ゲンさんがサインした供述書と私が用意した白い紙を見比べてみればその文字画は明らかに違ったものでした。なにせ、私が用意した白い紙に書いたのはゲンさんの本名では無く、私の名前だったからです。

両方の紙を持ち上げ警察官に高らかに「ねつ造」宣言をした私、奇を狙った作戦は相手に効果があるな先制パンチを放ったことには間違いありませんでした。次第に警察官の顔が赤くなり明らかに動揺しているようでした。
しかしながら、サインしたのは事実、交渉のイニシアチブはまだまだ相手有利な状況でした。
「嘘をつくな!こっちはみんなが見ている前でサインしたんだぞ!」
「嘘ではありません。こちらが正しいサインだと云っています。なんならパスポートでもなんでも確認すればいいでしょう?」
「ようし、分った、こちらのサインが本物か偽物か明日の朝裁判所にこの書類を持ち込んでやる」
「どうぞ、ご自由に。その代り、そちらも不当に日本人を逮捕拘留した罪で訴えを起こすつもりです。お互いの意見がすれ違うなら司法の場で戦いましょう。私もマニラに駐在していますので、いくら時間がかかっても構いません。とことんやりましょう。」
できれば今夜中の解決を望んでいましたが、やはり先方はサインをとった供述書を盾に交渉を有利な方向へと進めてくれません。今やる事、出来ることを組み立てながら交渉を再開します。
「まずは、暴力を受けたという子供たちと話は出来ますか?」
「あぁ、あそこにいる子らだろ、保護者はカンカンだ、相手を死刑にしてほしいと云っている」
年は5~6歳くらいでしょう、裸足でとても痩せている子供たちが3人立っていました。その親としている大人はいかに子供たちがこの日本人にひどい事されたと涙ながらに訴えています。子供をこんな時間まで外に置いていく方が親としてどうなんだろうとは思いましたが、そこは交渉事とは無関係です。相手の自尊心を傷つけないように静かに事を進めなくてはなりません。
「お父さん、状況は分りました、どうでしょう?この子供たちの将来の為に投資をさせてくれませんか?」
「投資?というと?」
「はい、実はゲン氏は独身でまだ子供がいません。日本の親は子供たちと「スモウ」という遊びをします。海外の人から見れば子供たちを虐待しているように見えますが、それは違います。子供たちも喜んでいます。ゲン氏はフィリピンの小さな子供たちにスモウを教えてあげようと思ったのでしょう。
「ゲン氏はこの子たちが可愛くてしょうがないと云っています。」
「どうでしょう?この子たちの成長を少し手伝わせてもらえませんか?」
少し無理がありましたが、まずは一番崩しやすい相手との交渉を最優先にし、突破口が開けるように落としどころを探ります。
そして、親の肩を抱きながら部屋の隅へ移動し小声でささやきました。
「ここに日本円で30万円入っています。これでゲン氏は子供たちにスモウを教えていたと解釈して頂けませんか?」
私が胸のポケットから出した白い封筒には彼らの3年分の稼ぎに相当するお金が入っています。不利な交渉を覆すには金額を擦り合わせるのでは無く、相手の想像をはるかに超える額を提示することでイニシアチブをこちらへと引き寄せる効果がありました。
親はちらっと、警察官と目を合わせましたが手はすでに私の差し出した封筒へと伸びていました。示談が成立した瞬間でした。
「さっ、ゲンさん、問題は解決致しました。ホテルに帰りましょう」
ゲンさんの肩を叩き、席を立つように促しかけた時、まだ、納得がいかないと警察官に呼び止められました。
「もう問題は済んだはずです。示談成立、というより最初から何も無かったで両親は納めてくれました。」
「いや、それとこれとは話は別だ、この日本人は供述書にサインをしているんだ、朝にこの供述書を裁判所に持ち込めば日本人の罪は確定だ!一生刑務所暮らしにしてやる!」
「だったら司法の場でサインについて争えば良い事でしょう。そもそも親とはすでに和解をしているので供述書事体失効しているはず」
「いや、この日本人はまたいつか悪さをするかわからない。釈放するには保釈金が必要だ。」
警察官もいともたやすく30万円のお金を出したのでまだまだ絞り込めると思ったのでしょう、急に保釈金を請求してきました。
「保釈金?」
「そうだ、日本円で100万円必要だ、その保釈金と引き換えに日本人の釈放を許そう」
「100万円なんて無茶な?そもそも事件は無かったはずです」
「ならその日本人を拘留したまま裁判だ!」
「わかりました。それでは私もあなたたちを相手に訴えを起こします。それでもいいんですね」
「わかった、それならどちらが正しいか裁判で決着を付けよう」
すでに朝の気配が感じられるところ、完全に交渉はこう着状態になりました。やはり、供述書にサインをしてしまったゲンさんを本日中に救い出すことは不可能だとあきらめかけていました。
明日、弁護士を連れて出直そう・・・裁判になれば長い間時間がかかるのは必至です。
今日中の解決をあきらめかけた時、さっきまで部屋の隅で腕組みをしていたホテルのガードマンがおもむろに口を開きました。
「もういい加減にしたらどうだ?」
運転手を見た警察官は一応に驚いた表情をしていました。そこにはNBI(国家警察)のIDを見せながら立っているエルソンの姿がありました。
「NBI?(国家警察)」
「ホテルの近くで旅行者に詐欺を繰り返している悪徳警官がいるとコンプレインが入ってね、NBIが内部調査に踏み出したところだ」
「今回は示談が済んでいるのでこれで終わりだ。これ以上話をこじらせるならNBIが徹底的に悪だくみを追及するけどどうする?」
まさか、NBI(国家警察)のおとり捜査に協力するとは思いませんでした。以前よりホテルの周りでこのような事件が多発しており、ホテルとしてもNBIと協力をしながら対処策を考えていたそうです。
同じような事件があったときのためにホテルの専属ドライバーと称し、NBI署員が事件に備えてホテルで待機していたそうです。
「わかりました。今回は示談も済んでいる事ですので、とりあえず日本人を釈放します。」
「釈放だけでは済まない。この事件はそもそも何も無かったで処理すること」
「わかりました。一切コンプレインは出しません・・・」
ゲンさんを連れて警察署を出るころにはすっかり夜が明けていました。
「おとり捜査にご協力を頂きましてありがとうございます」
「いえ、でも、無事にゲンさんを連れて帰れてよかったです」
「それにしてもサインした供述書がねつ造なんて宣言して、私も驚きました」
「一か八かの大勝負です。向こうも負い目があれば交渉に乗ってくれると思っていました」
「しかし30万円の示談金は高すぎませんでしたか?分け前であの両親と警察官とでもめなきゃいいですね」
「えっ?30万円と言いましたか?私はそれほど大きなお金は持ち合わせていません。あれ、一万円札が3枚入っていただけですけど?」
「はっ?それって外国人がフィリピンの両替所でよく合う詐欺じゃないですか?」
「はい、私も一度だけよく確かめずにお金を受け取って痛い目に合っていますから・・・」
「もらったお金はよく確かめないと・・ですね」
一日に色々な事があり過ぎたゲンさんは一言もしゃべらず、ぼーっと日が昇るマニラの風景を目で追っていました。また、この事件をきっかけにエルソンとは親交を深め、後に私が唯一フィリピン人の友人と呼べる中になりました。
「ゲンさん、仮眠する時間はありませんね。シャワーを浴びて朝食に行きましょう。今夜の事は何も無かった。二人だけの秘密にしましょう」
一日目のきついお灸に懲りたかどうか?その後の視察旅行はつつがなく無事終了致しました。現場長の粋な計らいで帰国後から弊社のマグロの取扱高は一気に増えました。
それから数か月後、マニラの空港ターミナルで荷物が出てくるの待っていたときどこかで見た事のあるフェルトのナップサックを背負っている男性を見かけました。
「あれ?ゲンさんじゃないですか?どうしたんですか?旅行ですか?」
「いや~っ、俺もやっと春が来てよ~。今度結婚することになったんだ」
「結婚って?相手はフィリピン人ですか?」
「うん、まだ、25歳なんだけども、俺が行くと家族が大勢で俺の事を歓迎してくれるんよ」
「それはゲンさんがお金持ちだと思われてるんでしょ?もしかしてお母さんが病気でお金が要るとか言われていませんか?」
「あれ?なんで分ってんの?どうやら彼女のお母さんが難病らしくてさ、入院に沢山お金が要るみたい、彼女のお母さんを思う涙は本物だよ」
勿論、真剣に日本人と付き合っている素晴らしいフィリピン女性もいらっしゃることは確かですが、子供の頃から親にこんこんと「将来日本人と結婚してたくさんのお金を家に入れて私たちに楽をさせておくれ」と、洗脳されているフィリピン女性も多い事も事実です。
まぁ、何に付けても懲りない人だな、と笑いながらマニラ空港でゲンさんと分かれました。空港にはゲンさんの婚約者とその家族親戚が大勢迎えに来ていました。彼らにはゲンさんのフェルトのナップサックから沢山のねぎが出ているように見えるのでしょうね。
終わり。

