高校で不登校・引きこもりだった女子が、就活を前にこれまでの2回の挫折を振り返る。

現在、大学3年生で就活をしているはるです。

わたしはこれまで2回の挫折を味わいました。今日はその挫折から学んだことをまとめていきます。



1度目の挫折は、高校2年生の時でした。


私の入った高校は、県内ではそこそこの偏差値の、いわゆる自称進学校でした。宿題は多いやら、文武両道に力を入れているやら、そんなところでした。中学時代の私は正直に言って、県内1番の高校に余裕で入る頭もあるくらい成績は優秀な人でした。けれど、進学校での「部活動をせずに勉強をしよう」や「学校祭よりも勉強をしよう」、「苦手を切り捨ててできるところだけを伸ばしていこう」という雰囲気が、なんだか鼻高々の天狗さんに見えて好きではなかったのです。もっと地に足ついた、努力と汗にまみれた環境にいたいと思って、兄の通っていた自称進学校に入りました。


入学して半年、担任との二者面談のときに言われました。「入試で10番以内で入った人は、今でもその順位を維持しているのに、はる、お前だけそこにいないぞwどうしたwwなんで勉強しないんだよ~」自分がそんなに学年で上位にいたことも知らなかったし、担任に期待されていたことも知らなかった私はその発言に驚いたのですが、そう、担任が言っているように、高校では勉強をしませんでした。


最初に書いたように、私は高校に”もっと地に足ついた、努力と汗にまみれた環境”を求めていました。私は勉強が好きだったのですが、中学校では勉強を楽しいとしている人が少なく、周りの似たような成績の子たちはみんな「内申点のため」や「好成績を取りたい」という成果や地位を獲得するのが楽しいといった感じでした。進学校向きの考えだったのでしょう。私としては純粋に学ぶことが楽しいと思っていたので、自称進学校であれば「みんなで勉強がんばろう!」「勉強楽しいね!」と言い合えると思っていました。兄や親、中学の先生からもそういった素敵な環境だと言われており、すっかり期待を胸に高校に入学しました。

しかし、現実は、違いました。学校に行けば「勉強なんてやりたくない~」「宿題だるい~」「テストやだ~遊びたい~」ということばかり言うクラスメート、「勉強やりたくないかもしれないけど、今やることがあんたたちの将来のためになるんだから、とりあえず宿題やって!!」と言う先生。(全ての人がそうではなかったものの、)よくある光景だなあ、思っていたものと違うなあ、これじゃあ中学校と同じじゃないかと思いました。学生としては、そうやって友達と一緒にグダグダしていること自体が楽しいという感覚があったのかもしれませんが、私にとっては幻滅の対象でしかありませんでした。

純粋に思ったんです。「こんな人たちと一緒に勉強したくない」って。独学でなんとかなってしまう頭を持っていたからこそ、学校で勉強する意味が分からなくなってしまいました。次第に成績も落ちてやる気も湧かず、上の二者面談にいたります。


”勉強を楽しむ青春”が叶わないと思い知ったかわりに、私は"友達と一緒に過ごす青春"を知りました。正直言って小・中学時代は友達と遊ぶよりも勉強をしている方が楽しいという感覚がありました。小・中学生のときは、お誕生日会やお買い物、地元を自転車でめぐったり、学校帰りに家に招いたりとか、色々な遊びを当時の友達としたりもしていたのですが、やっぱり行動範囲が狭く地元内でのつながりだったので、どこか物足りなさを感じていました。

そこに、電車で1時間かけて通った学区外の高校。知らない町で生活している子と仲良くなり、一緒に帰ったり、遊びにいったり、お昼を食べたてトイレ前で歯磨きをしたり。たわいもない一日を共に過ごすことの幸せを知りました。高校1年生は、私にとっての人生の一番輝かしい青春の日々でした。今でも当時の友達とは毎日連絡を取り、関東⇔東北という遠距離ながらもお泊まりをしたりしています。(素敵な共に感謝)



ああ、自分は無力なんだな...


そして、高校2年生になりました。当時の私は悩んでいたことが2つありました。一つ目が部活動のこと。二つ目がクラスでのこと。

部活動は中学でも行っていた卓球部に入りました。中学校では無法地帯のような卓球部だったので、まともな練習をしたこともなく、からっきし弱い自分でしたが、ただただ卓球が好きでした。高校でも続けて少しでも強くなれたらなあと思い入部しました。そこには他校でエースだった人や県で名前が知られている人など、レベルの高い人から初心者まで様々いましたが、ほとんど中学と同じような無法地帯。強くなるための練習などなく、部活動の時間は決められた時間に決められたことをするという時間でしかありませんでした。勝とう!という雰囲気は、口だけのものでした。まるで、厳しい中学時代の反動のように、そのゆるさを楽しむエースたちの空間ではあったのですが、そんな感覚がチームになりきれるわけもなく、「勝負事になればエースたちだけで勝利を収めてくれるから、試合に出たくないときは出ないし、出ても記念試合」なんてことを当たり前の現実のようにみんなが受け入れていました。

私はそんなみんなが理解できませんでした。本当の仲間って、そういうものじゃないよね?今の状態は馴れ合いなだけだよね?けれど、誰の心にも響きませんでした。

みんなのことが、大好きでした。本当に大好きだったからこそ、心から繋がれないことに辛さを感じました。

ああ、力がなくちゃ何もできないんだ、自分はなんて無力なんだと思い知らされました。



クラスでは、当時私のグループは5人で、1年生の時の人とは離れてしまいました。その5人は、私+A(同じ卓球部のエース)とB(私の1年時の友達と同じ部活仲間であった、隣のクラスだったダンス部)とC(Aと同中で仲良し)とD(Cと仲良し)という形でした。

私+Aが卓球部、Bがダンス部、Cがバレー部、Dが野球部のマネ(中学時代元ソフト部)という、運動部の集まりでした。しかも、私意外の全員がガチな運動をしてきたメンバーでした。なので、どこかそのテンションの高さにもついていけず、まして部活動で悩んでいた私は、Aとの関係にも不満を感じ、次第にこのグループに居にくいなと感じるようになりました。

中学時代などを振り返ると、もとからグループに属すというよりはグループを点々とする、今でいう”無所属女子”だったのですが、高校1年生のときに群れることに慣れてしまったため、一緒にいなければならないという束縛感を勝手に感じていました。

クラス自体が女子が8割という女子高並みの環境だったのもあり、温かい反面、自由にふるまうことができずに面倒なときも多々ありました。


そんなこんなで、学校に行けばクラスで居場所がなく感じ、放課後になれば部活動で居場所がないと感じる、そんな生活が始まりました。




誰にも会いたくない


きっかけは些細なことでした。一度寝坊して学校を休んでから、学校に行かないことが増えました。行ったら心配してくれるみんながいるのは分かっていたのですが、その分みんなと一緒にいる時間を楽しめない自分が許せないという罪悪感も感じ、どうしたらいいのか分からなくなっていました。

学校に行かず、だからと言って昼間に家にいるという罪悪感もあり休むこともまともにできない毎日が続きました。友達の連絡にもなんて返したらよいのか分からず、親切にしてくれる人を無下にする自分に自己嫌悪する日々でした。親も次第に私の変化に気付き声をかけてくれましたが、当時の私は親に弱い姿を見せることができない人だったので、親との接点を無くしたく、部屋にこもるようになりました。

ここから、私のひきこもり生活が始まりました。


一年前の青春がまるで嘘だったかのように、毎日が地獄のような日々でした。一日のサイクルとしては、夕方に起き、夜に親が置いてくれた晩御飯を食べ、家族が寝静まった夜中にお風呂に入り、朝になって家族が起きるころに寝る。お風呂以外は部屋から出ずに人との接触を遮断した生活でした。

唯一していたことは、ネットサーフィン。むしろ携帯をいじる以外のことをしていた記憶がありません...(笑)ネットでは、好きな漫画の二次創作を読んだり見たり、イメソンを聴いたり。そうやって、誰かの人生を自分の人生かのように映して考えていたところがあったのでしょう。何度も何度も、同じ話を読み同じ曲を聴いて、辛さを共感して、泣いていました。特に、黒子のバスケで、黒子が中学時代に部活仲間とすれ違い部活を辞めたという経緯に関しては、自分と重なるところが多くあり、よく考えていましたね。

そんな現実逃避を繰り返す毎日。たまに調子が良ければ一か月くらい連続で学校に行くときもあるのですが、寝坊したとか、テスト前に勉強が追い付かなかったとか、些細なことがきっかけでまたひきこもるという生活でした。部屋から出た自分は完璧でなくちゃいけない、いつからかそんな気持ちがありました。「笑顔でいられる時は、学校に行こう」そんな感覚でした。今までみたいにうまく対応できる時は親にその姿を見せることもできる、友達を心配させないで済む、だから、今までの自分を演じよう、って感じ。

でも、現実って厳しいですね。勉強がさっぱり分からなくなりました。当たり前ですね、そりゃあ勉強してないし教わってもいないのですから。高校2年の文系なんてほぼ暗記科目で、もとから暗記が苦手という点もあり、なにもできませんでした。元々理系脳だったところを、1年次に若気の至りで文系を選択しました。そのまま元気な状態であれば文系でもなんなくこなす自信もプライドもありました。けれど、今はそうじゃない。周りの文系のクラスメートよりも私は頭がよかったはずなのに、"暗記科目×引きこもり"という悪環境×悪環境により、クラスではいつもビリ。唯一勉強しなくてもできた数学だけはクラスでもトップの方に居続けましたが、それでも私の自尊心が削られたのは無理もなかったでしょう。


友達ともうまくいかない、本気になった部活動でもチームになれない、そして私のプライドでもあった勉強も落ちこぼれてしまった。出席日数もいつも足りず、長期休みには先生に頭を下げて単位をもらう日々。親も泣く。友達も泣く。先生も泣く。私も泣く。関わる全ての人を泣かせながら生きている意味も分からなくて、もう失うものはないと思いました。



ひきこもっているときは常にうつ状態で、一番にひどい時はベッドの上から一週間動かず、寝ると起きるを繰り返したこともありました。人って、ちゃんとした生活を送らないと、本当に脳が弱るんですよ、これまじで。まず、記憶力が低下して、ほどんど何がいつ起きたかなんてわからないし、今日何してたかもわからないし、覚えていることが夢なのか現実なのかもわからないって状態でした。そして、思考力も低下してました。部屋にいて寒いなあ、どうしようって凍えていたら、窓が開いていたことに1時間後に気付きました。「寒さをどうにかしよう」とも考えなかったし、「なんで寒いのか」も考えてませんでした。そういうものだと無意識に受け入れていた自分がいて、人の頭ってこんなにも変わってしまうものかとゾッとしました。


そんな日々の中、修学旅行や文化祭は張り切ってなんとか乗り越えていき、親が通信制の高校を勧めてきたり、私も大検を検討したり、流されるがままに高校3年の冬になりました。





大学に行きたい


もとから勉強が好きだった私は、中学生のころから大学に行って勉強がしたい!という気持ちがありました。それが、高校3年のときには、もう行くことが私の人生かのように、決められたものだと信じ込んでいました。

最終的に受ける大学を決めたのは私立は12月末、国立は1月末でした(締め切りとずれてたらごめんなさい)。そんなこんなで単位が足らないくせにご立派に大学受験をしました。今思えば、受けるだけでもお金はかかるし、労力もかかるし、どれだけの人に支えられていたのでしょうね。

志望大決めは先生と県外で一人暮らしをしている兄に、金銭面はすべて親に、日程やスケジュール管理、受験の流れなどの管理はすべて兄に、そして勉強に関しては、一番苦手だった英語を既に推薦で受験を終えていたAに一緒に勉強するという時間をつくってもらい、やっていました。

本来なら、単位も出席日数も足らなかった私は、学校の方針で退学にさせられる予定でした。卒業は認められない、と校長にも言われました。私と同じ状態の同級生もすでに大検に切り替えて退学していました。それでも、担任やお世話になった先生が、いろんな先生に頭を下げていました。「はるを卒業させてやってください」そう言って、頭を下げていました。それをどこか他人事のように感じながら、私は、素直に、卒業したい、大学に行きたいと思いました。


そのまま、私立は大正大学をセンター受験、専修大学・神奈川大学を兄の住んでいる関東圏で宿泊させてもらい地方受験、中央大学を東京に一人で宿泊し本校舎で受験しました。

中央以外は無事に受かりました。さすがに中央は勉強不足もあり、専修も神大も国語の時間に居眠りしてしまいました...(笑)良い意味で昔の勉強にプライドを持てていた自分の感覚を持てていたんだと思います。

そして、国立大学は、高校1年時には千葉大学を狙っていたのですが、引きこもっていた私には雲の上の存在になってしまいました(笑)ただ、当時の私の頭の中には、そのレベルに行かなければ私はダメになってしまう、というような脅迫概念もあり、どうしてもそれ以下の大学に行ったら自分は負けるんだと考えていました。プライドが折れてしまいそうだったんだと思います。その後、何度も何度も先生に説得され、レベルを下げ、現在の福島大学に辿りつきました。最終的な選択肢としては、群馬大学の情報系の学部か福島大学の行政系の学部かになりました。群大は二次が数学だから、福大は二次が小論で難しくないからという理由でした。悩んだ結果、恩師から「お前には、群大に行ってPCの前でカタカタやるのではなく、福大で広い世界を見てきてほしい」という一言で決めました(群大批判ではありません、あくまでも言葉のあやです)。


そんなこんなで、引きこもりだった私は現役で福島大学に合格し、無事大学生になりました。

いつの間に引き込もりでなくなったかとか、正直よくわからないんですけど、たぶん、「受験」という大きなやるべきことが与えられたから、取り組めたんだと思います。そしてそれをこなすことで、新しい環境に移れる、またやり直せるという、目に見えた変化も得られることがきっかけだったのでしょう。



幸せにならなれけばいけないとは、なんと恵まれた義務だろうか。


わたしは、無力でした。だからこそ、大学受験のときに私を無条件で支え頼らせてくれた数多くの人たちの存在が、当たり前ではないことを心から感じることができました。本当に思いました。私は一人で生きているのではないんだな、と。

受験が終わり、高校も卒業したあと、「あれだけ悲しませて迷惑をかけた私を受け入れて、愛して、力を貸してくれた人たちのために、私は何ができるのだろう」と考えるようになりました。


「私が幸せであること」それが私の答えでした。

見返りを求めた行為だったわけではない、無条件に愛を与えてくれた、そんな人たちは私の笑顔を心から喜んでくれていました。だからこそ、無力だからこそ、役に立つこととか相手に貢献することとか、そういう利益を与えるのではなく、まずは、「くれた恩をしっかり受け止めたよ、私はあなたのおかげでしあわせになれたよ」と伝えることなのだと思いました。

それ以降、大学生として生活するうえで、やはりまだ部屋にこもったりうまくいかない時もありましたが、次第に”自分自身を幸せにすること”を優先していくことができるようになりました。


これが、私の一つ目の挫折、そして学んだことでした。

引きこもり不登校だったからこそ、周りの存在の大切さ、そして自分を幸せにする大切さを知りました。




2度目の挫折は、大学3年生のときでした。

これは、本当に数か月前のお話です。


大学に入ったばかりのころ、私は何か打ち込むものを求めて、(性懲りもなく(笑))大学の卓球部に入部しました。今度こそ、大学でも部活をやるくらいなら、本気でチームとして動く人たちが集まるだろう!そう考えていました。

入ってみると、男女の仲はギクシャクしているやら、女子の先輩は4年生1人(初心者)、3年生2人(強くない)+編入性(インハイ経験者)、2年生0人、1年生1人(私のみ)というカオス環境。そして、監督はおらず、顧問が誰かも分からない(この点は中・高以下でした(笑))練習も時間とやることだけ決めるので、各自でやってくださいという丸投げ。


環境としてはひどかったですね(笑)もっと厳しい環境を求めていたのに、やっぱり地方大学の部活だなあということを思い知らされました。

それでも、良い先輩に恵まれたので、一生懸命がんばっていきましたが、どこか女子内でも男子内でも部活全体でも、各自が本音で話せていない状態が続きました。それでも仲良しで、プライベートや恋愛ごとでは仲良く楽しんでいました。私も学校に行って暇さえあれば部室にいるという状態でした。仲良しでクリスマス会や誕生日会、飲みに行ったりなど、たくさん遊びました。でも、でも、それって馴れ合いなだけじゃないのかな。わたしたちは一番に試合の場で絆を確かめ合うものじゃないのかな。そう思ってもやもやしたまま、2年生になりました。


実質、女子部員は私のみ。なんという難しさ。そこに、編入性として3年生の県ベスト8まで行ったことのある先輩が、ツテで入部しました。けれど、この人が少し癖のある人で。

私は入ってほしいって言われたからやっているという感覚が強く、練習も「はるが行くなら行く」というスタンス。私の遊びに付き合ってくれているかのような状態でした。

それなら、辞めてしまえばいいのに、と思いながらも、実力はある、男子からも人気という中、どうしたらいいものか分かりませんでした。たくさん話し合ったりした結果、それでもうまくいかないことに気が付き、もともとなんのために部活に入ったのかを整理したところ、「チームとして部活を一生懸命にやりたい」という点だったのを思い出し、その夢が叶わないならと退部。(少し無条理だとは思いましたが、それでもなあなあで続けることよりはお互いのためになると信じての決断でした)




運命の出会いでした


そんなときに出会ったのが、あるNPOの団体。ここでは名前を伏せさせていただきます。学生にインターンシップを提供する活動を主としている団体なのですが、知人からそのインターンシップに誘われました。

最初は「めっちゃ怪しい(笑)」と思ってググったりしたのですが、話を聞くと割とまともそう。そもそもどんな団体なのかに興味を持った私は、知人のスタッフとしての活動に付き添わせてもらって、ミーティングを見学しました。

一言、こうやって1人1人の強みを活かしてチームとして最大の結果を出すために動くという環境、まさに私の求めていたものだ、と感じました。入る理由には申し分ない、決心はその場でつきました。

「うちの団体は辛いよ、それだけは覚悟できるかい?」と何度も言われましたが、むしろ辛くない状況って本気じゃないんじゃないかって、経験上思ったので。「辛いことをしたいんです」そう答えたのを今でも忘れられません。

(後日たくさんの人に「ドMなの?w」と突っ込まれましたが、それこそ、チームは簡単にできないからこそ、辛いことを乗り越えた先にあると分かっていたので、「もうそれでいいよ!」と笑っていました(笑))


高校の部活でも大学の部活でも、メンバーのことは大好きなのに、馴れ合いになってしまって本当のチームになりきれていない、その悲しさに自分の無力さを感じていました。また同じことを繰り返しているな、と自己嫌悪もしていました。

けれど、この団体に出会って、仲間の存在の大きさを知って、チームの素晴らしさを体感しました。



私が入った時期が区切りの悪い途中の忙しい時期だったので、基本的に仕事がなく放置状態で、自分としてもいることが辛いときもあったのですが、それでもたくさん連絡をしてくれたり、仕事を絞り出して与えてくれたり、忙しいはずなのに不安なことや聞いてほしい話を親身に聞いてくれたり、一緒に仕事しよう!と会う約束をしてくれたり、コミュニケーションとして泊まりに来てくれたり。チームを体感させてくれました。

なによりも、当時の私の所属する支社のトップが、「俺は誰一人、見捨てない」と言い、まさにそれを体現する方でした。私の人生を変えてくれた恩人です。

今まで、高校部活でも大学部活でも、部長から見捨てられてばかりだった私は、ミーティングで彼がそう言ったときに、ひっそりと泣きました。その覚悟の重さ、大変さが分かるからこそ、受け取る側がどれだけ嬉しいものか。本当に、心から「この人に出会えてよかった」と思いました。

ここでは、本気になっていいんだ、本気になれる団体なんだなあ、そう思えました。当時の輝きは今でも忘れられません。私の生きる糧となっています。




悲劇ではなく喜劇を


それから、時が過ぎ、上の層が抜け、新たに下の層が入ってきました。代替わりですね。新しいメンバー、新しい環境になってからは、ばたばたした毎日でした。もともと、この時期は経験値の低いメンバーしかいない状況になると分かっていたので、覚悟はしていたのですが、それでもまだ全体の流れすら見ていない経験値0の私が、少し早く入っていたという理由だけでついていくのは無理なことでした。少し、頑張りすぎていたなあという振り返りがあります。他人に頼るのが下手だったんですね。

そんなこんなで、新たなチームは他人に頼るのが下手な人が集まったかのようなメンバーでした。そこで、本音で話すことの難しさ、チームでいることの大変さを改めて体感しました。少し前が嘘だったかのように、どうしたらいいのか分からなくなっていました。それは、私個人の話ではなく、このメンバー内で起きていた事実で、私はどうしてもそれを変えたいと思いました。「もっと、私たちは寄り添えるはずだ、そんな奇跡を私は教えてもらったから、だからこそ、このまま悲劇にはしたくない」、そんな覚悟でした。

けれど、まだ仕事自体うまくできない私は、結果主義の今のメンバーに気持ちを伝えるのを戸惑ってしまいました。私こそが、怯えてしまった。相手を受け入れたいと言いながら、拒絶されることが怖く、自分を開示できなかったのです。本当に自分の弱さを感じました。そして、それからは、何もかも捨てよう、全力で立ち向かおうと決めました。

この事件以降、私はプライドも捨ててなんでもやったし、理不尽でもたくさん謝ったし、非のない責任もたくさん背負いました。相手を拒絶することだけは、絶対にしないと、身を投げたしました。

けれど、状況は悪くなる一方。トップは情報を開示せず上層部だけで判断・決断がいつの間にか行われている状態で、流れについて来れない人は切り捨てる、どんどんそんな環境になっていきました。



私は、仲間ってなんだろうと思いました。腹の底を探り合うことが、仲間なの?相手を都合良いように動かすのが仲間なの?ついてこれないのはすべてその人のせいだとすることが、仲間なの?

そう思ったときに、この仲間を切り捨てる環境に身を置いていたら、私自身が壊れてしまう、素直にそう悲しみを持てました。一つ目の挫折で学んだように、私は一人では生きていけない、今いるのはたくさんの人の愛によって生かされている、だからこそ私は幸せにならなくてはいけない。そう思い出したときに、素直に辞めようと決断できました。

この団体について悩むことで、バイト先の人にも迷惑をかけ、学校にも行く気になれず、親にも友達にも心配をかけてしまっていました。まずは、そういう私を大切にしてくれる人を大切にできないのであれば、私を大切にしない人のことすら大切にできないと思い、もっと支えてくれている人に目を向けようと思いました。

仕事をしていく中で、目の前の人を幸せにできない人がまだ見ぬ人を幸せにすることはできないということを実感しました。目の前の仕事をこなせない人が夢を語る資格がないのと同様に。だからこそ、しっかりと現実を見据えることを、私は学んだことを、仕事ではなく人生にアウトプットしてもいいのではないかと考えたんです。


ここから、新しい人生が始まりました。私は、私のやりたいことをする人生にしなくてはいけない、そう思い、すべてを整理しました。

まず、持ち物から、断捨離を行いました。参考にしたのは(後日流行っていると知った)ミニマリストの本だったのですが、「今、必要でないものは、いらない」という考えのもと、家の中のものを半分ほど捨てました。それと同時に、思考の面でも、エッセンシャル思考を学びました。自分にとって何が大切なのか、どうしても全部を選ぶことができないから、「より少なく、より良く」という考えのもと、より最大幸福である選択はどれかを考え、他を切り捨てるようになりました。






どうして私はこんなに苦しむのか


これが、ここ一年間の流れでした。団体を辞めてからはもうすぐ4か月が経とうとしています。

ただ、いまだに、団体のことが忘れられません。ずっと苦しみました。私は、どうしたらよかったのだろうと考えても時は戻らないし、あの場での私にとってのベストな選択だったと思っています。そう考えて進んできました。でも、どうしても苦しいんです。

たくさん苦しんだ結果、分かったんです。理屈じゃなくて、無理だったとしてもそれでも私は、もっと、頑張りたかった、仲間を見捨てたくなかったんだと。


結局は、理由をつけて逃げたかったのです。自分の無力さを証明したかったのです。逃げることが悪いとは思いませんが、本当にしたかったことではなかったのでしょう。

「もうこれだけがんばった、それでも私はダメなんだ、だから許して」と、誰かに問いていたような気持ちでした。

だからこそ、もう環境のせいにして逃げないと決めました。私は、無力かもしれないけれど、それでも、どうにかしてみせる、そんな覚悟を絶対に持って逃げないと、絶対に仲間を見捨てないと、心に誓いました。


これが、私の二つ目の挫折と、学んだことです。

仲間を見捨てた私は、どんなに理由があっても無理だとしても無力だとしても、血反吐吐くまで絶対に仲間を見捨てない人になる覚悟が、自分の中に生まれました。




最後に


結局、何を伝えたいのかと言われると、正直自分でも整理しきれていないのですが...。

挫折って、すごくつらいと思います。人生が変わるレベルの話だと思います。けれど、挫折から立ち治るときは、必ずそれを支えてくれる人がいるはずなんです。私の場合は、1度目は家族や友達、先生など、2度目は最初の時の仲間の存在と、私を心配してくれた友達や周りの人など。人間関係で挫折したとしても、それを救ってくれるのもまた人なんです。

だからこそ、もしあなたが挫折に苦しんでいるのであれば、一人で抱え込まないでほしい。

一人で乗り越えなければいけないなんて挫折はないと思います。絶対に。だから、無理はしないで、誰かと一緒にゆっくりでいいから、挫折を受け入れられたら、それでいいと思うんです。


一人でも多くの人が、人の優しさに救われますように。



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