思い出のバスに乗って:梅の木のある家

後編: 思い出のバスに乗って:綴り方教室

子供の頃から今に及んで、失敗談には事欠かない。しでかしてしまった後に、自分でもおかしくて笑いのネタにするものもあれば、中には、恥ずかしくてとても披露できないものも若干ある。

しかし、こう言ってはなんだが、何十年も前の失敗談ともなると、失敗談の域を超え、これはもう殆ど自慢話に近くなってしまったと言う、昭和30年代、わたしが小学校4年生くらいの、今日は話である。

娯楽があまたある現代の世相からは、すっかり姿を消してしまっただろうか、弘前でのわたしの子供時代は専ら自然を相手の遊びが中心であった。

家の裏は畑になっており、その向こうは限りなく田んぼであり、小川が流れていた。稲を刈った後の田んぼは、跡がニョキニョキ突き出ていて、裸足で走ろうものなら、痛くて半べそをかいたものだが、それでも、その田んぼは遊びの格好の場所であった。

夏は6畳の部屋いっぱいに吊るす「かや」が、本当に嬉しかったものだ。
何が嬉しかったかと言うと、それをハンモッグ代わりにして遊ぶのであり、祖母からはこっぴどく叱れたものである。

かやの中に、裏の川べりで捕ってきた蛍を放しては、子供心に素敵なものだと感じ入った。今にしてみれば、短い夏の夜の儚い蛍の命、気の毒な気がしないでもないのだが、わたしが子供の頃は、蛍も赤とんぼも、今からは考えられないほど、いくらでも見かけたのである。そうして捕まえることを気にもしなかった。

ほうずきの中身を上手に取り出し、口に放り込んで鳴らすのも夏の遊びの一つだ。普段の日も長い休みの日も、寒い冬を除いては隣近所の子供達と何かしら自然の中から遊ぶものを見つけ出しては、日が暮れるまで遊び呆けた。

おかあさんごっこ、着せ替え人形などはわたしの性に合った試しがなく、2つ年下の妹を引き連れては、毎日のように、男の子たちといっしょになって遊び、ガキ大将だった頃だ。

この頃、「ターザン」を知ったのだ。
夢見る少女はターザンのように木から木へと飛び移り、「あ~ぁあーー!」と大声出すことに憧れた。
「そうだ!裏の畑と田んぼの境目に、大きな古い梅の木があるではないか!」
今の小学生と違い、当時の小学校4年生の頭など単純なものである。素晴らしいアイデアに酔ったわたしは、翌日近所の手下どもを引き連れて、早速決行したのである。

木登りはお手のものであったから、大きな梅の木にはスルスル上り、家から持ち出してきた縄で輪を作り二度巻きにして太目の枝に引っ掛けた。ここまでは小4の頭脳にしては上出来だ縄が体重の重みで切れるかも知れないのをちゃんと計算したのである。下では子分どもが心配そうに木を仰いでいる。

やおら、その縄にぶら下がり、夢見る少女は叫んだのだ、「あぁ~あーー!」
二度三度と枝を大きく揺すぶった。と、突然なぜだか分からないが、自分の体が土に投げ出されたのを感じた。2度巻きにしたはずの縄が、梅の木の枝からダレンと長く垂れているのが見えた。

右腕に激痛を感じ、なんとか立ち上がったものの、その痛みに耐え切れず「痛いよ、痛いよぉ」と腕を押さえて辺りを走り回る女親分。
子分たちはと言えばポカンと口開けて、冗談だとでも思ったようだ。しかし、親分の顔は、見る間に青ざめて行く。事の異様さに気づいた子分の一人が大人を呼びに走ったのである。

そのまますぐ近所にある下町の骨接ぎや(昔はこう言った)まで、祖母がわたしを背に担いで走った。
診断は右上腕骨折だった。鎮痛剤など処方されなかったその夜は、祖母と同じ布団で寝、祖母にしがみついて腕の痛みで一晩中泣いた。

治るまでの一ヶ月以上、学校へは当然行けず、腕を三角巾で吊るので洋服も着れず。一瞬ひらめいたターザンの夢はあっけなく終わり、親分はすっかり面目を失ってしまったのだ。

着物を着て右腕を吊るす、元気の薄れたあの頃の親分の、セピア色になった写真が一枚ここにある。

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思い出のバスに乗って:綴り方教室

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