「俺は早稲田、お前は獨協」そこから始まるNY投資銀行マンへの道
「君は、何を大学で学んで来たのかね?」
だから、勉強するしかない・・・。
私は、それから簿記を勉強しました。英語と簿記の知識で、アメリカンスクールに職を得ることが出来ました。日本で一番アメリカ人が多く働いている職場に行きたかったからです。その時は、そこで満足しようと思っていたのです。
しかしながら、キャンパスでアメリカの教育を見た時に、考えがはっきりしました。
私の目の前で、小学生が、パソコンでゲームをしていました。私は、近くにいた先生に、尋ねました。
「彼らは、何をしているのですか?」
「あれはね、C言語を使って、ゲームを作って遊んでいるんだよ。」
「ええっ!ゲームを作っているんですか?」
「そうだよ、小学4年生は、みなC言語を使えるんだよ。」
「あのパソコンは、だれのですか?」
「生徒ひとりひとりに、一台が与えられているんだよ。」
「ええっ!一台、一台ですか?」
「そうだよ、これがアメリカの教育だよ。」
当時は、日本の学校にパソコンなんてない時代でした。それなのに、アメリカンスクールには、すでに生徒ひとりひとりにパソコンが与えられている・・・。これが、アメリカの教育なんだ!なんてレベルが高いんだ!だから、太平洋戦争で、日本が負けたのも当然だ・・・!」
その時、強くそう思いました。
「絶対にアメリカの教育を学ばなければならない!今がチャンスだ!」
「よし、お金を貯めるぞ!」
それから、500万円を貯めました。そうして、アメリカの大学院に合格しました。獨協大学を卒業して、すでに10年が経ってしました。33歳の春になりました。まったく日の当たらない6畳間のアパートに住み、いつか来る留学決定の日を夢見て、ここまで来ました。まったく、贅沢なんかすることに関心がなく、一途に英語と貯金の日々でした。
「もういいじゃないか、お前の留学する気持ちは分かる。でもな、実現なんか出来なくてもいいじゃないか?おまえの熱意は、俺にはわかる。もう諦めないか?諦めたって、おれはお前を色眼鏡では見ないから。」
そう言ってくれた友人も、合格通知が届いた知らせに、
「俺は、お前の友達として、誇りに思う。とてもうれしい!おめでとう!」
そう言ってくれました。
私は、33歳の春に、アメリカの大学院のキャンパスに立っていました。それから、猛勉強の連続でした。毎日16時間の勉強をしました。おかげで、お尻が床ずれを起こして、薄い皮がむけてヒリヒリしました。日本で感じたことのない厳しさでした。
その結果、私はNYの投資銀行に迎えられました。6人の役員の前で、全員から合格点を頂きました。最終面接のあとで、ガールフレンドとNYを歩きました。そして、ある場所に来た時に、思わず足が止まったのです。
そこは、あの上司が異動で赴任した「NYの駐在員事務所」でした。入口の窓ガラスには、旅行会社のように、広告のシールで一杯でした。
「彼は、ここにいるのか・・・?」
「結局、部長になれなかったんだな。」
私は、ずっと、その事務所の入口を見ていました。入ろうかなと考えていました。そうしたら、ガールフレンドが言いました。
「ねえ、どうしたの?入りたいの?」
「いいや、いいんだよ、今日で終わったんだよ。」
「何が?」
「ボクの闘いがさ・・・」
それから、そのビルを見上げました。
「これで、終わりなんだ。俺は、勝った・・・自分に。自分の言葉を守って、ここまで来た・・・
それでいいんだな。」
そうして、私はガールフレンドと、そのビルをあとにしました。
今考えると、あの上司がいたから、ここまで頑張れたのだと思います。当時偏差値40台だった獨協大学です。世間から厳しく言われるのは、当たり前でしょう。それでも、その卒業生であろうと、将来に「選択肢がある」ことを、私は経験したのです。
人生は、何度でもやり直せる。
私の大好きな言葉です。
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