならぬ顔と声に、私はまだ意味もよく把握しないまま、駅に向かって走り出した。
やえちゃんが、いなくなる?
もう会えなくなる?
うそだ。そんなの、うそだ。
やえちゃんは、一言もそんなこと、言ってない。
走りながら、はっとした。
天の川の下で、やえちゃんは、確かにそう言った。
あれは、別れの言葉だったのか。
駅にたどり着くと、閑散としたした駅のベンチに、2人いた。
やえちゃんは、白いワンピースを着て、きれいにお化粧していた。
私を見ると立ち上がって、走ってきて私の足もとにひざまずいた。
「血が出てる。転んだのね」
転んだのだろうか。覚えていない。
「やえちゃん、しゃがむと、白いワンピースが汚れちゃう」
「いいのよ。りいちゃんのが大事」
そう言って、水のみ場に私を連れて行って、傷を水で洗いだした。
「大事なら、なんでよそ行くの? なんで、私を置いてくの?
やえちゃんが行くなら、私も行く!!
私、なんでもやる!! なんでもやるよ!!」
やえちゃんは、ぼろぼろ泣いていた。
きれいにお化粧した顔が、台無しだった。
バスの運転手さんが、もうしわけなさそうに言った。
いつのまにか、弟を連れた母が来ていた。
やえちゃんが、立ち上がった。
あたしも行く!! やえちゃんと一緒に行く!!
やえちゃんのところに行こうとする私の腕を、母がぎゅっとにぎった。
私は、その腕をかんだ。
やえちゃんと離れるなんて、そんなことありえない。
絶対に絶対に、ありえない。
やえちゃんに抱きつこうとすると、
これまで聞いたことがないほど、厳しい声だった。
私は、びくりとして立ち止まった。
つながってるから!!
絶対だから!! りいちゃん、絶対だから!!
私はりいちゃんのこと、死んでも忘れないから!!
やえちゃんも、私を必要としているのだとわかった。
それでも、やえちゃんは行くのだ。
これ以上、困らせてはいけない。
「やえちゃん」
言葉にならなかった。
ただ涙が後から後からあふれ、私はその場に立ちつくしたまま、やえちゃんがバスに乗るのを見つめ、バスが発車するのを見ていた。
どこか、現実じゃないような気がした。
夢の中のことのような気がした。
それから後のことは、まったく覚えていない。
やえちゃんがホテルの一人息子と恋仲になり、ホテル側の両親に反対され、出て行ったのだと、母が近所の人と話していた。
私は、その息子はばかだと思った。
なぜ、やえちゃんを追いかけて来なかったのだろう。その息子にこそ、やえちゃんは、「一緒に行く」と言って欲しかったのだ。
それでも、やえちゃんが、私に言ってくれた言葉もまた、真実だったろう。
やえちゃんが、それからどうなったのか、誰も知らない。
もう、何十年も前の話だ。
たくさんの時を経ても、街に七夕飾りの色がひるがえり始めると、天の川があまりにきれいだと、私の胸は、甘く切なく、きゅっとするのである。
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