私が感じるあの世とこの世の近さについてーPray for Peace

1 / 2 ページ


オカルトな話ではありません (^_^;)


私はよく死者に向かって心の中で語りかける、ということをします。自分の家族はもちろんですが、生前親しくて知っている故人に対してもそうです。これは誰に言われたことでもなくて、子供の頃からずっとやっていることなので、常にこの世とあの世との距離の近さを感じているのですね。気が付いたらそうだったので、これが普通のことだと思っていました。今でもそれは続いています。


いろいろと頼んだり、感謝したり、心の中の雑談につきあってくださるご先祖と、親しい亡き方々に心から感謝しております。おかげで私もなんとか毎日生きてきております(^_^;) 故人の存在は神仏よりもずっと身近で親しみやすいものなのですね。





故人と語る、語りかけるということ。自分にとってはそれが当たり前のことなんですが、実はそうじゃないらしい、というのはわりと最近知りました。ちょっと意外でした。そうか、みなさん知らないから死ぬのが怖かったり、死に対することに忌避を感じたりするんだなあ、と思いました。


その代表でもあったかもしれない父を、私が看取ったというのはやっぱりそれなりの意味があったということなのでしょう。

父は4年近い闘病の末、自宅で穏やかに息を引き取りました。最期の3日間は私も母もずっと父の手を握っていました。最期の一息まで見送ると、もう「ありがとう」という言葉しか出ませんでした。そういう穏やかな死でした。


看護師さんに「そういう方は今はもう10人にひとり以下しかおられませんよ」と言われました。そうだろうなあ、と思いつつ、亡き父もいまだそばにいてくれていると感じてもいますので、私にとって「死を思うこと、語ること」はごく自然なことで、忌避でもなんでもないのです。


死者に語りかけるというのは悟りの境地の一つであると、ブログのコメント欄で僧侶の方に教えていただきました。実はこれも私的にはよくあることなので、あまり特別な感じはしませんが…。


まあ、生きている限り、迷いも悩みもありますし、現世でも実にいろいろな方々に助けられて生きてるなあ、としみじみ感謝をするのですが…。看護師さんと話していると、「大変な人生でも、要所要所でうまくサポートしてくれる人に出会われますね」とのことですが、それは本当にそのとおりで、私は実に「人」に対しては恵まれているのです。恵まれすぎているくらいにありがたいことです。






今は一昨年と去年のネズミの被害以来、閉めていますが、うちの仏壇はそういう語りかけるための「どこでもドア」でした。


親しい人が亡くなられたとします。そうすると相手の方の宗派とか宗教に関係なく、まず仏壇の前に座って冥福を祈ります。感謝もお礼も全部告げちゃう。仏教じゃなくても神道の信者さんでもクリスチャンでも無関係です。ましてやうちの仏壇は日蓮宗のご本尊を返してしまっていますから、本当に単なる「場」でしかないのです。だから「どこでもドア」 (^_^;)


今はMacの前での方が圧倒的に多いですが…。臨時の祭壇にもなるうちのMac (^_^;)





死後の世界があるかないかは本当に人それぞれに考えが違うと思いますが、肉体の方は輪廻しますよね。分子や原子に分解されて、地球や宇宙を構成するものに戻っていって、ものすごく未来に、また何かの生物の中で再構築に使われるかもしれませんし…。いまのこの身体だって、太古の水の成分や、古生代の生物の一部が混じっているのかもしれませんし…。


あの世が存在すると思った方がいいなあ、と私が感じるのは、その方が今を生きるのが楽だからです。安心感もありますしね。子供の頃からずっと感じていたものを素直に肯定すればいいんだな、と思いました。神仏なんて特別な存在は必要なくても、それこそ親しい家族や故人を身近に感じているだけでものすごく安心するのですね。


で、万一死んで「無」になったとしても、「あ、しまった」なんて感じる暇がないですね。なにしろ即刻「無」だから後悔する間がない (^_^;) だったら「あるよ」と思って、そこから安心感と勇気と励ましをもらって生きている方がずっと素敵です。


生きている人と、亡き人と、たくさんの人に支えてもらっているから、死神の誘惑なんかには負けません。


みんなの読んで良かった!