終(つい)のすみかを見つけたり(2)
入居して一番驚いたのは、夫が自分の身だしなみに気を遣うようになったことだ。今までおよそそんなことに 気を遣うような人ではなかった。
まあ、よくって朝起きたら、水でビシャビシャっと顔を濡らす程度。
入れ歯を洗って嵌めるくらい。ひげを剃ることも、剃らないことも。ブラシで髪をなでつけるくらいはしてたかな。
まして、着る物には全く無頓着。畑仕事用のドロンコズボンを、玄関に脱ぎ捨ててあるのはまだいい方で、そのまま、家に入ってくるのには参った。何度、悲鳴を上げたことか。
脱ぎ捨てた服が、あちこちにばらまいてあって、次の日には、前日何を着ていたかは記憶にないのか、そんなことはどうでもいいのか、手当たり次第、どれかを着てしまう。
こんな具合だから、よっぽど気をつけていないと、汚れていても、何日も平気で着続ける。ところがである。
ここへ入居してから、四時過ぎにもう目が覚める。前にも書いたように、朝日のシャワーの洗礼で、寝ているわけにはいかない。
顔を石けんで丁寧に洗い、ひげを剃り髪をとかし、入れ歯を入れる。洗面所の気配を、まだベッドで夢うつつで感じている私。
部屋に戻ると、やおらタンスの前に立って、引き出しに顔をつっこむようにして、今日着るものを選び出す。きちんと身だしなみを整えると、三階からエレベーターで下に降り、玄関脇の郵便受けから新聞を取り出す。
新聞はもう三時には届いている。入り口の鍵は開いてなくても、屋外から個人個人のポストに入れられるようになっている。
そんな早い時間に誰に会うわけでもないのに、どうしてかやたらにお洒落になった。
周りに大勢女性がいるからだろうね……と、息子たちと電話で笑い合った。
ところが、これは笑い話ですむことではなくなった。
毎日、午後一時に「血圧と体温」を測ってもらうことに決まっているのだが、なんと彼の血圧が急に百八十に上がったのだ。最初は環境が変わったのだから、誰でも上がりますよと言われ、あまり気にしなかったのだが、何日も続くと職員も気にして、先生に診察して貰いましょう、と言うことになった。
隔週に訪問診療に来てくださる嘱託医に診ていただき、相談する。
入居時に、今までのかかりつけの病院で健康診断書を作ってもらって提出してあるので、病歴などはすべて把握済み。
「動脈瘤を持ってましたね。それも動脈乖離ですから、こんなに血圧高くては、がばっと行ったらお終いってことですよ。血圧を下げましょう。いっぺんにというわけにはいかないので、まだるっこいけど、少しずつやりましょう」
それから一ヶ月あまり、腫れ物に触るように彼をそろりそろりと扱って、私の血圧まで上がってしまった。もともと細かいことを気にする人ではあったが、これほど神経質だったとは知らなかった。
二ヶ月経とうという日、私は、エレベーターの中で、誰に言うともなくつぶやいた。
「明日で二ヶ月になるのよ」
「えっ、まだ二ヶ月? もっとずっと前からいらっしゃると思っていたわ」
と、いう声が一斉に返ってきた。
「私、そんなに大きい顔してたってことかしら」
恐縮して私は、エレベーターの中で小さくなった。
あとで、その中の一人が、丁寧に説明してくれた。
大きい顔をしてたということではなくて、新人のようにおどおどしてないし、前からずっといる人のように、リラックスしている、ということなのだと。エレベーターの中での私の動揺をちゃんと察して、フォローしてくれたのだった。
たった二ヶ月の間に、新しい入居者をしっかり観察している人もいるのだと、身の引き締まる思いだった。
私の方は、緊張することもなくいたってのんびりと日を過ごした。夫の血圧を心配して一時上がった私の血圧も、すぐ戻った。
ここへ入って、私も同様気を遣うようになったのは、着る物についてだ。
夫ほどではないが、元々お洒落ではない。 毎年開かれるクラス会へも、何を着ていったか全然覚えがない。写真を見て、やっと思い出す。季節がいつも秋だから、だいたい同じ服を着ていることが多い。友人の中には、誰が何を着ていたかしっかり言える人がいるし、クラス会の数日前に新しくデパートへ買いに行く人さえいる。私には到底真似できない。
引っ越しの荷物をまとめるとき、
「どうせどこへも出かけないのだから、新しい物をわざわざ揃えることはない、着慣れた古い物を持って行けばいいだろう」
と、思っていたがとんでもない。
皆さん、とてもお洒落なのだ。顔を合わせるのは三度の食事のときだけなのだが、お化粧こそしていないが、こざっぱりしたブラウスやカットソー、レースのカーデイガン、ベスト、ジャケットと、毎回お色直しをしてくる。
男性も同様。「男やもめにウジがわく」なんてどこの世界のことかと頭をひねりたくなるほど。洒落た柄の長袖Tシャツ、ポロシャツ、しわ一つ見あたらないカッターなどなど、無地もあれば縞もあり、ズボンも何枚も持っているらしい。
夫なんか、外出用に一本、普段用に二本、じゃまだからと、それしか持ってきていない。
大風呂もあるから、自宅にいたときのように、着古して捨てるまで使えばいい下着を、着て行くわけにもいかない。
なんだかんだと、二人とも結構身だしなみに気を遣うようになってしまった。
もう一つ、「他人の目」のおかげだと思われることがある。それは私の「姿勢」。 食事の度に階下へ降りるエレベーター。車いすが二、三台同時に入る大きなエレベーターの中の奥に鏡がある。
また、個室の洗面所には、洗面台の上に一メートル四方の鏡、用を足すときもばっちり我が身の全身が写る(これはちょっと困るけど)。お風呂にも勿論。おかげで我が身をチェックする機会が多い。
「背中が丸い、背中が丸い。もっと姿勢良く」
と、いつも息子たちに叱られていた私は、否応なしに自分の悪い姿勢を見せつけられてしまう。髪がモシャモシャなのも、顔色が悪いのも、着ている物がちぐはぐなのも、姿勢の悪いのも勿論、一目瞭然。
誰に言われたわけでもないけど、自然に背筋を伸ばしてしゃんとしてしまう。
これが習慣になって、なんだか前より背中が丸くなくなったような気がする。
今度、息子が来たら褒めてくれるかな。
ここの住民になって十ヶ月が過ぎた。
朝日がまぶしくなってきた。夜明けのコーヒーの季節再来が近づいて来たようだ。
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