あの頃、ビアハウス:La Piggia 雨(1)

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誰でも、「世の中は広いようで狭いんだなぁ」と感じずにいられないような出来事に遭遇したことがあると思う。

今回はこの題である「雨」にまつわる、わたしの「世の中せまい」版です。

6時半から始まる最初のステージを終え、そこで楽譜を片付けていた時だ。おそらく30代前半であろう、小柄な、丸メガネをかけてスーツをバシッと着こなした男性が、一輪の赤いバラの花を手に、ステージの壇を下りようと振り向いたわたしのまん前に立っていた。

「誠に恐れ入ります。わがボスが是非ともあなた様にわれらの席までお運びいただいきたいと申しております。ご迷惑なこととは思いますがいらしていただけないでしょうか。」と、そのバラの花を差し出すではないか。

当時、アサヒ・ビア・ハウスでは、歌姫やアコーディオニストが客と同席してともに楽しむ事を禁じてはいなかった。常連たちは客というよりむしろ友人とも言えた。
 
わが先輩の歌姫宝木嬢は、ゆえに、ステージが終わって後の休憩時間30分は、常連仲間とワイワイガヤガヤ、飲みながら食べながらのおしゃべりであった。客との話しに夢中になって、次のステージ時間が来、アコーディオンのヨシさんが舞台にあがり、音楽で呼ぶまで居座ってしまうことしばしばなのだった。

わたしは、と言えば歌い始めた頃は、たいがい自分の安物の白いギターを抱えては、調理場裏の間にある、せまいホールで歌を歌って次の出番までの時間を過ごしていたのである。

さて、男性の態度があまりにも丁重ゆえ、つい断りきれずに向かったその席は6、7人の男性グループの席だ。
「ご紹介いたします。こちらがわれらのボスです。」と紹介されたのは、薄暗いビア・ハウス内だというのにお構いなくサングラスをかけたままの、40代の男性で、彼もまた、スーツを着こなしていらっしゃる。
  
わたしがいぶかったのは、今でこそ珍しくもないスタイルだが、当時にしては、そして、その年齢にしては珍しい肩までたらした彼らのボスの長髪だった。

「なにか怪しい感じだぞ・・・」とは思ったものの、今更、退くわけには行かず席に座ってしまったのが出会いの始まりだった。

後に、われらが「ノンちゃん」と呼ぶことになる彼は、コピーライターなのであった。彼の周囲に控えていたのは、シナリオライター、カメラマン、照明係で、いんぎんな態度を決め込んで、わたしを誘導したのは、「ノンちゃん」の付き人、兼コピーライター志望者のワダちゃんである。

「ノンちゃん」のたっての願いで、リクエスト曲として覚えて歌うことになったのが、1969年にイタリアのサンレモ音楽祭で16歳のジリオラ・ティンクエッティが歌って大ヒットした「la pioggiaー雨」。

 http://www.geocities.jp/spacesis_pt/homepagepictures/pictures/icon/onpu.gif sulgiornale ho letto che
  il tempo canbiera le nuvole son nere in chielo e
  i paseri lassu non voleranno piu
   chissa peruche

空には黒い雲、天気は変わると新聞では言ってるけれど
雨が降っても わたしの気持ちは変わらない。
まったく変わらない
  
と、実は恋心を歌っているのだ。

レコードを買い、イタリア語を耳で覚え、楽譜を探し出してビアハウスに持ち込み、アコーディオンのヨシさんに演奏を頼んで歌い始めたこの歌は、わたしの「リクエストが一番多い歌」になったのである。

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