あの頃、ビアハウス:サン・トワ・マミー

前話: あの頃、ビアハウス

人は、それが苦しいことであれ楽しいことであれ、それぞれの人生に「とっておき」の話をもっているものである。わたしがここで取り上げていく話は自分のをも含めて、「ねね、あのね。」と、人に披露してみたいと思ってきた1975年からのアサヒ・ビアハウス梅田での思い出である。
  
大阪梅田新道(通称梅新)の交差点の一角に、同和火災ビルと言う古い建物があった。今ではそのビルは改築され、同和火災フェニックスタワーと名を変えて、日本の都会のどこにでもあるような、見るからにモダンな姿に変貌してしまったが、かつては重厚さと威厳を持ち備えた大理石仕込みの古いビルであった。

わたしがそこに足を踏み入れたのはホンの偶然からである。当時のわたしの勤務先は、北新地の真ん中にあり、飲みのが好きだった上司や同僚たちと会社が退けてから毎晩のように周辺の盛り場へ繰り出しては2次会3次会へとなだれ込んでいた。アサヒ・ビアハウスは、そんなある夏の日に、わたしたちが何気なしに入り込んだ2次会会場だったのである。

御堂筋に面したビルの横の小さな入り口をくぐり階段を地下へと下りていく。そして、大きな少し重いガラスドアの向こう側に「梅新アサヒ・ビア・ハウス」の世界があった。店内は少し薄暗く、扉を開けて一歩足を踏み入れたとたん、わたしたちはホール内に充満した熱気と喧騒をドッと浴びた。オフィス仲間のわたしたち6、7人はホールの端にある分厚く古い木のテーブルに陣取り、生ビールを飲みながらいつもの如く判で押したように、オフィスの話で盛り上がっていた。

すると、ホール中央の壁よりにある小さなステージに二人の男女が上がったと思うや、威勢のいい演奏が始まった。アコーディオンとリズムボックス、それにドイツ風の民族衣装をつけてハットをかぶった歌姫が一人、ビア・ソングを歌い始めたのだ。
  
驚いたのは、歌姫が何曲か歌い終わるや、店内の客席から歌姫に名を呼ばれてが立ち上がり、ビア・ジョッキ片手にステージに上がって歌い出すではないか!歌姫はといえば、3曲ほど歌っただけで、後半のステージは歌う客たちの独壇場であった。それは今で言う「カラオケ」の走りである。今のようにカラオケなどなかった時代だ、「生オケ」とでも言うべきか。

「おもしろい、これは愉快だ!」と、飲むほどに俄然気が大きくなり陽気に騒ぐ我がオフィスの飲み仲間達。
「おい、yukoちゃん、おまえも歌え!」との彼らの言に、お酒が入ると調子に乗りがちなわたしは仲間のリクエストに応えんがため、かくして初めて人前でマイクをにぎったのである。

オフィス仲間の一人がホールの誰かに告げたらしく、ステージの側に来いと言う。
「歌謡曲、演歌はだめです!」と歌姫嬢が言う。
「あの・・・この歌、できます?」

  http://blog-imgs-1-origin.fc2.com/image/e/343.gifふたりの恋は おわったのね
   ゆるしてさえも くれないあなた
   さよならと 顔も見ないで 去っていった男の心
   楽しい夢のような あの頃を思い出せば
   サントワマミー 悲しくて 目の前が暗くなる
   サントワマミー            

サルバトール・アダモの「サン・トワ・マミー」である。

都会での女一人暮らしだったわたしだ。月々の給料でカツカツの生活だったが、わたしにとって、歌は聴くことも声をだして歌うことも大きな心の慰みだった。人前で歌うことはなかったが、テレビを持たなかった当時、小さな自分のアパートにいる時はバカの一つ覚えのアルペジオでギターを伴奏に、時のたつのも忘れて歌い続けていたものだ。

ステージでなんとか歌い終わった後、客席から大きな拍手をもらい、歌のお礼にとビアハウスからもらったジョッキに一杯の生ビールを手に仲間のテーブルに戻った。わたしは、恐らく少し上気した顔だったろう。なにしろ生まれて初めて、小さいとは言え、いわゆるステージなる場に立ち、聴く人を前に歌ったのであるから。
   
「サン・トワ・マミー」はアサヒビアハウス梅田のアコーディオニスト、ヨシさんの伴奏でわたしが歌った初めての歌だった。
               


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