「お母さんが、フルタイムで働くのは、無理ですよ」と部長は言った
「お母さんが、フルタイムで働くのは、無理ですよ」
と部長は言った。
それが決して、否定的な意味でないことは私の中で自明だった。
部長は
「お母さんは、ぼーっとしているくらいが一番ですよ。」
とも言った。
きっちり、きっちりとしたことを求められる社風の会社だったにも関わらず。
「疲れているように見えるけど、大丈夫ですか。」
とも言った。
その時私は、自分で疲れているということもわからないくらいになっていたが、
気が付けば、体重が過去最低に近づいていた。
そう、「お母さんがフルタイムで働くのは無理」というのは、
子育ても、社会人も、すべて始めたてで、アップアップだった私に、
「無理に完璧にしようと思わなくていいんですよ」という、
部長からの最大の思いやりだった。
(むろん、仕事を辞めろということではない。)
内定をいただいた新卒の時から、子供がいた私を、とても気にかけて、
応援してくれていたうちの1人が、その部長だった。
ある時は、
「あなたは、帰ってからの時間、お子さんがいるので大変だと思います。
会社から毎月出される読書課題をこなすことは可能ですか?」
と気に掛けるメールを送ってくれた。
でも、頑張りたいと思っていた私は、
できる限り読めるように時間確保に努める旨とともに、
「私は放っておけば、自分のために努力をむさぼる人間です。
子供を授かったことで、自分を抑えてでも、誰かのために奉仕することを
学ばされているのだと思います。」
というようなことを返信した気がする。
よくもまあ涼しいことを返信したものである。
家に帰ってからは、子供とぐだぐだだったし、結構泣き言を言っていたくせに。
娘が寝て、家事を終えたら夜12時ごろだったので、
あと1時間だけ・・・
毎日1時間ずつだけ勉強した。
社員旅行のハワイの船上で、部長と斜め向かいに座っていた私は、
ディナーに出されたコインチョコを、「はい」と言って手渡された。
部長は、チョコを召し上がらないんだな・・・くらいに思った。
心臓の悪かった部長が、異国の地で、そのまま旅立ったことを聞かされたのは翌日だった。
「生まれ変わっても、今の奥さんと結婚したい。」
と、船上で部長が語っていたことを、社長の奥様に伝えたところ、
その言葉は、葬儀の時に社長の口を通して、部長の奥様の耳に入ることとなる。
奥様が両手で顔を覆うのが目に入った。
この伝言が、コインチョコとともに、私に託されたことの1つだったようだ。
部長の小学生のお子さんが、壇上でお父さんへのメッセージを読んでいた。
その信じられないくらいしっかりとした言葉に、部長が父としても素晴らしい人だったことを察した。
そのコインチョコ、形見として、とっておけばよかったものを、
何を思ったか食べてしまった。
悪くなる前に食べなきゃいけない気がしたし、
その時、おなかが減っていたというのもあるけど、
受け取ったものだから、しっかり頂かなきゃいけない気がしたのだ。
子育てしながらフルタイム という私のやせ我慢は、多少形を変えながら今でも続いている。
少し違うのは、
「子育てって大変だよねー。昨日は子供と一緒に夜9時に寝ちゃったよー!」
と、気兼ねなく言える人が増えたこと。
それからフリーランスになって時間に融通が多少効くこと。
働いてる時間自体はなぜか増えているけど、気持ち的には、ずいぶん楽になった気がする。
それでも、根詰めて何をしてるかわからなくなると、
「お母さんが、フルタイムで働くのは、無理ですよ」
の言葉を思い出す。
部長がくれた言葉たちは、コインチョコとともに吸収され、血肉になり、
8年たった今でも私の中に息づいている。
「私にいいところを見せようとしなくていいですから、伸び伸びやってください。」
「私と話して、泣かない部下はいないんですよ。」
「それは、さぞお辛かったことでしょう。」
自分が若いころに、子育てによって逃してしまった可能性のカケラを、
床から必死にかき集めようとする儀式を、その言葉がやめさせてくれる。
いつか、部長のように、誰かをやさしく、時に厳しく激励して、
守っていけるような人になりたいと思うが、
それは永遠に追いつけない背中にも思える。
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