普遍的な解決とは何か 第4回

前話: 普遍的な解決とは何か 第3回

悟る


「どうしても死にたくないのだから、納得できるはずがない」闘病記の一文は正しいと思います。身体的に老化を実感しない年齢であれば、なおのことです。

しかし、どうしても雨が降ってほしくなくても、雨が降ることの自然さは受け入れることができるように、どうしても死にたくなくても、自分が死ぬことの自然さは受け入れることができるのです。雨と死では苦しみの次元が違いますが、自然現象としての側面であれば、どちらも可能なのです。

 例えば、今自分が子供だとします。明日の遠足は前から楽しみにしていました。雨天の場合は中止です。教室で授業が行われます。今夜は明日の晴天を祈りながら床につきました。翌朝、目覚めると外は大雨が降っていました。私は遠足に行きたいのですから、当然目の前の現実をうらめしく思います。心のなかは「嫌」の気分で埋めつくされてしまいます。しかし、そのような心の状態であっても、自然現象としての雨の降る自然さは、「頭」でなら受け入れることができるのです。実際にためしてみれば、ポイントが理解できるでしょう。

ただ、残念なことに、頭での理解はほとんど役にたちません。実際の場面で有効であるには、百聞は一見にしかずのように、体験を通じて体が「分かる」ということが必要なのです。そして、そのような理解の仕方ですから、気持ちを超えて、頭を超えて、「死ななければならない」と「死にたくない」の間の着地が可能になるのです。

 そのためには「すべては一つ」と言葉にすれば損なわれる「一」の感覚が必要です。周囲と親密につながる一体感によって、目にした落ち葉は仲間の死のように感じます。足元にひろがる多くの落ち葉(仲間の死)に、「自然界では特別なことではなく、ありふれたことなのだ」と気づきます。そして、「葉におきる自然現象(枯れる・落ちる→死)が、(仲間である)私におきるのは自然なことだ」と分かるのです。

このように自分を全体に含めた、私は自然の一部という視点から、自然現象を見ると、自然さで納得できるのです。

 

 闘病記には後日談があります。死の問題が解決すると、塩水のたとえ(注1)のように死の問題について考えようとしなくなります(注2)。

 問題を考える状況を台風だとすれば、問題を解決し、考えようとしなくなるのは台風の目のようです。風は止み、空は快晴で、不思議な静けさを経験します。しかし、それを台風の目と感じるのは、以前の状況の反動なのかもしれません。

 飛花落葉で死を悟る。それが『死を見つめる心』への回答であり、無宗教での死の問題の解決の一例です。


注1:塩水のたとえ

なんでも、研究したり、工夫したりすれば、すればするほど奥が深いものです。しかし、この道、仏の真実の道はそうではない。「ああ、これが事実だった」と気がつく。するとそれ以上求めることはなくなる。たとえば、「海の水というものはどのくらい塩辛いのかな」と考えている人に、誰かが塩水を持ってきて「これが海の水と同じ塩辛さの塩水だよ」といって飲ませる。するとその人は「ああこの辛さか」と知る。それが信じるということでしょう。

 でも「信じている」うちは疑っていることです。信じているうちは本当ではない。そのうちに越前の海水にでも行って本物の塩水をひとなめする。「ああこれが海の水か」とわかる。そしたら横浜でもどこでもさらに海の水をなめるきにはならない。求める気がおきない。

                               『生きててもいいかしら?』より

注2:考えなくなるのは死の問題であり、死ではありません。


●コメント1

理論的には悟ったものはすべて普遍的解決です。

●コメント2

「悟る」体験を再現するには闘病記の状況で何が起きたかを考察する必要があります。しかし、この問題を論じきるには、仏教・脳科神経学・鍼灸学・荘子を基にした壮大な世界観を構築する必要がありました。

●コメント3

「普遍的な解決とは何か」は終わりです。次回より「闘病記の再構築」です。



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