落ち葉を見て「死」を悟ることで、死の問題が解決した話 第6回

前話: 落ち葉を見て「死」を悟ることで、死の問題が解決した話 第5回

解決


 どれだけ考えても答は見つかりませんでした。多くの時間を費やしても進展がないときには、そもそも死の問題は解決できるのだろうか。もしかすると、答えのない問題を考えているのではないかと不安になりました。しかし、解決するには考えるしかないのです。たとえ、考えても解決できないことが分かっていたとしても、考えるのを止めるわけにはいかないのです。

 そのような矛盾のなかで必死にもがいていると、しだいにかたの力が抜けて、気の向くまま興味の向くまま、答えを探すようになりました。

 そしてある日、これ以上この場所(居住している地域)で探しても、答は見つからないような気がしました。私は過去に一年ほど東京に住んでいたことがありましたので、どうもそちらに答があるような気がしました。

その後の顛末は自著の闘病記より引用します。


そう思うとさっそく、新幹線の切符を購入して東京に向かいました。車内は出張帰りらしきサラリーマンが大勢乗っていました。

 米原駅を過ぎる頃には夕日はしずんで窓の外は暗くなりました。新幹線は東京に向かってどんどん走り続けていきました。

 夕食に買ったお寿司を食べてビールを飲んでいると、東京行きの新幹線に乗って東へ進んでいることが、とても正しい行動のように思えてきました。それは大阪に出張した東京のサラリーマンが帰宅のために東京行きの新幹線に乗ることよりも正しく、隣の席のサラリーマンが食事時に食事をすることよりも正しく、まるで世の中全体が真実からズレている中で僕だけが(真実と)一致しているようでとても誇らしく思いました。

(中略)

 旅行日程は二泊三日、スケジュールは僕が東京へ転勤した時に降りたJR新横浜駅がスタート地点で、そこから電車に乗り換えて、以前に勤めていた会社の前を通ってから、当時住んでいたマンションをゴールと決めました。そのどこかで探しものが見つかるはず、という段取りでした。

 翌朝早くに目が覚めました。朝食付きの料金を払いましたので、食堂に向かいました。食堂といっても、一階の受付横の湾コーナーにパンやおにぎりが並べてあるだけでした。

 テーブルに着いてサラダを食べている時には、既に東京に向かっている時の興奮は冷めていました。本当に今日一日で見つかるのかなと心配になってきました。冷静になった時にそう思うのも仕方ないことで、スケジュールは行く場所しか決めておらず、何をするかということは実際にそこについた時の体次第なのです。

 しかしここまできて今さら頭で悩んでも解決するような問題ではありませんし、そもそも「体に聞く」とはそういう不確かなことを実行して後は直感にまかせることなので、とにかくホテルを出てスケジュールをこなそうと思いました。

 JR川崎駅から新横浜で乗り換えて目的の駅で降りると、町並みはまったく変わっていませんでした。それもそのはずで、僕が東京を離れたのはたった二年前のことでした。それでも、しばらく歩いてみると、経営が傾いてしまった昔の勤務先の建物には以前の面影はなく、別の建物を見ているようでした。噂は友人から聞いていましたが、実際に目の当たりにすると、過ぎてしまった時間の長さをあらためて感じました。会社には楽しい思い出がたくさんありましたので、窓に張られた立ち入り禁止の貼り紙の隙間から中をのぞいて当時を懐かしみました。昔の同僚がそこに立っていそうな気がしました。

 その後、駅前からタクシーに乗って、よく通っていたラーメン屋に行きました。入院中もずっと食べたいと思っていたラーメンの味は、昔のままでした。

 ラーメン屋からゴールのマンションまでは徒歩二十分でした。途中の酒屋でよく冷えたビールを買って歩きながら飲みました。

 マンション近くの小川まで来ると、石造りの腰かけに座ってビールの残りを飲みました、一年ほど住んでいましたが、こんな近くにビールを飲むのにうってつけの場所があるとは、当時は気づきませんでした。その頃の僕は、仕事に追われたり、遊びに行くのに気を取られていて、自宅近くの風景に目を向ける余裕がなかったのかもしれません。

 秋は深まって、川沿いの木は風にゆれて葉を落としていました。足もとの落ち葉をひろって指でもてあそびながら、川を眺め続けました。川の水はところどころで渦を巻きながら流れていきました。水は渦に巻き込まれながらも、先へ先へと流れていきます。

 それを見ていると、自分の中に一つの感覚がわいてきました。

 こういうのを何て言うのだろうと思いました。

「祇園精舎の鐘の声。諸行無常の響きあり。そう、諸行無常・・・」その後はなんだっけ。

 中学時代に、友人が得意顔で平家物語の冒頭を暗唱していたのを思いだしました。僕の知識はいつも中途半端なので、こういう時に「沙羅双樹の花の色。盛者必衰の理をあらはす」とは出てこないのです。

「諸行無常、一切は流れてゆく・・・」と胸の中でつぶやきながら、川の流れを眺めました。川は太陽を反射してキラキラ光っていました。とても静かな時間が流れていました。

 どれくらいそこで過ごしていたのか分かりませんが、気づくと足もとに枯れ葉がたくさん落ちていました。大量の落ち葉を見て、ふっとこう思いました。


 死は特別なことではなく自然なことだ。

 そして僕も自然の一部である。

 だから僕が死ぬのは自然なことだ。


それらの考えは、何の抵抗もなく溶け込むように一つになりました。

(中略)

これで東京旅行の目的は達成されたと思いました。その後、一応マンションの前に行きましたが懐かしいと思っただけでした。

(中略)

東京旅行の収穫に満足していましたので、翌日の帰りの新幹線の中では「あとは死の問題を解決するだけだ」と意気込んでいました。しかし、自宅に戻って数日が経つと、死についてほとんど考えなくなりました。もう少しで解決できる所まで問題を追い詰めたと思っていたのに、死を考えることが僕の中ではすでに必要のないことになった感じがして、考えようとしませんでした。移植日が迫っているというのに、エンジンがかからないので困ったと思いました。

        

 このような経緯で死の問題は解決しました。その過程に宗教色はありません。そのため、本文章ではこれを無宗教での死の問題の解決とします。

●コメント

「落ち葉を見て「死」を悟ることで、死の問題が解決した話」は終わりです。次回より「普遍的な解決とは何か」です。


著者のhataya kazunoriさんに人生相談を申込む

著者のhataya kazunoriさんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。