歴史は指紋を持った人間の歩みの積み重ねという話
ちょうど今朝のような肌寒い朝、自転車で通りがかった田んぼの中で数人の人が動いていた。農作業ではなくて、穴を掘ってそこで何かしらの作業をしている。それは遺跡の発掘現場だった。
僕が生まれたところは、その昔、国分寺と国分尼寺が置かれていたところで、このような発掘現場がある日田園風景の中に突如として現われることがあった。
自転車をあぜ道に止めて、幅数メートル、長さ数十メートル、深さ1メートルほど掘られた穴(トレンチ)を覗き込むと、そこには柱の穴の跡やら、ほぼ完全な形の土器なんかが白い塗料でマーキングされて保存されていた。
トレンチに沿って掘り返された土をずっと眺めていくと、土の中には土器のかけらが混じっている。恐る恐る手に取ると、穴の中の作業員のおじさんが「穴の中はダメだけど、回りの土の中にあるかけらはもって帰っていいぞ。」と声をかけてくれた。
それで、必死になって周りの土の中から土器片を拾って集めた。この現場は3000年位前の集落跡だという。
ここそこに散在している赤茶色のどちらかといえば素焼きに近い土器片は、薄くて灰色がかったいわゆる弥生式土器よりも、分厚くてごつごつしていた。
その中の土器片の一つを手にとった。おそらくは何かの容器のふちにあたる部分だろう。そのふちの内側を触れてみると、無数のくぼみが感じられた。それらは明らかに指の跡で、土をこねてふちの形を成型した跡であるように思われた。くぼみの中には、大きいものもあり、小さいものもある。
その小さいもののいくつかのくぼみは、当時小学生だった自分の人差し指にぴったりすいつくように収まる大きさだった。また、大きなくぼみの内側をよくみると、指紋らしき線までがくっきりと残っている。
3000年前、確かにここで誰かが赤土をこねて土器を作っていた。そして指紋までが残されている。この事実にめまいを感じるほどの恍惚感を覚えた。
その土器片を家に持ち帰った後も、仏間にひっくり返って飽きもせずに眺めた。そして、ちょっぴり口に含んでみたりもした。それは土臭く、表面についた砂利が口の中で溶けてじゃりじゃりした。僕の妄想の中で、大小の指のあとは父親の指の跡、息子の指の跡になり、いっしょに土器を作る親子の映像が脳裏に投影されていった。自分はその息子の生まれ変わりなんじゃないかと思ったりもした。
そのあと、その土器片といっしょにお風呂に入ったら、素焼きのその土器片は表面が溶けてしまって、指紋もすっかり消えてしまった。
とにかく、歴史とは膨大な人が生きた事実の集積であり、それらの人々には喜びも悲しみも、そして指紋までがあった。当たり前のことなのだけれど、僕にとって歴史とは、指紋があるひとりひとりの人間の歩みである。
少し肌寒くなってきた朝、自分の脳髄にどうしようもないほどの歴史への執着が刻み込まれた日のことを思い出した。
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