無宗教で死の問題を解決する方法の性質について 第2回

次話: 無宗教で死の問題を解決する方法の性質について 第3回

永平寺



 高速道路をおりて一般道を走り、門前町を抜けると永平寺がみえてきました。永平寺とは、道元によって開かれた曹洞宗の大本山で、修行道場を兼ねています。時折見かける雲水は、観光客とは異なる空気を漂わせていました。ここの環境が彼らをそのようにさせているのでしょうか。さっそく拝観料を支払って、760年分の信仰心の染みこんだ建物を見学しました。

道元は「修証一如」という言葉を残しました。その意味は「修行と悟りは一体」なのですが、解釈をめぐって意見が分かれるそうです。ひとつの立場は、修行それ自体が悟りを体現しているのだから、悟りを目的とした修行を否定します。もうひとつの立場は、悟りを目的として我々は修行をしていると肯定的に考えられています。

話の構成上、本文章もいずれかの立場をとる必要がありますので、どちらが道元の真意に近いのかを考えなくてはなりません。


道元は「今ここにあるがまま」こそ禅の極意であると、悟りを開くことで理解しました。そして、それを体現するものが修行であるとして、修証一如と書き残したのだと思います。この部分だけを切り取れば、正しいのは前者です。しかし、後世の人間が「修証一如」という言葉を前にするとき、かつて道元が仏典を前にしたときと同じ構図であることを忘れてはいけません。

仏典のことばはその通りだったのです。そして、修証一如もその通りなのでしょう。しかし、それに納得するには悟りを開くという経験が必要だったのです。

このように道元の人生全体からすれば、解決を求める修行を否定するということは、若き日の自分に対して「仏典の言葉は正しいのだから、疑わずに信じなさい」と諭すのと同じことです。それで青年時代の道元は納得したのでしょうか。後年の道元はその態度をどう思うのでしょうか。以上から、本文章は「悟りを開くために修行をする」という後者に近い立場をとることにします。

永平寺の開山後、道元のもとには悩みの大きな僧がたくさん集まりました。解決を目指して修行にはげむ姿に、かつての自分を重ねたはずです。彼らが悩みを解決できることを願ったはずです。そのため、道元は自分のできる最善のことをしてあげたいと思ったはずです。そのように考えると、永平寺の修行メニューが悟りを開くのに無関係とは思えないのです。道元の提供できる最高の方法がそこに込められていると考えることができるのです。

つまり、悟りを開くことを「問題の解決」に限定した場合、死の問題を解決するには、永平寺の門をくぐるのが理論上、日本最良の選択と言えるのではないでしょうか。



 たとえば、会社の健康診断で悪いものが見つかって、死の問題を抱えてしまったとします。そして、諸事情からそれを解決しなければならないとしたら、無宗教の立場の人は、どうすれば良いのでしょう。

 ほとんどの人は病気になっても、生活のために仕事と治療を両立させなければなりません。たとえ、永平寺に入らなければ死の問題が解決できないとしても(覚悟の問題、時間の使い方の問題は別にして)障壁となるものが多いので、実際の選択肢にはなりません。

 それでは死の問題はどうするのでしょう。死の問題を前にして無宗教でいるということは、宗教という人類が長い年月をかけてつくりだし有力な解決と、日本で最良の選択と最高の方法に頼らないということでもあります。それでは無宗教の人は、仕事をつづけながら死の問題を解決できないのでしょうか。



 世界史ではアメリカ大陸の発見はコロンブスの業績です。しかし、ものの順序をいえば、後年アメリカとよばれる大陸は太古から存在し、人類はそのうえで生活をしてきました。つまり、人類はコロンブスが発見する前からその大陸を経験していたのです。それと同じことが悟る体験にも言えるように思います。

 それは「ひらめく」や「気づく」のように、私たちにもともと備わる働きで、何らかの条件がそろうと起こる現象だと思います。それに光をあてて「悟り」と命名したのがブッダです。仏教の先達たちの血のにじむような努力は、方法とそれを語る言葉を生み出しました。そのため「悟り」は仏教にしかありません。しかし、仏教でなければ悟る体験ができないわけではありません。仏教の「悟り」とは大海にうかぶ大陸の一つであり、陸地のすべてではありません。

もし、この考え方が正しくないのであれば、老子や荘子の存在はどのように説明されるのでしょう。『老子』や『荘子』を読めば、彼らの経験は、そのような体験であるように思えます。彼らはブッダに師事していたのでしょうか。生きた時代の近さと、住んでいた場所の距離を考えれば、独自の何かによって経験したと思うのが妥当です。

そして、老荘以外の例として、哲学者のマルティン・ハイデガーはどうでしょう。彼の思想の背景には悟る体験があったことは『存在と時間』でなくても、竹田青嗣氏の『自分を知るための哲学入門』を読めば一目瞭然です。 


ひとは死の不安を無自覚に抱えているために、われ知らず共同的、世俗的な世界の了解の中に投げ込まれている。だからそれをよく自覚すれば共同的、世俗的な世界了解から解かれる可能性があるという。(中略)世俗的、共同的な世界の了解の仕方から解き放たれれば「本来的」な了解がやってくる?ハイデガーはこのとき「良心の呼び声」が現れるという奇妙なことを言っているのだが、彼のこういう言葉はひどく説明不足なのである。


 悟る体験はコロンブスの卵に似ています。自分のものの見方の死角のところに、自然のあり方という広大な大地(比喩です。大地でなくても良い)を発見します。そして、自分はずっとこの大地に足をつけていた、ということに気がつくと「そうか。自然のあり方でよかったのだ」という転換が起こるのです。(あくまで一例であり、あくまで表現です。)

 ハイデガー本人に聞いてみなければ分かりませんが、そのような体験であったから「本来的な了解」という言葉を使い、そこから得た洞察を「良心の呼び声」と表したのだと思います。ハイデガーは仏教徒だったのでしょうか。

 もう一例、精神科医のヴィクトール・フランクルはどうでしょう。第二次世界大戦での強制収容所の体験をつづった『夜と霧』には、そのことが推測できる有名な一文があります。


 ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。すなわち人生から何を我々はまだ期待できるかが問題なのでは無くて、むしろ人生が何を我々から期待しているかが問題なのである。そのことをわれわれは学ばねばならず、また絶望している人間に教えなければならないのである。哲学的に誇張して言えば、ここではコペルニクス的転回が問題なのであると云えよう。すなわち我々が人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われた者として体験されるのである。


 コペルニクス的転回とは、ものの見方が180度変わるという意味です。それは、悟る体験の特徴そのものです。ヨーロッパの強制収容所で仏教が説かれていたのでしょうか。史実は分かりませんが、これら一部の例のなかに、仏教によらない悟る体験の可能性があると思います。



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