早稲田で人生を変える 第十回

前話: 早稲田で人生を変える 第九回

二浪時は勉強したこと以外の記憶がほとんどない。

過ぎてしまえば、あっという間であるが、当時は友人が青春を謳歌しているので、彼らとの接触はほとんどすることなく、孤独であった。クリスマスも予備校の自習室で勉強した。正月に家族で一緒に行っている湯島天神への初詣も行かず家で勉強。

神頼みは一切しない。


信じられるのは己の力のみ。


私は受験の経験から一切神頼みをしなくなった。だから、宗教も信じない。正月に毎年開催されているおじいちゃんの家でのいとこの集まりも行かず。女の従妹に聞かれたことがある「どのこ学校に行きたいの?」。「早稲田」と私が答えると、従妹は「大学で何をしたいかが大事だよ」と優等生のセリフ。この従妹はあまり聞いたこともない大学を出て、外国に留学し、外国語がペラペラだが、だからどうした。私は早稲田に行きたいんだ。早稲田でやりたいことを見つけるんだ。

二浪の受験本番は2月上旬から始まった。最初は明治学院大学の文学部だった。

私はナメていた。過去問対策をせず、英語でヒアリング試験がある明治学院の文学部英文科を受験した。

結果は補欠。そして、立教大学文学部英文科は不合格。

二月中旬にこの二校の結果が出た。親は、明治学院すら合格しないのに早稲田に合格できるわけないと思ったようで、さすがに焦っていた。だが、私には自信があった。明治学院はヒアリング対策をしていなかったし、立教は問題があまり自分に合わない傾向があったので、不合格の可能性は想定していたのだ。しかし、精神的にはかなりプレッシャーであった。合格を得ないまま、青山学院文学部英文科、中央大学文学部英文科、法政大学文学部英文科、明治大学文学部英文科、慶應義塾大学文学部を受験した。なぜ英文科を受験したかというと、漠然と学校の先生になりたかったからだ。影響を受けた人に先生が多く、そのためである。また、本当にどこも行けなかった場合のために東京経済大学経済学部を受験した。その後、早稲田大学第一文学部、第二文学部、教育学部、社会科学部、人間科学部を受験した。

結果、青山学院、慶應は不合格。

それ以外はすべて合格した。

一番最初に合格が分かったのは、中央大学。一校合格すると私も親も、4月から行き場があることに安心した。早稲田大学の合格発表は、掲示板を見に行った。一番最初に合格が決まった教育学部の合格発表では、早稲田大学16号館の掲示板で自分の受験番号を見つけると、静かにその場を立ち去った。一年前、早稲田の第二文学部が不合格となり、二浪決定したときに、自分の横で喜ぶ女の子を見て、自分が合格したときは隣に同じ立場の人間がいるかもしれないから、決して喜ぶのをやめようと心に誓ったことを実行したのだ。一度、合格発表を見た後、本当に合格しているのだろうかと不安になり、16号館から商学部方面に降りる階段を下りかけて、もう一度16号館に戻り、再度掲示板を見て自分の受験番号を確認した。やはり、番号はあった。そして、地下鉄早稲田駅に向かうために正門付近に来たとき、またまた本当に合格しているのか不安になり、またそこからUターン。大隈重信像を横切り、商学部を横切り、3度目の16号館の掲示板の確認をした。

やはりあった。
俺は早稲田大学に合格したのだ。

確認後、またまた正門付近んへ戻り、当時、正門近くにあった電話ボックスから父親の勤務先に電話した。当時はまだ、携帯電話がそこまで普及していない時代だった。勤務先で父親を呼び出してもらい、「早稲田に受かったよ」と伝えると、父親は「そうか、おめでとう」と言った。

一つのイベントが終わった。憧れだった早稲田大学に自分が行けるようになった。

憧れは努力次第で現実になるのだ。

偏差値30代でも早稲田大学に合格することができるのだ。

二浪の間、ボールペンで書きなぐった日本史の人物名は年号、漢字、英語単語のスペルなど、無印良品のA4判再生紙メモ帳を大量に処分した。

寂しかった。涙が出た。



そうだ、私の二年間はすごく充実した二年間だったのだ、わき目も降らず勉強に打ち込み、こんなに大量に書き込んだのだ。予備校のテキストも、ノートも処分するのが惜しかった。


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