私がライターになった理由……あの狭い部屋から出ないで生きていけると思っていた……

私がSOHO,在宅ワークという働き方を選んだ理由は、

・1か月に5日~10日も通院していると正社員になるのは難しいから

・私は人と接することが下手なので、できれば誰とも会わずに生きていたかったから


そして、ライターという職業を選んだ理由は、

・もともとホームページ・ブログを書いていたことがきっかけ(後述する)

・文章を書くのが好きだから

・ライター業は初期投資がわずかで済むから


私は大学生・20歳前後のころに、HTMLタグの使い方を練習するために、ホームページを作成した。どちらかというと「ホームページで表示される内容」はどうでもよく、タグの書き方を学びたかった。だから、初期に書いた内容は短い笑い話(セールス電話を撃退した話、など)、雑学(「こいのぼり」の歌で、お母さんが登場しないのはなぜか、など)だった。


そのうち、ブログというシステムが登場した。

理系の進路を選び、IT関係の仕事に強い興味を持っていた私は、「新しいシステムを使ってみたい」という気持ちからブログを書き始めた。この時も、ブログの内容よりも、「どういうシステムなのか?」「将来、発展性のあるものか?」を試したい気持ちが強かった。


その当時、情報処理技術者試験や工事担任者などの試験を受けていた私は、受験勉強に関するホームページやブログを積極的に閲覧し作者・受験予定の方々と交流していた。

インターネットが一般家庭に普及している、とは言えない時代。その時代に、時間と労力をかけてわざわざホームページを立ち上げる方は、その分野でかなりの知識を持っていて、熱心に趣味に取り組み、また裾野を広げたい思いもある方だったのだと思う。

どの分野でも、いきなり質の高い情報に触れ、また人生の先輩としても尊敬できる方に出会えたのがこの時期だった。


やがて私は、耳の病気で手術を受けたり、身内の介護があったり、そして自分自身が、自分の「人と接することの下手さ」に疲弊したこともあって、SOHOという道を選ぶ。


当時「ブログ本(ブログを書籍化したもの)」が流行っていたので、ホームページやブログがきっかけでライターになったというと「ブログ本を書いたの?」と聞かれることが多かった。でも、私の「きっかけ」はそうではない。


私のブログを読んでくれた人から

「私はウェブ制作の仕事をしているが、あなたにライティングをお願いできないか?」

というお誘いをいただいた。この人は、ご家庭の事情で仕事自体を降りてしまい、結果的に私が一人で仕事を請け負うことになった。そこから、私のライター人生が始まる。



ところで、在宅ワークの良いところは、介護・看病、子育ての事情がある人も、時間の融通が利きやすいということだ。

ただ、介護を受けている世代の高齢者には、SOHO、ライターなどの言葉は分からないことがある。報酬はネットバンクに振り込まれ、納税もインターネットで行う時代なので、現金でのやりとりをしているわけではない。

すると、高齢者から見て私は「仕事とは言いながら、一日中パソコンで遊んでいる、どうしようもない孫」ということになる。もしかすると「自分の介護のために、孫に仕事をさせていない」という負い目があったのかもしれないが、高齢者仲間に「孫はどうせろくな仕事をしていないのだから、介護に使ってもかまわない」というような噂が広まっていた。その噂を真に受けた人から頭ごなしに説教をされると、私の心には「介護も、仕事も、真剣にやった結果がこれなんだ」と拗ねた気持ちが広がった。

誰にも会わずに済むSOHOという働き方を選んだことに安堵し、心はますます部屋の中に閉じこもる。

メニエール病が再発し、主治医の先生から「聴力が落ちているよ」と言われた日には、「このまま聴力が落ちてしまえば、もう何も聞かなくて済む」と考えてしまったほどだ。


私は「仕事も、プライベートも狭い範囲で終わる人生」「居心地のいい部屋から出ないで暮らす生き方」を、すなわち悪だとは思わない。悪だとは思わないからこそ、私自身が「閉じこもるための仕事」を選んだのだ。


でも、私はどこかで「物足りなさ」を感じていたのかもしれない。

「もっと刺激を受けたい、成長したい」という思いが、いつからか心にあったのかもしれない。


私を部屋から引きずり出したのは、

・閉じこもるために選んだはずの「ライターという仕事」

・聴力が悪くなったために、縁遠くなると思われた「音楽という存在」

だった。


リーマン・ショックが起こった時期、金融・経済の分野で求められる原稿の量が増加した上に、私が仕事をあっせんしてもらっていた編集プロダクションでは「不景気で配偶者の収入が減ったので、ライター業をやめてパート・アルバイトなど安定収入のある仕事に変わりたい」という人が続出した。この時期に、私に押し寄せてきた仕事量について思い出すだけで、冷や汗が出るほどの大変さだった。

そんな状況だからこそ、私の聴力が悪かろうと、FP資格のうちほんの入口資格でしかない3級を保有しているだけだろうと、私はライターとして重宝がられた。

私のコミュニケーションの下手さや、心にある拗ねた気持ちがすぐに解消するわけではないけれど、仕事であれば「取材や、打合せをしている1,2時間だけうまくやればよい」と考えることができた。


「友人や恋人とは違い、24時間、365日ずっとうまくやり続ける必要はないのだ」

そう考えて、仕事に取り組むうち、しんどさや気負いは軽くなっていった。


そして、自分の殻に閉じこもっていた私は、自分から「聴力が悪くなったんだ」と友人に言うことはなかった(現在でも、全くその出来事を知らない人のほうが多いと思う)。

そんな事情をしらない友人から

「コンサートを企画したから、来ませんか」

と連絡があったのは、そんなときだった。

ところが、私のコミュニケーション下手が発動してしまう。今にして思えば、「カドを立てずにコンサートにも行かない」ための方便は、いくらでも存在する。しかし視野が狭くなっていた私は、そのことに気づかず、

「行っても、ちゃんと聴けなかったら、音楽家の人に失礼かもしれない」

「でも、『聴力が悪くなって……』と言ったら、誘ってくれた友人が気を遣うかもしれない」

と悩んだ末、断ることができないまま、当日、コンサート会場へ行ってしまったのだ。


しかし、このコンサートは私の転機となった。CDなどで音だけを聞くのとは違って、コンサートでは「場の雰囲気」というものを味わうことができる。「場の雰囲気」はかなり楽しかったし、また知っている楽曲の演奏もあったので、「既に自分の心の中にある音楽というのは、消えて無くなるものではなく、何かのきっかけでそれを再生して楽しむことはできる」と気づいたのも、このコンサートがきっかけだった。

これまで聞いてきた音楽が、心の中から消えることはない。これからだって、音楽の楽しみ方はたくさんある。ただ「これまでとは違う楽しみ方」に変わるというだけだ。


「これまで、積み重ねた経験や思いは、それが甘いもの、苦いものいずれであったとしても、消えることはない。無駄なことは1つもない」

リーマン・ショック時の苦しい時期を乗り越えて、仕事を続けていられるのは、肉体的・精神的なつらさを乗り切るパワーや技術が身についていたということかもしれないし、それまでに積み重ねた仕事があったから、ともいえるだろう。


私は今、あれほど閉じこもりたかった狭い部屋を出て、田畑や川が広がる地域の一軒家で暮らしている。

出張の機会も多くなり、東京でも広島でも、必要とあらば気軽な気持ちで出かけられるし、家に友人が来る機会も増えた。

資格を取ることは趣味の1つとなり、知らない世界のことを勉強する機会を与えてもらっている。


繰り返しになるが、私は「狭い範囲で閉じこもりつつ生きていく」という生き方が、悪いことだとは思っていない。そういう生き方のほうが魂の性質に合うという人もいるだろうし、無理に合わない生き方をして、幸せでない人生を選ぶことはないと思う。


ただ、私は「狭い部屋に閉じこもるために選んだ仕事」によって、広い世界に引っ張り出してもらった。そのことに感謝しているし、あの狭い部屋から出られたことを、心から「良かった」「幸せだった」と思っている。


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